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荻窪随想録29・団地の子どもたち――と、ポッケリ――

荻窪団地に住んでいた頃、小学6年生の時でクラスメートで同じ団地に住んでいた子は10人くらいで、それはクラスの4分の1強に当たった。
その計算で、もしほかのクラス(6年生の時で、全部で6クラス)にも10人の子がいたとしたら、1学年だけで60人になり、1年から6年まで全部合わせたら、単純計算で学校全体で1年間に360人の子が団地から通ってきていたことになる。つまり、そのあたりの子が行くことになっていた西田小学校は、荻窪団地ができてからは、たくさんの団地住まいの生徒を抱えていた、というわけだ。

これはその後、続々と建設された高層団地や、敷地内に小学校や中学校までそろえたマンモス団地とは比ぶべくもない数字だろう。でも、4、5階建ての棟が26棟立ち並んだ、ほどよい大きさの荻窪団地は、昭和の3、40年代には多くの子どもたちであふれていた、という話にはなるだろう。

当然、遊び相手にこと欠くことはなかった。敷地内にある公園に行けば自然と誰とでも顔見知りになるので、近所の子どうしでよくいろんなこと――花いちもんめや、大縄跳びや――をして遊んだ。そういう時、学年や年の差はあまり関係がなかった。もちろん、団地の子だけではなく、その近くに住んでいる子たちもやってきて、大小入り交じって遊びに興じた。

私は10号館の1階に住んでいたから、初めのうちは10号館の東側の、ブランコと砂場のあった小ぢんまりした公園で遊ぶことが多かった。でも、小学校の3年になってからは、目の前にあった11号館にたまたまクラスメートが3人もそろったために、10号館と11号館の間の原っぱ――芝生――や、その間にまた別にあった砂場が、外で遊ぶ時の舞台になることが多くなったと思う。

荻窪団地は、(特殊な形の棟をのぞいては)みんな南向きにベランダがあって、洗濯物を気持ちよく干せるようになっていた。その分、玄関と階段は反対の北側に向けた造りになっていた。そして、棟と棟との間には、けっこう十分な間隔があり、そこに芝を植えて、花壇もあった。

私の部屋はベランダに面していたので――私だけの部屋というわけではなくて、私の学習机が置いてあった6畳間で、私と姉の共用の部屋。後にそこに祖母も加わった――ガラス戸を通して11号館と、その間の敷地とがよく見えた。誰かが11号館から表に出てきたらすぐわかるし、逆さまに、誰かが11号館の自分の家に帰ってくるのもすぐ目に入った。目の前に、みんなと共有の庭が広がっていたみたいなものだった。

そんなわけで、私はけっこうな年まで、そのベランダから出入りしていた。当然、11号館の友だちも、ベランダの下から私を呼びに来たし、時には私と同じようにベランダから私の家に入ってきた。入る時には、ベランダの格子を両手でつかんでコンクリの出っ張りに片足をかけ、勢いをつけてよじ登るのだが、反対に出る時には格子を乗り越えてばっと飛び下りる。飛び下りた瞬間に、同じくぱっとスカートがめくれ、たまたま通りかかった男子に笑われたこともあった。

でもある頃、母親から、「もう、そんなところから出るのはやめなさい!」と言われてやめざるを得なくなったのだった。ずっと続けさせてもらえればよかった。どうせ引っ越した先には飛び下りられるベランダなんてなかったのだから、せめて小学校を終える寸前の引っ越す時まで。

その10号館と11号館の間で、一時期ポッケリをするのがはやって、学校から帰ってきてはみんなで集まってよくやった。

ポッケリというのは、缶けりの変種で、缶の代わりに、鬼が陣取る陣地のようなところを決めてかくれんぼをし、鬼が数を数え終わって隠れた子たちを探しに、ちょっとそこから離れた隙に、鬼に気づかれずに陣地に足を踏み入れて「ポッケリ!」と言えば鬼をアウトにできる遊びだった。
ただ、どうやら、このポッケリという呼び名は、杉並区の者しか知らない杉並言葉らしい。それどころか、へたをすると、ある時代に、荻窪団地とか阿佐ヶ谷住宅とかに住んでいた子たちしか知らない言葉かもしれない。
試しに何人かの年輩の知り合いに、「ポッケリ」という遊びを知っているか、と聞いてみたけれども、知っていると答えた者は一人もいなかった。この言葉については、かつて阿佐ヶ谷住宅に住んでいたことがあるという、昭和50年生まれの議員さんのブログと、杉並に住んでいたという、ある一人の人のネット上での発言でしか、ふたたび目にすることができなかった。

ポッケリは、あっこちゃん、いっちゃん、まさこちゃん、かず君、としや君、まこと君、たかし君、おか君、やすえ、はじめっこ、などと、いつものように大きい子も小さい子もいっしょになってやった。
男の子などは数を数えるのが早くて、どう考えたって十数えるぐらいの時間しか経っていないのに、もう百数えた、と言われたり、「じゃあ、今度は千数えて!」と言ってもやっぱりその半分ぐらいの早さで「数えたよー!」と目を開けられたりすることがあって、隠れる時にうかうかしていることはできなかった。

私は手っ取り早く11号館の階段に駆け込んで、かなり上の階まで上って、まず誰か一人が見つかるまで潜んでいたりすることがよくあったけれど、一度、1階の物陰に留まって、鬼が背中を向けている隙に駆け出していって「ポッケリ!」とやってからは、攻勢に出るのが楽しくなった。

でも、ある時、クラスメートの男の子が――団地の子ではなかったけれど、遊びに来ていたのだった――飽きて途中で抜けておきながら、「あ、あそこに女子が二人隠れてる。それから、あそこにも」と大きな声で鬼に教えてしまった時には、非常に憤慨して、後でその子をほかの子といっしょにとっちめてやった。

そんなふうに、時々飽きた子が抜けていっても、残った子たちでポッケリを続けて、やがて全員がもういいかな、と思った頃に終わったものだった。

大人数でやると、なかなか鬼が交代することができなくて、鬼になった子には不利な遊びだったかもしれない。

今にしてみれば、団地住まいであろうとなかろうと、これは子どもたちがたくさんいなければできない遊びだ。しかもこれを書くために少し調べてみたところ、この前身である缶けり自体が、もはや「昭和の遊び」とされていて、過去のものとなっていることを知った。
今の子は、缶けりをやらないのだろうか――それはやはり、子どもの数が少なくて、それだけの人数が集まらないからだろうか、それとも、例によって缶をけるのは危ない、などという世間の過剰な抑えつけからだろうか――そして、今の杉並に、ポッケリを知っている子はいるのだろうか。

このタイトルも、ほとんどの人にはなんのことだかわからないのだろう。

昭和の遊び、ポッケリ――しかもかなり一部の地域でしか、その呼び名が通用しない遊び。誰がいつ、始めたのかもわからない、けれど、缶けりを知っている人には、すぐやり方がわかるような、かつてはどこにでもあったような遊びだ。

※タイトル画像
荻窪団地の12号館から、15号館まで(の端っこ)。
昭和37(1962)年頃の写真だろうか。


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