Reiko.A/東 玲子

ステージにも立つが、筆も執る。オカルティスト。ステージワークとしては、かつてMERZB…

Reiko.A/東 玲子

ステージにも立つが、筆も執る。オカルティスト。ステージワークとしては、かつてMERZBOWでノイズ演奏とヴォイスで活動。現在は動きながら声を出すのが基本。訳書としてパティ・スミス詩集「無垢の予兆」など。過去ブログwebdice.jp/diary/124

マガジン

  • 【萩尾望都】関連

    かつて私の一番尊敬するまんが作家であった萩尾望都。その萩尾望都の作品に関するあれこれ。やみくもに賛美してもしかたがない、という姿勢でたまーに更新。

  • 荻窪随想録

    自分が生まれた土地にまつわること、そして昭和のこと、変わったこと、変わらないこと。とても個人的ではあるけれど、すべての杉並区loverへ。随時更新中。

最近の記事

ポーの一族『青のパンドラ』第9回目の2と3――愛も感じられぬ

<flowers>の8月号に載った、9回目の2があまりに中身がなかったので、なにも書かないでおいたが、 二月待たせた最新号である10月号でも、見開きの表紙を含めて14ページしかなく、 かつ、「つづく」という文字はかろうじて最終ページの下にあっても、 その前、あるいはその後に、肝心の「○○月号に」がなかったので、 これはもう続きをいつまでに描く、という約束をできなかったんだな、と思い、 この話の続きがいつ載るのかがほんとうにわからないので、とりあえずここで2と3について少々書い

    • 荻窪随想録33・ダストシュートと、消毒車

      団地の燃えるゴミは焼却炉で燃やすことになっていたけれど、生ゴミはどうしていたのかというと、それは各階段の踊り場ごとについていた生ゴミ専用の投入口から、垂直型の空洞に放り込むようになっていた。 それのことは、みんな、ダストシュートと呼んでいた。どこでもそういったものは、そう呼ばれていたのらしい。 これの発案者はいったい誰なのか。上のほうの階と地上とを最も速く結ぶには、垂直に動く昇降機(すなわち、エレベーター)があればいい、という発想と同じく――荻窪団地には、特にエレベーター

      • 荻窪随想録32・団地の焼却炉での遊び方――ちょっと女子流か――

        10号館の西の端には焼却炉があって、住人は各々そこにゴミを捨てに行って自分で燃やすことになっていた。 すなわちそこはゴミ捨て場であり、焼却炉とは別に、缶や瓶や、焼却炉では燃やすことのできないような大きなものを捨てるコンクリートで造られたところもあったのだけれど、誰も「ゴミ捨て場」とは呼ばず、そこ全体のことを「焼却炉」と呼んでいた。そして、そこも子どもたちの日常的な遊び場であったことは、言うまでもない。 そこは、全体をブロック塀で囲んだ周りに、美観のためにアオキを植えていた

        • 荻窪随想録31・階段は遊び場であるとともに

          友だちに、子どもの頃は団地に住んでいる子がうらやましかった、と言われた。 それは、雨の日でも階段のところでみんなで遊べるからだそうだ。 でも、団地の子たちは、雨の日じゃなくても、いつでも階段も遊び場にして遊んでいた。 定番は、どうやらこれは全国的な遊びであるらしい「グリコ」だった。じゃんけんをして、グーで勝ったら「グ・リ・コ」と1段につき、1音ずつ発しながら全部で3段進み、チョキで買ったら、「チ・ヨ・コ・レ・エ・ト」と6段進み、パーで勝ったら「パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」と、や

        ポーの一族『青のパンドラ』第9回目の2と3――愛も感じられぬ

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        • 【萩尾望都】関連
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        • 荻窪随想録
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        記事

