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【詩人の読書記録日記】栞の代わりに 5月1日~5月7日

はじめに

こんにちは。長尾早苗です。
毎週末イベントが入ってきてうれしいこの頃ですが、ちょっと連休中は混みますので(テーマパークの近くに住んでいます……)家で色々なイベントや読書をエンジョイさせていただきます!

5月1日

5月になりました。4月は駆け抜けるように過ぎ、夏と冬が行ったり来たり。
今日はとことん考えたり、家で楽しめることを楽しみたいと思います。
低気圧はつらいですが、乗り切っていきます。
明日は第四詩集のまとめに入るぞ!

・フリードリヒ・W.ニーチェ 佐々木中訳『ツァラトゥストラかく語りき』河出文庫

わたしはとにかく早く読めてしまうので、そこは長所でもあり短所でもあるのかなと思っています。前職では教育機関の図書館新聞に文章を掲載するため、多くの本と選書に向き合ってきました。職業柄というのもありました。
今回ニーチェを読もうと思ったのは、オフの日にじっくり考えるため。
人間と精神、精神と肉体、そして「神」と呼ばれる絶対的な存在について。人間が「生きていく」とは。
書くときは「血で書け」というのは基本的に名を残してきた作家たちが実践していることだと思います。自分の肉体ニアイコール精神であること、今この時代では自分の精神(あるいは心)と肉体が乖離してしまっていますが、確かに一致しているときがあったようにも思います。
作家が何か感情や美しいものなどを文章にするとき、わたしたちはいつだって精神的なものを求めていますが、そうじゃなくて。ちゃんと「肉声」をことばにしなければいけないんです。それは身体的なことばが音になって精神的な「ことば」になる瞬間です。そういう意味でも、ラップや詩のテキストやリリック、そして音楽やオペラ、ミュージカルという「音」「声」「歌」というものは限りなくニーチェなどの言う「肉体と精神」というものに近いと思う。自分の身体から声を出す、考え方や生き方を出していくことにもつながってくると思うんです。
この本もそういえば学生時代に教会の牧師さんから教えてもらったなあ。今も読んでいらっしゃるのかな。
人間はすべてうつわで、「自分」をクリエイトしてくれたのは絶対的な存在であり、そのうつわをもっと広げていけるか、深くしていけるかなどは人間が計り知れないタイミングがあるのかもしれません。自分で作りだしたタイミングというより、計り知れない何かが待ち受けていて、タイミングですら作りだしてしまう存在。その自分という、うつわを満たさなければ精神世界も肉体の世界も豊かになりません。
人が生きていく時って、必ずと言っていいほど「這い上がろう」とするその瞬間からの5分間からなんじゃないでしょうか。だからこそ、ニーチェ自身をわたしは悲観主義者ではないと思っています。いつでも、人が歩き出すのは人生の「正午」であるかもしれないのです。一日の捉え方って、人それぞれ。それは人生というものも、そうなのではないかしら。
ぼうっとしながら読み終えた後、お茶をすすります。

5月2日

今日はラジオを聞いたり、第四詩集の原稿をまとめたりしていました。原稿をまとめる作業は、詩作とは違う頭の使いかたをします。
一応連休中ではありますが、祝日ではないのでフルタイム作業をしていました。今日はとにかく書くしかなかったので原稿執筆だらけの日。新作20編。ちょっと書きすぎたかな。実家に残している犬のことを思い出して、会いたくなりました。両親はわたしたちが巣立って、少しほっとしたのかな、とも。これからを楽しんでほしいと思います。
家族は、つながりが見えなくても、家族です。
また詩でつながった人と面白いことをする予定です。わぁ、連休の楽しみが増えました!
青木風香さんの『ぎゃるお』(七月堂)が気になりすぎて買いました。いいぞいいぞ~!

