見出し画像

宿題は早めに切り上げなくちゃだめですか

宿題の〆切というものに小さなころから追われていた。

大人になってみると、日々〆切というものに追われる。
仕事の原稿の〆切、平日の金曜日17時までの銀行の〆切、スーパーの開店時間、閉店時間……
そうしてみると勉強する時間の確保も、睡眠時間から逆算しないといけない。

以前、詩人の友人とお茶をしたときに笑いあったことがある。
〆切を守る人が最終的に生き残るのよね。
作家として、文筆業として、いつでも〆切より二週間早めに原稿を出していた。毎日なんにも言われなくても書いた。
必死だった。
自分が生きていくためにはお金が必要で、自分が生きていくためには書くことが必要だった。
そして、自分が生きていくためには宿題が必要だった。

勉強することが趣味だ。
今はギリシャ哲学の歴史に触れ、夏は東北大学の人間脳科学の授業をオンラインで受講する。
とりあえず暇があったら本を読むか水を飲んでいる。
よく、小さなころから週末には図書館に通っていた。絵本も何冊も読んだけれど、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』に夢中になって深夜まで読み通した。その「読み切る」感覚のすばらしさ、これを一人で読み切ったんだと思える時間は、わたしにとって特別だった。小学三年生の夜十二時だった。

夢中になれることがあっていいですね。
わたしの日々は、余生のようなものだ。
二十九歳のころ、十二歳から続いたそくわんの闘病が終わった。今三十一歳であるわたしは、合併症と一生付き合っていかなければいけないという使命を持っている。
それでも、合併症があったとしても人間というものは不思議なもので、成長したいという魂の望みは消えていないように思う。
それがわたしにとっての「自然」で、やるべきことのように思う。

さなえちゃんはね、暗示をかけすぎなのよ。
友人と原宿の「ハラッパ」でお茶していたとき言われたことだ。自分に自信がないから、写真を撮る。記録しようとする。
〆切を守る自信がないから、スケジュール帳に記録する。
ひととコミュニケーションをうまくとる自信がないから、イベントで接客をする。
人前に立つのも自信がないから、舞台で朗読する。
自分の声に自信がないから、何度も朗読してYouTubeにアップする。
自分の詩に自信がないから、たくさんの詩を書く。なるべくひとに見せる。
うまくなりたいと思う。
料理も、創作も、生活習慣も、お金の使い方も。
家族に誇れるようでいたいと思う。自分が詩人として生きることも。

芸能人みたいに派手な人っているよね。
そのひとことから、いったひとがぐーん、とわたしから遠ざかった。
わたしの友人には芸能界で働いているひともいる。彼女たち、彼らがどれだけ苦しい思いをしているのかわかっているのかと思いながら、三個ひとパック六十八円の納豆をかきこむ。

詩的に生きるとは散文的に生きることだ。
詩人は特に臆病で怖がりだと思う。だからこそ、すべてのことが真新しい。
日常に起きることすべてが知ったことであったほうが楽なので、あまり外に出ない。
それでも、詩を書き続けるということは生きることに直結している。

最近、いまさらながらアニメの勉強を始めた。
葬送のフリーレン、進撃の巨人、わたしが人生に悩んでみることができなかったアニメの数々。それらに〆切はない。
いくつものエピソードを三十分ごとに区切って、わたしの生活に織り交ぜた。食事をしているあいだ、料理をしているあいだ、制作をしているあいだ、その間にも卵の値段は変わり、小麦粉の値段は変わり、コーヒー豆の値段は変わっていく。
どうして。
どうしてこの物語が社会現象になったのか、どこがどういいのか、何を人は求め、どのような時代に求められていたのか。
文学の研究は時代と時間を観察することだ。
そして、管理するということは自ら宿題を課し、日課というかたちで日々書いたり観察することをやめないことだとわたしは思っている。

自分のこころ、日々変わっていく景色、そういったものすべてを静かに観察し、記録すること。
それは、もしかしたらいるかもしれない神さまのような存在から、人間が与えられた知の財だと思える。それは人間にしかできないことだ。

日々時間と戦う。しかし、有限で誰しも平等に与えられた時間を、大切にする。日々を質高く生きること。

今日も観察日記をつけながら、本棚が呼んでいる。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?