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荻窪随想録

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自分が生まれた土地にまつわること、そして昭和のこと、変わったこと、変わらないこと。とても個人的ではあるけれど、すべての杉並区loverへ。随時更新中。
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記事一覧

荻窪随想録35・荻窪団地の若者たち

若者たち、とタイトルにつけたところで、私が荻窪団地に住んでいた頃はまだ子どもだったから、…

Reiko.A/東 玲子
2週間前
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荻窪随想録34・荻窪団地の電話事情

荻窪団地は、公団住宅として初めて固定電話が引かれたところ、と言われている。 それに関して…

Reiko.A/東 玲子
4週間前
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荻窪随想録33・ダストシュートと、消毒車

団地の燃えるゴミは焼却炉で燃やすことになっていたけれど、生ゴミはどうしていたのかというと…

Reiko.A/東 玲子
2か月前
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荻窪随想録32・団地の焼却炉での遊び方――ちょっと女子流か――

10号館の西の端には焼却炉があって、住人は各々そこにゴミを捨てに行って自分で燃やすことにな…

Reiko.A/東 玲子
2か月前
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荻窪随想録31・階段は遊び場であるとともに

友だちに、子どもの頃は団地に住んでいる子がうらやましかった、と言われた。 それは、雨の日…

Reiko.A/東 玲子
2か月前
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荻窪随想録30・団地内での自転車遊び

現在の杉並区の公園のルールで、子どもが自由にしてはいけないものの一つに、園内での自転車乗…

Reiko.A/東 玲子
3か月前
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荻窪随想録29・団地の子どもたち――と、ポッケリ――

荻窪団地に住んでいた頃、小学6年生の時でクラスメートで同じ団地に住んでいた子は10人くらいで、それはクラスの4分の1強に当たった。 その計算で、もしほかのクラス(6年生の時で、全部で6クラス)にも10人の子がいたとしたら、1学年だけで60人になり、1年から6年まで全部合わせたら、単純計算で学校全体で1年間に360人の子が団地から通ってきていたことになる。つまり、そのあたりの子が行くことになっていた西田小学校は、荻窪団地ができてからは、たくさんの団地住まいの生徒を抱えていた、と

荻窪随想録28・荻窪団地の柳の木

荻窪団地の南端、11号館のベランダ側にはかつては柳の木が何本か植わっていた。 むろん、住宅…

Reiko.A/東 玲子
3か月前
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荻窪随想録27・東光ストアと、北口のマーケット

荻窪の駅前に西友ストアができるよりも早く、北口にはかつて別の大きめなスーパーがあって、そ…

Reiko.A/東 玲子
3か月前
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荻窪随想録番外――花火もできない

先頃、杉並区は公園の利用の仕方を見直して、 お試し期間として今月から、これまでより少し規…

Reiko.A/東 玲子
3か月前
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荻窪随想録26・バス停のあった通り――荻窪団地の南側――

団地の南側のバス停があった通りには、かつては今からでは想像もつかないほどいろんなお店が立…

Reiko.A/東 玲子
4か月前
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荻窪随想録25・荻窪団地の花たち

あれは、昭和50年代の半ば頃だったか。 まだ、今のところに居を構える前、子どもの時に住んで…

Reiko.A/東 玲子
4か月前
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荻窪随想録24・飯場の友だち

元は田んぼで、その後しばらくは空き地であったところには、 昭和3~40年代の高度経済成長期に…

Reiko.A/東 玲子
4か月前
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荻窪随想録23・どうぶつ公園(西田第二公園)

ところで、「西田たんぼ」のそばにあった、あの動物の置物があった公園はどうなったのだろう。 ふとそう思い、それらしき位置にそれらしきものがあるのを、ネット上の地図で確認してから、いつものように歩いていってみた。 今までこの公園を本気で探したことはなかった。しかも、どういうわけだか歩いていて見つけたこともなかった。 たとえば、田端神社に表参道のほうから入って、裏門を抜けて――今は裏木戸はないので――坂道を下りていったとしたら、元荻窪団地であるシャレールのほうに出る途中で見かけて