・萱野茂『アイヌと神々の物語 炉端で聞いたウウェペケレ』ヤマケイ文庫

2020年の新版になっています。
アイヌ神話は文字がなく、口承で伝えられていくものですが、まず「文字がない」ということについて考えていました。
萱野茂さんは第一人者でもう逝去されていますが、彼と彼たちが遺したかった「アイヌ(アイヌ語では人間)の昔話」は日本語訳として現存されているのがうれしいです。
ウウェペケレは心を洗うという意味も込められているようで、「語る」という行為において、語る側も聞く側も同時に心を洗うことができるから、相互作用のセラピーができるのかもしれません。
人と人が語り合う時において、何かを洗い流すことについてゆっくりと読みました。
今、アイヌの人々を扱った漫画もあるそうなのですが、不勉強を恥じます。まだ読んでいません……。
まだまだ、わたしも勉強ですね笑

・ジュール・ヴェルヌ 江口清訳『月世界へ行く』東京創元社

月に行くこと。
ロマンチックですね。もちろんまだわたしは月に行ったことがありません。ゴールデンウィーク中はそんな「旅」の物語もいいかなと思って選書してきました。この物語が書かれたころ、「ロケット」という概念はなかったのですね。「砲弾」と訳されているので、まだ「ロケット」というものが単語としてなかったのかなと思います。
それにしても、月に行った男三人がそれぞれの意識を持って何かと衝突するシーンは手に汗握りました。ある意味で極限状態に置かれているといっても過言ではないので……。助けてくれる町の人もいなければ、行政機関もありません。しかも未知の空間です。その中でどう生き抜き、生還してくるかを描いた作品です。

・アゴタ・クリストフ 堀茂樹訳『悪童日記』ハヤカワepi文庫

個人的にとても好きでよく読んでいます。
双子の男の子たちが戦争中にあくどいおばあちゃんのもとに疎開し、その中で手記を残していくんですね。
子ども、ということについて。冷徹に観察する目が彼らにはついています。大人より、ずっと多くを見ているし、彼らは自分たちの「怒り」とか「悲しみ」とは別に、人間であったり環境であったりをとても見ているんですね。
最初に思ったのは「子どもに向けられる愛」について。
わたしはこの子たちのような冷徹な観察眼を持っていません。彼らは母に愛されていますが、疎開中はいじわるなおばあさんに色々な意味で叩かれ続けます。ぼくら、ということ。
時代を生き抜くというより、子どもにとって毎日はサバイバルだと思っています。そこに「守ってくれる人」がいないとさすがに厳しいというか。
守ってくれる人がいてもいなくても、その日々を記録していないとやっていけない、そんな思いがあります。わたしは家庭について、とても恵まれていたと思うのですが、何を思ったのか記録し続けていました。でも、その「自分を見つめる目」というのが必要なんだと思い、またそこから視点を広げて「他者を見つめる目」も必要なんだなと思います。

5月3日

昨日はさすがに書き過ぎました……1日に20編も書くのはもうやめよう。でもまあ、金曜日からの3日間、たくさんのものをインプットしてきたので、どこかで爆発的にアウトプットしなければいけなかったんでしょう。
詩で繋がった知人と面白い企画をしています。これからも楽しみ!
ちょっと家にこもる時間が二日続いて、家の中のことも飽きてきたので、朝ドラのヒロインのように太陽を燦燦と浴びてきました。

若い才能が、詩の世界のなかでもどんどん燕のように飛びたっていきます。
わたしももちろん若いですが、同世代・年下の方の詩を読んで、時折その素晴らしさによって焦燥感に駆られることもあります。
わたし自身の詩歴は長い方だと思うので、ご縁でつながってたくさんの詩の仲間を作ってきました。それでも、これでいいのか迷う時ももちろんあります。わたし自身も伸びていくこと、そして、彼ら彼女たちと一緒に成長して行かないといけないなという思いもあります。

太陽を浴びて気持ちよかったなあ、悩みなんてなにもかもちっぽけなんだ。
たくさんの大人の詩人さんとも付き合いは多いのですが、わたしたちの世界はどれだけ長く生きて書き続け、どれだけいいと自分が思えるものを長くいくつも世に問うことができるのかということが仕事です。だからこそ、自分の中でことばが生まれるのを待ち続けることも、仕事なんでしょう。