          荻窪随想録30・団地内での自転車遊び

          現在の杉並区の公園のルールで、子どもが自由にしてはいけないものの一つに、園内での自転車乗りがあって、 今はルールの見直し期間中だから、保護者のつきそいさえあれば、乗れるようになるための練習だけなら可、とはなっているけれど、 それ以外の乗り入れはやっぱり禁止だ。公園には自転車で入ってはいけないことになっている――まあ、都会では、今はほとんどはそういうことになっているんだろう。 自分が子どもだった頃である昭和3、40年代、そんな取り決めがあったかというと、もちろんあるわけがなく

          荻窪随想録30・団地内での自転車遊び

          荻窪随想録29・団地の子どもたち――と、ポッケリ――

          荻窪団地に住んでいた頃、小学6年生の時でクラスメートで同じ団地に住んでいた子は10人くらいで、それはクラスの4分の1強に当たった。 その計算で、もしほかのクラス(6年生の時で、全部で6クラス)にも10人の子がいたとしたら、1学年だけで60人になり、1年から6年まで全部合わせたら、単純計算で学校全体で1年間に360人の子が団地から通ってきていたことになる。つまり、そのあたりの子が行くことになっていた西田小学校は、荻窪団地ができてからは、たくさんの団地住まいの生徒を抱えていた、と

          荻窪随想録29・団地の子どもたち――と、ポッケリ――

          荻窪随想録28・荻窪団地の柳の木

          荻窪団地の南端、11号館のベランダ側にはかつては柳の木が何本か植わっていた。 むろん、住宅公団が団地を建てた後に植えたのだろう、元は田んぼだったわけなのだから。 なんで柳だったのだろうか。 しかもその柳の植わっていたところから、11号館に向かっては少しゆるやかな傾斜がつけてあったような気がする。ただそれは、自分たちがその柳を使ってした遊びから、そんな印象が残っているだけなのかもしれない。 子どもはどこでも遊び場にする。空き地があれば空き地で遊ぶし、水たまりができれば、水

          荻窪随想録28・荻窪団地の柳の木

          荻窪随想録27・東光ストアと、北口のマーケット

          荻窪の駅前に西友ストアができるよりも早く、北口にはかつて別の大きめなスーパーがあって、それは東光ストアといった。 正確に名前を覚えていたわけではなく、後に誰かからもうひとつあったスーパーは東急ストアだった、と聞かされた時、 東急だったっけ? 違うと思ったけど、といぶかしみながらも特に深く気にも留めないでいたら、 ずいぶん最近になって昭和の写真集(※)で、東光ストアから東急ストアに、昭和50年に店名を変更したことを知った。 その後、一時は、手芸用品などを扱うキンカ堂になっていた

          荻窪随想録27・東光ストアと、北口のマーケット

          荻窪随想録番外――花火もできない

          先頃、杉並区は公園の利用の仕方を見直して、 お試し期間として今月から、これまでより少し規則をゆるめてみることになったそうだ。 それによって私は初めて、公園で花火をするのが「事前届け出制」であったことを知った。 しかも、任意の「団体」が青少年の育成を目的とした場合、さらに夏休み期間に限ってしか許されていなかった。 なにかと知らないことの多い私には、にわかには信じられないことだった。 公園に行くと、確かにやたら禁止事項を書いた看板ばかりが立っているとは思っていたけれど、 子ど

          荻窪随想録番外――花火もできない

          荻窪随想録26・バス停のあった通り――荻窪団地の南側――

          団地の南側のバス停があった通りには、かつては今からでは想像もつかないほどいろんなお店が立ち並んでいた。 団地ができたことで開けていって、どんどんお店が増えていったからだった。 そうなる前には、お菓子の買えるようなお店は確か橋の向こう側に1軒、パン屋さんだったか酒屋さんだったか、食料を販売しているところがあったぐらいで、夏にはそこにきょうだいだけでアイスを買いに行かせてもらえた。 ソーダ味のアイスキャンデーか、ストロベリーアイスの周りにチョコレートをコーティングしたものか、バニ

