心が流血してても愛を叫んでたいとかそういう話。
いい人じゃなくていいんだよ。
なんて言わなくても無傷で生きていられる場所を、私はきっと、いつも探してる。
本当はいつだって、いい人でいたいんだよ。
本当は、いい人でいてもいいんだよって誰かに言ってもらいたいんだ。
闘争心だとか競争意識だとか、搾取のし合いだとか腹の探り合いだとか、そういった重いものを降ろせる場所をずっと探しています。
自然体でいることで偽善者などと呼ばれない場所をずっと求めています。
人を想う気持ちが弱みや隙にならない場所をずっと探しています。
自分の思想が綺麗事と呼ばれない場所をずっと探しています。
「優しい人が優しいままでいられる場所を」
なんていう言葉は、私のいる界隈ではすでにかなり使い古されたものであるのかもしれませんが、そんな場所をこんな私とてずっと求めていたのです。
私は偽善者と呼ばれることをとても恐れていたのかもしれません。
自分の気持ちに裏があるのではないかと疑われることがとてもさみしかったのかもしれません。
いい人の一面を見せることで自分の存在を食い尽くされるように利用されたり支配されて、過去にとても悲しい思いをしたのかもしれません。
こうして書いている今も「自称優しい人」「本当に優しい人はそんなこと言わない」などと どこかで聞いたことのあるような言葉が頭をよぎります。
でも、なんか「もういっか」っておもいました。
偽善者だろーがキレーゴトだろーが知るか、これがアタシだよって。
普段人一倍優しい顔をした人が優しくない別の一面を見せると言われる言葉があります。
「ほらやっぱりあの人は偽善者だった」
黙れ、とおもいます。
そういった矛盾とか多面性ってだれもが持っている。
優しいと思われている人がどんな時も一貫して優しい人である必要はないし、逆に他人には到底理解出来ないほど深い人類愛みたいなものを持っている瞬間があってもいいと思うのです。
優しいときもあれば残酷なときもあるのが当然で。
それは他人から見たら「すげー落差だなおい」というふうに映るのかもしれないけど、他人の感じ方なんてコントロールのしようがない。
自分が自分であることで疑われたり利用されたり失望されたり。
そうやってついた傷がまだ癒えていなくても、心の生傷から流血したままだって私は私のままで笑っていたい。
私にはなんの取り柄もなければ特技もない。
スゴいことも出来ない。
でも、世界に恋をする才能なら持っている。
この唯一の才能を、潰しちゃいけないなっておもうのです。
世界を愛することを止めちゃいけない。
なんかそんなふうにつよく感じるのです。
また傷ついてもいいかな。そのときわたしは大丈夫なのかな。
わからないけど、また傷ついても、誰かの笑顔でその人以上に幸せになれるわたしであり続けたいと今はおもうよ。
痛みを引き受けることはとてもこわい。
それでもわたしは、この世界を愛し続けたい。
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