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荻窪随想録28・荻窪団地の柳の木

荻窪団地の南端、11号館のベランダ側にはかつては柳の木が何本か植わっていた。
むろん、住宅公団が団地を建てた後に植えたのだろう、元は田んぼだったわけなのだから。

なんで柳だったのだろうか。

しかもその柳の植わっていたところから、11号館に向かっては少しゆるやかな傾斜がつけてあったような気がする。ただそれは、自分たちがその柳を使ってした遊びから、そんな印象が残っているだけなのかもしれない。

子どもはどこでも遊び場にする。空き地があれば空き地で遊ぶし、水たまりができれば、水たまりで遊ぶ。

そういうわけで、団地の敷地内には十分に公園があっていろんな遊具もあったけれど、その11号館の南側に当たる敷地でも、近所の子たちと集まって遊ぶことがあった。

そんな時に一度、自分は女の子だったので、そこに立っていた1本の木――これは柳ではなかったような気がする――に縛りつけられるお姫さまの役をしなければならなくなったことがあり(で、お姫さまを救い出しに来る側と、それを防ぐ側とに分かれて男の子たちがチャンバラをするのだった)、それがものすごくいやだった。
つかまえられている役なんて恥ずかしくてたまらなくて、早くその場から逃れたいと思ってじりじりしていたら、もう一人、その中で年少だった男の子が、おまえも小さいから、ということで不幸にも木に縛られるはめになったので――縄跳びかなにかで、ゆるく縛ったのだったろうか?――乱闘が始まったら、どさくさに紛れてその子といっしょに「もう、いいよね?」と木の下から逃げ出した。
誰も、こら、ちゃんと木に縛られていろ! とは言わなかった。みんな、そこいらの枝で、チャンチャンバラバラ始めたら、そっちに夢中になってどうでもよくなってしまったのらしい。

その男の子が誰だったのかは覚えていない。同じ10号館の、私より年下だったタケちゃんか、あるいはまた別の棟の、全然別の男の子だったかもしれない。

チャンバラは、男の子たちが始めると、おもしろそうだったから、私もレンギョウの枝を1本取って葉をむしり取り、加わっていったことがある。
女なのに、という反応をされたような気もするけれど、切りかかっていけば向こうも受けて立つしかないので、まったく相手にされなかったということはなかった。
そういったことは、もっと平坦で広い芝地であった、12号館の前でやった。でも、レンギョウでは若干枝が細過ぎる気もするから、なにか別の、落ちていた棒きれをすかさず拾ったのだったかもしれない。団地内のあちこちにある芝生は、子どもたちにとっては走り回れるだけではなくて、バッタや蝶などの虫取りのできる場所でもあった。女の子どうしでも、バッタは散々つかまえた。芝の葉をかき分けると、大きなバッタから小さなバッタまでいくらでも見つかった。

さて、ではその11号館の南側の柳の木でなにをして遊んだのかというと、それはターザンごっこだった。
11号館の、はじめっことともに、垂れた柳の枝にぶら下がって、あっちからこっちまで、ぶらーんとするのをある時くり返していたら、
どっちがだったかは忘れたけれど、突然枝が折れて、どさっと地面に落っこちた。
二人とも、あ!と無言で顔を見合わせ、つかんでいた柳の枝を放って一目散に逃げ出した。
決して声は出さなかった。叫んだら誰かに見つかってしまうのが、お互い言わなくてもわかっていたからだった。

団地内には管理事務所があったようだったから、そこに「ごめんなさい、折っちゃいました……」と、枝を持っていって謝ればよかったのかもしれないが、お互いに、まだそこまで度胸がついている年齢ではなかったし、別の観点からすれば、それほど「よいこ」でもなかった。

そのように自由に遊べて、いたずらもいっぱいできた昔とは違って、今の公園では、やってはいけないことばかりで、立て札を見ると息が詰まりそうになる。

「木の枝を折るのはやめましょう」と書いてあるから、その場の思いつきで、枝を1本折ってチャンバラ――まあ、今の子はそんなことはしたがらないだろうけれど――をすることもできないし、「花をとるのはやめましょう」ともなっているから、私たちの時代のように、ツツジの花をむしっておやつ代わりに蜜を吸うこともできない――まあ、おやつは足りているだろうが。
「土を掘らないでね」と書いてあるところもあったので、土を掘ったらなにかの白い幼虫が出てくる、なんてことに出くわすこともないのだろうし、「いきものをとらないように」と書いてある以上、虫取りだってしてはいけないのかもしれない。
小さな頃から、そのような細々した規則に縛られていたら、なにかをする時には、なんでもしていいのか誰かに聞かなければならないと思うようになるし、手足を思い切り伸ばすこともできなくなりそうだ。

やはりこのような規則がほんとうに必要なのかを、見直してみることは大事だろう。
すでにあたりまえとされてしまっていることが、ほんとうにあたりまえなのか。
それで失ってしまう機会のほうがよほど大きくはないか、といったことを、少し立ち止まって考えてみたほうがよさそうだ。

団地の南側にあった柳の木は、なにもターザンごっこができるように植えられたものではないだろうけれど、大人の目を和ませるのとともに、そのように子どもたちの遊び道具にもなってくれた。
今もシャレールの南側には、いろいろな木が植えてあるけれど、それらは主に目隠しの役目を果たしているようで、そういった木々によじ登ろうとしたりする子どもの姿を見かけることはない。

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