見出し画像

ダフネのオルゴール第9話

出発前日の夕方、ムーンヴィレッジ行きのシャトルエレベーターの切符を念入りに確認した。そして小さな自室を見渡し、数年前に祖父がプレゼントしてくれたオルゴールに目を止めた。いざという時に素早く動けるように、荷物は最小限にするつもりだったが、私の手はオルゴールを迷いなく鞄の奥に押し込んでいた。

両親と最後に一緒に食べた夕飯のメニューは、まったく覚えていない。一刻も早く食べ物を胃袋に流し込んで、自分の部屋に戻りたかった。しかし不自然に見えないように、いつものペースで箸を動かした。永遠に終わらないかと思った無言の晩餐が終わり、皿を片付けようと椅子から立ち上がった時、向かいの席に座っていた父も立ち上がった。冷や汗が吹き出た。

「どこ行くんだ」

「……部屋に戻るだけ。宿題があるから」

「違う、家を出た後だよ」

一気に血の気が引いた。父のにやついた表情から、父は今この瞬間のために、あえて私の家出計画を見逃していたことを悟った。大股で近づいてきた父は私の頬を強く殴打した。

倒れて床に頭を打ち、痛みで状況を把握できない間に腹部に大柄な父の足が食い込んだ。一瞬息が止まったが、すぐさま足を折り曲げて急所を守った。手足にアザが増えていく中で、頑なに私と父を無視して食事を続けている母に目線で助けを求めたが、母は無表情のままだった。

リビングで意識が戻った時には、もう夜が明けようとしていたと思う。打撲で腫れた両足が痛くて仕方なかったけれど、耐えて階段を上がった。自室に戻ってすぐ、出発予定時刻までの残り時間を確認した。のんびりはしていられなかった。机の引き出しの奥に隠していたチケットと現金を急いで取り出して鞄に詰めた。一度引き出しを閉めたが、また開けて緊急用キットと印字してある小さな缶も引っ張り出した。すべてを諦める時のための注射器と薬剤をしまっていた缶だった。数秒迷ってから、私はその缶も鞄に入れた。

鞄を持って慎重に階段を下りて。一階にある両親の寝室のドアに耳をつけて、両親が眠っているか確かめた。母の寝息と父のいびきが聞こえたが、父のいびきはリビングから聞こえているようだった。足音に気をつけながらリビングのドアを少し開けて、中の様子を伺った。

テレビの正面に置かれたマッサージチェアの上で、父は眠っていた。だらりと垂れた右腕の下には父が時々飲む強い睡眠薬の包装シートが落ちていた。

深い眠りの海の底にいる父に、ゆっくりと近づいた。鞄を置いて缶を取り出して。静かに蓋を開けて、注射器に薬剤を限界量まで充填して。投げ出されている父の右腕に触れて、太い血管を探った。父が起きないようにと祈りながら。手の震えで何度か諦めかけたけれど、とうとう注射器の針の先が血管に入る手ごたえを感じた。父の様子を伺いながら、ゆっくり薬液を押し流して針を抜き取った。

注射器と空になった薬剤の容器を戻した缶を鞄に入れて、静かに家を出た。一度も振り返らずに、足の痛みを無視してひたすら走った。ムーンヴィレッジに辿り着くことだけを考えながら。

シャトルエレベーターの搭乗手続所に着いて、やっと深く息ができた。係員に怪しまれないようにトイレで身だしなみを整え、缶を捨てた。搭乗手続きを終えて、乗る予定のシャトルが来るまで休憩所の椅子で体を休めることができた。

家族や恋人、友人たちと抱き合い、別れを惜しむ人々をぼんやりと見つめた。その様子を報道しているカメラマンやレポーターに気づいて、俯いてパーカーのフードをしっかり被った。

シャトル到着のアナウンスを聞いてすぐ、逃げるように乗り込んで。雑誌で見た飛行機のような内装に感動しながら、自分の席に座った。ちょうど24時間後にはムーンヴィレッジに着くなんて、まだ信じられなかった。痣だらけの体を包み込んでくれる柔らかい座席が、眠りを誘った。あとは泥のように眠って。


