おしゃれしてる方がダサいって風潮は1960年には存在していた

高い洋服やブランドものを買う、コーデにものすごく気を使う、、
普通、おしゃれであることやファッションが好きなことは素敵なことである。

服にお金を使う方がダサいという言説

しかし、中には洋服にお金をかけ過ぎることがダサいという人もいる。

曰く、ブランドの力に頼りすぎている、生活を切り詰めてまで買うもんじゃない、中身と外見が合っていない、外見よりも中身を体験にお金を使うべきなどなど。

こうした考えに基づく「ファッションにお金をかける人はダサい」という言説は、断捨離やミニマリストが流行った時期の2017年ごろから広く見られるようになった。

また「男性のファッションは結局、普通で無難なのが一番」という女性側からの意見やプチプラブランドの台頭も、こうした言説を後押ししている。

1960年にもそんな意見は存在していた

こうした考えはつい最近起きたことのように思えるが、実はそんなことはない。

ロラン•バルトの1961年のエッセイ。
日本語訳「宝飾品からアクセサリーへ」にいまに通じる考えが残っている。

「宝飾品からアクセサリーへ」の概要

文章のエッセンスをまとめると、

19世紀ごろまで、ダイヤやルビーなどの実際の宝石でできた指輪やネックレスなどは、権威や階級を示すもの、存在自体が魔力を帯びていた。
しかし、男性が宝飾品をつけなくなったのち、
木材やガラスなどでできたアクセサリーがファッションシーンに登場する。
アクセサリーは、ダイヤの宝石をまねる•似せるためではなく、洋服のスタイル•コーデを完成させるために身につけられている。
むしろ、ファッションが自由になった時代では、本物の宝石を身につけている方がこれ見よがしで悪趣味だとされた。

つまり、アクセサリーそのものには換金価値はほとんどないが、無いが故にアイテムの存在を主張せず、全体のコーデを支えている。

1960年と2020年を比較する

このお話の宝飾品とアクセサリーの関係を現在に置き換えてみると、

宝飾品→高い価格の洋服、ブランド品
アクセサリー→ファストファッション、頑張らない服

価格もコーデもシンプルな服がもてはやされるのは、1960年には存在していた考え方だと推測している。

おしゃれって調和が取れていること?

ここまでのことをまとめると、
おしゃれであるためには、どこか1つが主張してるのではなく、全体が調和されていなければならないことになる。

1つが主張すると、どこか着せられている、不釣り合いになってしまう。

主張せず、部品としてのアイテム。
部品そのものに意味はなく、コーデとなったときに総体として意味を持つ。
(どこかの企業がそんなことを実は言ってる。ロラン•バルトに影響受けたんだろうか。。)

この考えは私も理解できる。賛成する人も多いだろう。

だけど、服が好きな人や、服そのものに思い出や憧れなどの意味を見出してしまった人には、なかなか受け入れることが難しい話であるだろう。

コロナ以降の予測

外出が減って不況になるいま、ますます洋服のシンプル化は進むはずだ。

派手なファッションは、TVやYouTubeなどの舞台でのみ残り続けるのではないだろうか。

本の紹介

こちらのリンクは「Amazon.co.jpアソシエイト」のものです。
難しい部分もあるが、さらっと読めるエッセイもある。
デジタル版があればいいのにねえ。。


この記事が参加している募集

#読書感想文

192,370件

お金を稼ぐということが大変だということを最近実感しています。サポートいただけると幸いです。