5月4日

今日から祝日限り、活動のオフをとります。(とはいえマイペースで書いています、新作1編)近しい友人や家族がとてもこの連休中に忙しいので、たまった読書などをする、有意義な日々にしていきたいと思います。
先日のメリーポピンズが素晴らしくて、何度もロンドンキャストのサウンドトラックを聞いています。
熱中できることがあって、立てるステージがあって、そしてそれが大会としてある。朝ドラに勇気づけられている日々です。
午後はリーディング。1週間ぶりに読んで、本当に楽しかった。熱中できることに熱中したい。

・カミュ 中条省平訳『ペスト』光文社古典新訳文庫

これは、今の時代として読んでおきたかった作品です。
ペストも当時とても恐ろしい病気でした。そして、流行り病でした。
「この街にはきっと狂った人々しかいなくなる」ずっと続く、沈黙の日々と日々の混乱の中でいきなり環境が変わっていくこと。
本当は、街に出て何の用もないのに友人とおしゃべりに興じ、買い物をし、笑いながら歩く。そういったもろもろの「日常」「意味のないこと」自体が人間として当たり前の宝物であったといまさらながら気がつきます。
今もわたしたちは、このもやの出口を探して彷徨っています。
不条理文学と呼ばれたカミュの代表作ですが、こんなに不条理なことは確かに、ありません。
今は長い休みで、しかもテーマパークの近くだと何もかもが今の時代により退屈になってしまいます。
何かと気を使ってしまうのが苦しいと言えば苦しいです。
バスも渋滞して、図書館にも書店にも行けない。散歩をしようにも、どこでも人であふれかえる。
時代としてはそれはそこまで関係のないことなのかもしれないけれど、わたしの人間としての生活には支障をきたすのです。それでも、好きなことが家の中でできること・外でできること、どちらもあるので、今日は家バージョンと決めたらそれでいいのかなと思います。
また外に出て、笑いながら歩けるまで。

・本間洋平『家族ゲーム』集英社文庫

ドラマ化されていたこともあったので、いつか原作を読みたいと思っていました。
兄弟で違う生き方。学校・家という狭い空間は、とてつもないスピードで少年を苛んでいきます。
弟には勝っている、ぼくには取り柄がある。熱中できることがある。
そんな中で現れた謎の家庭教師ゆえに、弟は落ちこぼれからめきめきと成長して行きます。
そうしてそんな弟を見ている間に、兄である「ぼく」は熱中したいことを捨ててしまい、半ば「家族」というものが荒れ果てていってしまいます。
これは詳しい解説として、高橋源一郎さんの文章がとても面白かった。
この物語も「なんだかなあ」と兄に共感したり、壊れてゆく家庭の過程についてぞわぞわするものがあるのですが、そうか、リズムなのかと納得させられるものも出てきます。
そう、一番大事なものは「何かに熱中できるものを常に持ち続けること」なんです。
それは今はSNS上に現れなくても、いつかきっとどこかで、その世界に生きる人々に出会うことができます。
そして、少年少女にとっては「熱中できること」を探すのが一番つらくて、苦しい時です。でも、そこでもふんばって、熱中できることをみつけて、いつかそのために生きられるようになるから。
大丈夫なんだよ。

・ヴェルヌ 石川湧訳『地底旅行』角川文庫

現実世界に行き詰ったら、旅に行こう。
それが最近のわたしのモットーになっています。原稿を書くいつもの生活は、時折行き詰るものもあるのですが(わたしにだってあります!)それでも、数多くの本が出版され、数多くの天才と呼ばれる人々が本を残してくれていることは励みでもあります。
そういう意味で、過去に書かれた未来への小説や冒険小説を読むと、少しだけ心がすっきりとします。
地底旅行は、幼いころにあるテーマパークのアトラクションに乗って知りました。ヴェルヌを讃えた広場のようなエリアがあるのですね。
そこでたくさんの冒険をしたことを今更思い出したりします。
もちろんそのアトラクションは原作のオマージュのようなものなのですが、やっぱり冒険というものは心が踊ります。
地底で起こる手に汗握る冒険劇。そういったものは、退屈な仕事の日々の一時の逃げ口になったりします。
読書というものって、たぶんそういう「旅に出ること」を意識してすると、結構違うのかな、と思います。


