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生命の根源

 社会人になり十余年、今一つやる気が出ないのは、心に疲れがたまっているからだ、こういう時は日常から離れた方がいい、と山梨は昇仙峡へ日帰り旅行を思いたった。
亡き祖母が、トテ馬車に乗っている人を見て、
「馬に鹿が乗ってら」
と悪態をついた想い出の場所である。

 五月晴れの早朝、甲府駅から昇仙峡行きのバスに乗り、席につくと隣に同じ年頃の女性が座った。
「昇仙峡に行くのですが、あなたも?」
 女性が聞き、私が答えた。
「はい、上までバス、帰りは歩くつもりです」
 終点まで三十分ほどの間に女性は、恋愛がもつれ、自分を見つめ直すために来たと何やら深刻そうに言った。こういう時は適当に話を合わせる方がいいと思い、私も似たような理由だと言った。実際はそれほど自分が底の深い人間だと思っているわけではないので、見つめなおした所でたいしたものが見つからず底の浅さに落胆するだけだから過去をほじくるよりも未来を考えた方がましなのだが、二度と会わない人にそんなことを言う必要はない。
 むしろ彼女が自分より不幸な人を慰めることで自分の存在意義に気付いて明日からの活力にしてくれればいいと思い、何かで読んだ辛い恋の話を自分だと思い込んだ所、思いがけない演技力を発揮したらしく、とても悲しい顔をしたのだろう。気づいた彼女は誠心誠意慰めてくれた。
「あなたかわいいからすぐ彼氏できるわよ」
「あなたこそ。素敵な女性だと思います」
 褒め合っているうちに目的地についた。
「まずは夫婦木(みょうとぎ)神社で恋愛成就祈願ですね」
 彼女が真剣なまなざしで言った。早く昇仙峡の清い流れを見つめようと思っていたのだが、今の話の流れから恋愛成就祈願を優先するのは当然のことだし、彼氏いない歴ン年の私にとってそれは人生の上でとても重要なことに思えて彼女に従った。
 神社だから神聖な雰囲気なのだろうと思いきや、有り難過ぎる神社だった。無数の大小の木や岩でできた男女のシンボルがぶら下がったり屹立したりしてのお出迎えだったのだ。
「えっと… 子宝祈願みたいですね」
 私が言うと、彼女もここまでは予想していなかったらしく、
「そ、そうね。…子孫繁栄、かしらね」
と答えた。知らぬ者同士とはいえ、気恥ずかしく、早足で神殿に向かった。
係の方は扉を開いて私達を招き入れ、ごゆっくり、と扉を閉めた。
 二人とも声をあげたのだかあげなかったのかよくわからない。目の前に、木でできた巨大な男性のシンボルが屹立していた。
「天然自然の産物でしょうか、埃一つない…」
「つややかに、よく輝いていますね」
「金剛石も磨かずばと言いますから」
「きっと朝な夕なに磨いてるんでしょうね」
 支離滅裂のような理路整然のような、つまり中心部分ははっきりしているのだが、そのことにふれずにその話をしていて、意思の疎通はとれているが肝心のことはぼかしつつ、なおかつちゃんと言うべきことは言い合う、そんな努力を互いにしていたと思う。
 頭の中では単純に生命を感じていた。
 有無を言わさぬ輝きは私達を無口にした。何を考えていたのか記憶にない。圧倒されてその光沢、威厳と言ってもよいほどの逞しさに生命の根源を感じていた。しばらくして新たな客が来たのでその場を譲り神殿を出た。
彼女と別れて一人、昇仙峡の水を眺めていると、私の中の芯のようなものに長い間蓄積してきた垢が剥がれ落ち、かつて磨こうと努力し、挫折した跡がむきだしになり、それはまったく輝いてなんかいなかったけど、磨けば私なりの輝きを発することができるに違いないと思えてきた。
岩間に薄紫のミツバツツジが今をさかりに咲いていた。

#創作大賞2024   #エッセイ部門


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