目が覚めた。看護師や医師の姿がかすんで見える。「聞こえますか」という声が遠くから聞こえてきて、答えようとしたが言葉が出ない。必死に頷いて、意識があることを伝えた。

しばらくすると視界はクリアになった。声も出る。医師が耳元で私の身体の状態を説明してくれている。今朝の治験の処置後に意識を失ったこと、病は通常よりも早く進行しているらしいこと。同じような発作が今後増えていくようであれば、治験は止めて本格的な看取りのケアの段階に移ることを丁寧に教えてくれた。また頷くと看護師と医師の気配は遠くなっていった。

クレスとリンシャ。あの2人に価値ある何かを残すことが私の最後の希望だ。祖父のように誰かの空のプールを満たしたい。自分が父とは遠く離れた存在であることを、クレスとリンシャを使って証明しようとしているだけ。独善的でうんざりする。私は父親に似てしまった。

なぜ殺したのだろう。ムーンヴィレッジで必死に生活しながら、何度も考えた。考えるたびに疲弊するのに、考えずにはおれなかった。祖父を守るため?これ以上父を憎まないため?母を助けるため?都合の良い答えの岸辺にたどり着きかけては、また荒れた思考の海に身を投げた。繰り返していると波は小さくなり、私はただ海の中で呆然とするようになった。

私自身が納得する理由はどこにもないと悟ったのかもしれない。あるいは、もう理由なんてどうでもよくなったのかもしれない。突然母から手紙が届いたのは、そんな時だった。

父の死が自殺と判断されたこと、祖父が病気で亡くなったことが簡潔に書かれていた。倉庫整理の仕事で傷だらけになった両手で手紙を乱暴に丸めた。紙の折り目が手の傷をえぐっていたが、痛くなかった。手紙の後半には家族としてやり直したいと書いてあったような気がする。もうよく覚えていない。

れから1年お金を稼いで、私は地球に帰った。祖父とよく一緒にお参りしたお墓と、祖父の家に行くためだ。祖父の家は更地になっていたし、あのお墓に祖父が葬られたかどうかは分からなかったが、それぞれの場所で花を供えて祈った。それからすぐムーンヴィレッジに戻り、できる限り独りで過ごした。どこにも帰れない宇宙飛行士のような気持ちに浸っていたかったから。

深刻な病が見つかって余命宣告された時も、心境は特に変わらなかった。医師からホルスホスピスへの入院と入院費の免除条件である治験を提案されると、その提案をそのまま受け入れた。無駄な治療を省き、安全で快適なホスピスでの生活が保障され、同じ病の人が助かる確率を少しでも上げることができる。この選択は、私の人生の中で一番良い選択だったと思う。

扉の入出許可を示す音が鳴った。ドアの開け方で分かった。私の介護を担当してくれている人工知能体のアリサだ。満面の笑みで朝の挨拶をしてくれるアリサに頷いて、あのオルゴールを取ってほしいと頼んだ。


クロエの病室の前で、ちょうど扉から出てきたアリサと鉢合わせした。綺麗な長い赤毛をいつもお団子状にまとめているアリサは、今日も優しい表情を向けてくれる。

「おはようございますクレス」

「おはようアリサ。クロエの様子は?」

「もう大丈夫ですよ。意識が戻ってすぐの頃は少しぼんやりしていましたが、朝の支度が終わる頃にはいつもの調子に戻られましたよ。さすがに朝食は無理なようでした。後でバニラアイス持ってきましょう。好物なら少しは召し上がってくれるでしょうから。内緒で2人分お持ちしますから、クレスさんが食べさせてあげてくださいね。では」

ウインクをしたアリサは颯爽と歩いていった。時々、私よりもアリサのほうが人間らしいのではと思う。人工知能体専用の紺色の制服を着ていなければ人間と見分けがつかないだろう。静かに病室に入ると、ベッドに寝ているクロエが緩く片手を振って出迎えてくれた。



●ダフネのオルゴール第10話

●ダフネのオルゴール第8話

●ダフネのオルゴール第1話


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

お気に入りいただけましたら、よろしくお願いいたします。作品で還元できるように精進いたします。