5月5日

暦の上では夏となりました。
春はたくさんの方のご縁を感じていました。夏はもっと飛躍していこうと思います。
今日はあまりにも長く休みが続くとペースを崩すので、オンにすることにしました。
文学フリマも近づいてきて、わたしが寄稿した雑誌の編集のみなさまも動き出しています。楽しみにしていてくださいね。詩とショートショート小説、既刊ではエッセイを書きました。

文学フリマ前日にはKOTOBA Slam Japanのスターティングスラム、夏には第二詩集刊行、と何かとせわしないですが、ステージに上がる、もしくは著者さんたちと会えるこの日々をまずは大切にしていこうと思います。
今日は日本語の詩を英訳するオンラインワークショップをYouTubeで見ていました。
近々、世界の詩人とオープンマイクで盛り上がりたいなと思っています。
告知出来次第、みなさまにもお知らせしますね。新作1編。

・朝井まかて『銀の猫』文春文庫

朝井まかてさんは「時代物の女性」を巧みに描いている作家さんだと思っています。『眩』も大好きでした(葛飾北斎の娘の物語です)
女性が結婚生活から脱出してしまったり、それでも生きていかなければいけなくて、そういうあがきを現代にまで昇華しているんですね。
今回の作品はそんな中でも、お年寄りを介抱するといったケアをする女性を書いたものとなっています。
お年よりはケアが必要になったら、心も体も弱ってしまいます。でも、ケアする人がそばにいるだけで安心するというか。
でも、介抱人であるお咲だって一人の女性です。
自分の母親とどうしてもわかりあえなかったこと、母親が遊び歩いていたのを許せない自分が確かにいて。
そういう女性も現代にも多いですし、何かと人が生きていくうちにおいて、両親との確執は取れなくなってしまうのかもしれません。
そんな彼女が、どう生き抜いて、明日を生きるのかが描かれた作品です。

・永井荷風『濹東綺譚』新潮文庫

荷風についてはいつか読んで書きたいと思っていました。
わたしの高校の現代文の恩師の研究テーマだったのもあって、大学学生時代当初は読んでいた気がする……のですが、わたし自身は『断腸亭日乗』を読んで、なんてパンクなんだ……と思いつつ、ちょっと遠ざけていた作家でもあります。
この著書を読んで、やっぱり荷風は詩人的な才能もあったのではないかと思いました。彼の人生において、「書くこと」は「生きること」でもあったように思います。
『三田文学』の功績も素晴らしいと思います。アメリカやフランスに留学させられたのは彼に「文学者になる将来をあきらめさせる」ためだったのですが、逆に荷風は『あめりか物語』『ふらんす物語』で名をはせていきます。
この著書のなかでは多く出てくるのは女性との関係性です。
それは日常的なものかもしれませんが、常に「美」を見出していきたいという思いも強く感じます。
人は、常にさらされ続けます。それは身体的なものであったり、作品世界においての自分の生き方であったりします。それはジェンダーなどを問わず言われることであって、自分、という世界をもっと自由に他の人に愛されていいし、「自分」を表現することにおいて、荷風のように本当に「書くしかない」「表現することしかできない」という作家も多いのが現状です。
たぶんこの娼婦のお雪も「身体をさらす」という点でそうであったろうし、大江匡という人物をかなり荷風は自分に近づけて書いている気がするので、そういうことなんだろうなと思います。

・ジュール・ヴェルヌ 田辺貞之助訳『八十日間世界一周』東京創元社

中身もとても刺激的な「旅」の物語なんですが、最後の一行にぐっとくる……。
舞台はロンドンから始まりますが、エキゾチシズム、オリエンタリズムなどが多々モチーフとして用いられてきたのだなと思いを馳せます。
そのオリエンタリズムの中では、日本語圏での少しわたしたちとは違う見方をするのだなあとこの著書を読んで思いました。
ヴェルヌは非現実を描きますが、いずれそれが実現してしまうこと、そして時代と共に色あせないのは彼が「冒険への熱意」を常に持っていて、今の非現実の世界を描くものとは少し違っているからかもしれません。
「冒険への熱意」というものは非常に大事で、それを書き続けていったからこそ、ヴェルヌは偉大な作家になれたのだと思います。
日常があり、冒険があって初めて人は人として生ききることができるようにも、思うのです。