          荻窪随想録26・バス停のあった通り――荻窪団地の南側――

          荻窪随想録25・荻窪団地の花たち

          あれは、昭和50年代の半ば頃だったか。 まだ、今のところに居を構える前、子どもの時に住んでいた荻窪団地をふらりと訪れてみて、 木々の豊かなことに目を奪われた。そして、ここはずい分緑にあふれた団地だったんだな、と改めて思った。 子どもの頃には、自分の住んでいるところが世界のすべてで、それが標準だと思っているから、取り立ててそのような感慨を抱いたことはなかった。 ただ、私が訪れた午後には確か子どもの姿は見かけられず、年輩の人が一人、外に出てきたのを目にしたぐらいだった。 かつてに

          荻窪随想録25・荻窪団地の花たち

          荻窪随想録24・飯場の友だち

          元は田んぼで、その後しばらくは空き地であったところには、 昭和3~40年代の高度経済成長期には折々飯場が組まれることもあって、 それは子どもたちの目には、一種異様な光景として映るものだった。 屈強そうな、日焼けした肉体労働の男たちと、同じく汚れてもかまわないような身なりの女たち。 大人数の食事を作るためか、外で煮炊きをしているところを見かけることもあったという。 団地のように小ぎれいに区分けされた住宅や、一軒家にひとつの家族で収まって暮らしていることが通常だった子たちにとっ

          荻窪随想録24・飯場の友だち

          荻窪随想録23・どうぶつ公園(西田第二公園)

          ところで、「西田たんぼ」のそばにあった、あの動物の置物があった公園はどうなったのだろう。 ふとそう思い、それらしき位置にそれらしきものがあるのを、ネット上の地図で確認してから、いつものように歩いていってみた。 今までこの公園を本気で探したことはなかった。しかも、どういうわけだか歩いていて見つけたこともなかった。 たとえば、田端神社に表参道のほうから入って、裏門を抜けて――今は裏木戸はないので――坂道を下りていったとしたら、元荻窪団地であるシャレールのほうに出る途中で見かけて

          荻窪随想録23・どうぶつ公園(西田第二公園)

          荻窪随想録22・西田たんぼ

          昭和33年に荻窪団地ができた頃には、そのあたりには、もう田んぼはひとつも残っていなかったとしよう。 確かに、改めて子どもの頃のアルバムを見直してみると、まだ親に抱いてもらうこともできるほど小さかった時に、団地を背景にして私たちきょうだいと母親が写っているすぐ後ろにあるものはなかなか広い畑だし、ほかの写真でも、1人で草むらに立っていたり、まだ舗装もされていない田舎のような道を歩いていたりするものはあっても、田んぼらしきものがそばに写っているものは1枚もない。 そうなのか、やは

          荻窪随想録22・西田たんぼ

          荻窪随想録21・元は田んぼの荻窪団地――西田町1丁目571――

          自分は幼稚園に入った後のことは、入園式の日のことから始まって、割とはっきりと覚えているほうだと思うが、 かといって、小学校の入学式の時のこととなると覚えていることがない。自分にとってはそれほど変わったことはなかった日だったのだろうか。 でも、この随想録を書いているうちにだんだんわかってきたのだけれど、幼い日のことでよく覚えていることというのは、たいてい大泣きした日か、食べものにからんでいることがあった日なのだった。 つまり、幼稚園の入園式の日はその片ほうの、大泣きをした日だ

          荻窪随想録21・元は田んぼの荻窪団地――西田町1丁目571――

          荻窪随想録20・荻窪団地にできた大きな水たまり

          東京の桜が満開になったというので、シャレール荻窪脇の、大谷戸さくら緑地に出かけてみた。 曇り空の下で、淡いピンク色の花が確かに木々の梢に咲きそろっていた。 この緑地でなら、下のほうに伸びた枝の先についた花を、近寄っていって間近に見ることができる。 花が咲く前のつぼみは、少し濃いピンク色をしていて、そのようなつぼみをつぶさに眺めたあげくに、写真に収めることもできるのだ。 足元の緑の中には、よくわからない草に交じって、昔ながらのオオバコのようなものや、ペンペン草も一部に生えて

          荻窪随想録20・荻窪団地にできた大きな水たまり