・青木風香『ぎゃるお』七月堂

インカレポエトリに所属していたころ、オンライン連詩というものでイベントに参加させていただきました。青木さんの詩を体全体で知ったのはその時が初めてのように思います。
とにかくことばで殴って、殴って、ひりひりとさせて。
そういうものなんです、精神のしなやかさって。
この表紙だと漫画のようでもあり、エッセイ集のようでもあるんですが、ちゃんと詩集で、最初に収録された「ぎゃるお」では笑わせてくれながらもつかみはばっちり、最後には切なさが残る。
なかなかことばにしがたい身体的な詩的言語に真っ向から立ち向かい、「何それ言っちゃいけないことなの?」と、読者であるわたしがミニスカートの20代前半の女の子に(もちろん彼女はピアスを3つくらい開けている)駅のホームの壁際で腕組みされながら言われている感覚です。こういうひりひりとしたものを、いつかかつてのわたしも書いていたし、そういう時期もありました。
とにかく青春! という詩集です。

5月6日

2日ぶりのウォーキング。わたしがウォーキングするのは毎日書くための体力をつけるためなんですが、連休中は混んでいたので避けていて、すごくつらかったです……。今日からまた日常という方もおられると思います。土日もゆっくり休んでくださいね。
気になっていた詩集が届いたのですが、今日はお休みの所が多い模様。
くう、まだ世間はゴールデンウィークなのかあ……。
ウォーキングしていたらお勤めに出かける方がいて心強かったです。わたしもがんばろう。今日は散歩しながら定型詩、句作をしていました。新作23句、推敲の余地あり。
今日はわたしの本棚より選書させていただきます。

・城戸朱理『漂流物』思潮社

頭をスッキリさせたい時、城戸先生の本を読みます。
城戸朱理先生の歩いていた海が鎌倉であったこと。あの海岸で、内なる声に動かされるように漂流物からささやかれてきた「声」を言語化すること。
わたしの詩は、そういった「外のものからささやかれてきた声」というよりは、まだまだ未熟で、「内なる声を言語化するしかなかった」というものにあふれています。
きっとそれは、城戸先生が見ている海と、わたしが見ている海が「同じなのに違う」ということもあると思います。
城戸先生が毎日見ている海は日常世界のものであって、わたしの海はほぼ非日常です。それでも、切ないものを感じる、幽かなものを感じるところはやっぱりあの海を見ていると同じなのかもしれません。
わたしの恋愛の詩にも、パートナーと共にいると「凪ぐ」という描写が出てきますが、不思議とそうなんですよね。心が、あの海岸にいるとどんどん平らかになっていく。また見に行きたいなあ。

・宮崎智之『平熱のまま、この世界に熱狂したい』幻冬舎

時折、宮崎さんのことばに触れると泣きそうになります。それは、「ままならない」という現実を「それでも生きる」と覚悟している語り手がいて、それは多分に書き手でもあって。そして、時折万葉集や宇治拾遺物語まで思考が展開していく。
そういう古典への眼差しと、「ことば」「現在起こっている事象」というものについての眼差しが、何かつながっているようにも思うのです。古典や「決して移り変わらないなにものか」について、観察している日々を送っていらっしゃるのかなと。
「決して移ろわない」というのは、この流行り病のなかでも芯を持っていて、軸を持っていて、移ろわない「弱さ」「人の心は壊れる」そういうことであったりもします。でも、それでもいいんだ、と。
時代も移ろい、残っていくことばはわずかで、いつか風化してしまう。それでも、弱さを受け容れるということが自分にとっての戦いということは、とてもわかる気がするんです。
わたしも未熟ながら、多くの人々が「何かになりたい」ともがく姿を見てきました。強くなりたい、という思いがそういう人々のなかには常にあります。だからこそもがき、苦しむのかもしれません。でも、わたしは今偶然と運が重なったのもあり、強くならなくてもわたしはわたしだと胸を張って言えるようになりました。
たぶん、今日明日のことのスパンで見ているから苦しいのであって、もっと人生スパンで考えると、「何かになりたい」と思って「何か」と出会うことが一番大事なように思うのです。そして宮崎さんはそれをそのまま実行していらっしゃるのかな、とも。
大丈夫、あなたにもいずれ、訪れる。

・北爪満喜『奇妙な祝福』思潮社

「人って毎秒がんばってる」(本文より)
無意識下で起こる、生まれてきたこと、やがて「家族」と呼ばれていたものを一つ一つ、ぽつりぽつりとなくしてしまうこと。
人は生まれてきて、いずれ終わりの時を迎えます。そういう意味で、すごくこの詩集は無意識下に働きかける。
生きていかなければこんな悲しみにも出会わないし、こんな祝福にも出会えない。
悲しみに出会うというのはそれとは同じ時間帯で、自分が「今生きている」ということに出会うということにも似ています。
人はどんな場所でも、どんな環境でも「それでも生きなくては」いけなくて。だから、「毎秒がんばってる」のかなと思います。

・茨木のり子『詩のこころを読む』岩波ジュニア新書

父の書斎にあって、小学生の頃読みました。今でもこの本に出会えていなかったら、わたしは詩を書いていなかったなと思います。
はじめに、谷川俊太郎さんの「かなしみ」という詩が出てくるのですが、わたしが今も感じている、「何かを唐突に忘れてしまったような感覚」って、こういうことだったんだと再確認しました。
そして、それは生まれてきて、わたしがまだ若いという証拠でもあるということ。わたし自身はライフイベントのようなものをだいぶ、経験してきたようにも思います。だからこそ、ちょっと落ち着いちゃっているのかな、とも思っていました。受験、入院、卒業、就職、恋愛、転職、結婚、新居、出版、うわあ、漢字二文字で表されることの偉大さよ。
それでもまだまだ体験したことのないこともあって、それに飛び込んでいかなくちゃいけないんだろうなと思います。
人生というものが登山だとしたら、わたしはまだまだ登山口にいて、峠というところまで達していません。茨木のり子さんはその人生というものを、さまざまなたとえを用いて、詩人たちの詩を引用していきます。
そこには彼女がすべて経験してきたことも用いられ、やっぱりこの人はすごいと思わされてしまうのです。

・『インカレポエトリ4号 鯨』七月堂

わたしたちの周りにはいつも、「理不尽」なことばかりです。でも、だからこそ、わたしたちはそれを吐き出そうとしてもがいて、何かに憤ってしまう。その「理不尽」と思う気持ち、誰かに、何かに憤る気持ちは常に、わたしたちの内部にもいきわたるものでもあります。
インカレポエトリのみなさんは、その「理不尽」をみんな思い思いの形で「詩」にしています。素晴らしいことだと思います。
大学生の頃、わたしが熱中していたことは3つくらいありました。
詩を書くこと、読書をすること、朗読すること。
社会人になってそのうち、熱中していたことが義務になってしまったり、逆に失われてしまったこともあります。
でも、今、30を目の前にして取り組むことはその3つです。精神のしなやかさはいつだって取り戻すことができます。
何度も詩のハードルにぶち当たって飛び越えて、やがて大きな海原へ漕ぎ出し、またハードルにぶつかって、また大きく飛び越えていく。
理不尽に憤ったら、詩を書く。あるいは創作する。
そういったことが文藝だと思いますし、そうじゃなきゃ人は詩を書きません。この世界にはことばが文字があふれています。
その中で、彼ら彼女たちがどうしても発したかったもの。それは、このページ数にも表れていて、ボリュームにも表れているような気がしてならないのです。

・『インカレポエトリ5号 燕』七月堂

悩みならあるよ、いつだって。
大人のわたしだってそうだし、きっと大学生のインカレポエトリのみなさんももっとあるかもしれない。でも、この号で本当に燕のように卒業させていただきました。
わたしたちを取り巻く「悩み」や理不尽について、限りなく「ムカつく」って言っていい時がある。それと、「ムカつく」と言えない時がある。
大人はみんな知らん顔して、わたしたちを限りなくゼロに近い生き物にしようとする。わたしたちも「大人」と「ムカつく」のはざまでもがくときもある。
そういう時に、ことばは優しくない。でも、詩は優しい場所だとわたしは思っています。ことばは「ムカつくあいつ」も使える。でも、使いかたが間違っているときだってある。でも、詩人になろうとしたらその「ムカつくあいつ」がわたしたちをゼロにしてきそうなときに、イチを作れるのです。
わたしはそういう意味で、「創造」という詩を寄せました。
詩人の道はけっこう険しい時もあります。でも、みなさんが自由に、いい意味で型破りでこの詩人の道を揺るがして、わたしたちの悩みや理不尽やムカつきをことばにしてくれている。
詩は、仲間を作るための場所です。あなたたちの詩を、もっと読みたい。

5月7日

昨日から早朝ウォークを始め、やっぱり気持ちがよかったのと、少し空腹になるとほてるということを繰り返し。
一人旅がやっぱり好きです。誰かとおしゃべりするのもね。

友人からメッセージが届き、本当にうれしかったです。地元の友達っていいな。
こういう時はとにかくおなか一杯に食べて移動!
と決めているので書物の旅。
なんとか一人旅もでき、近場でちょっとのんびりしました。


帰ったら歩きすぎで動けなくなり、ラジオを聞いたり読書をしました。
夕方には小学生時代の友人の担当するテレビ番組を見ていました。
夜までぐうぐう眠っていたけれど、なんとか礫の楽音、聴けました!
岡本啓さんがゲスト回です。なんだか安心して寝落ちしてしまいました。明日、また聞きます。新作1編。

・井戸川射子『する、されるユートピア』青土社

若さとか子どもとか青春って、常に「死ぬことへの恐怖」と隣り合わせにあると思うんです。
明日死んじゃったらどうしよう。今日明日スパンで考えているんですね。でも、そんな切なさがあったからこそ、未知のものに対する恐怖が多ければ多いほど、詩的言語は子どものある種危機的な言語の叫び、歌、そこに対するなにかしらの切り口を持っていると思うんです。
井戸川さんは小説も書かれていますが、「ニューワールド」というあとがきのようなものに近い詩編に与えられたのは、きっと生きることと新しいことと死ぬことの隣り合わせである、そんなひりひりとした言語感覚だと思います。

・茨木のり子『歳月』花神社

Yというパートナー。
わたしは、知ってしまいました。詩人には「歳月を重ねてなお、いなくてもなお、愛するしかない人がいる」ということを。
きっと、茨木のり子さんはYさんとの結婚生活がとてもよいもので、夫婦としての生活を、しみじみと愛していたのだなあ、とも。
年上のパートナーと、そして「愛する男」というものを超えた関係性。わたしもいい恋愛をさせてもらいましたし、すごく若すぎる時にそれを書こうとしてしまおうとしたので、まだまだ書ききれなかったところもあります。
わたしはきっと、一生をかけて幸せにしてあげたい人、そして一生をかけて一緒に幸せになりたい人、そうしてこの人と暮らせば幸せに生きられると思う人と出会えたんでしょうね。
そういう恋愛は、詩人を大きく成長させてくれます。若い時の恋は、楽しい。楽しいけれど、「永遠」というものを誓えるようになるまで、どちらかがすごく成長していないといけない。愛するしかない人。

・吉増剛造『我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ!』講談社現代文庫

吉増剛造さんはすごく、すごく、生きている伝説です。
わたしは吉増さんが生きているこの時代に生まれて、詩人になってよかったと思う。こんなにすごい人がこんなに、こんなに駆け抜けてきた生き方をしてきて、自ら燃える焔の中に手を入れ、火を手に入れた人が生きているということをうれしく思います。
燃える、ということと、預言、ということと、舞う、ということはすごくつながるんです。それは全て、狂気と共にあるのだけど、ある種の超能力というか、もっと言うと「人の中に現れる超自然的な能力」を持っているひとこそ、詩人として生き抜けると思うんです。
そういう人が、市井の中で生きていくのが難しいことは本当にわかりやすいと思います。とても生きにくい生き方をしているし、そういう感度を持っている人は生き抜くのが難しかったりします。
でも、そういうことができるひとは時折いて、そういう人々は書くしかないと思うんです。それが「声」となり、「文字」に落とし込むために散文の世界を離れて、詩へといざなう。
そういう狂気と共に生きているから、生きにくいけど、詩は優しいと思います。

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