インターネットに文字を書くことについて

自分にもし複数の自己が存在しているなら、インターネットに文字を書くこともまた難しいことであるだろう。自分はこの複数の自己が相互に介在し合う形で文章を書いていたのではないだろうか。人格が継ぎ接ぎになっているような文章を書いていたのではないか。それは「特定不能の解離性障害」と言われているが、自分としてはとくに取り組むことが難しいことを強いていると思う。
自分はストレート男性だと思う。新海誠の映画に涙する。そうしたヘテロシス男性的な感性は持っている。自分はあるいは経済的にはゲイとして認められた方が社会的には向上できるとしても、自分はやはり歴史としてはあるいは自分がトランスジェンダーかもしれないと思う男性になるのだと思う。自分の人格についてそうした問題がある、つまり解離の問題はあるとしても、自分にはどうしたらこの状態を解決できるかについてまだ具体的なアイデアを持てていないことになる。複数の自己が生じている状態からどう自己の存在そのものを否定せずに肯定し、またかなり性別の問題について悩んだりしながらも普通に日常生活が送れるようになるのか。自分のなかにアルターエゴが存在しているのではないかということは感じているが、どうしてそのようなアルターエゴが生じたのかは分からないでいる。ただ、それは本当に錯覚かもしれない。錯覚としてそう感じているだけかもしれない。
実際には精神病になって、人前できちんと振る舞えなくなったことに尽きるのではないか。精神病になると、それまでのペルソナから自分が疎外されてしまうような感覚を持つのではないか。そうした疎外の感覚を僕はまた持っている。僕はそうした感覚を持ちつつも、自分の将来的なことについて考えたりしたい。
性別を、少なくとも3つの位相で考えること、つまりsex、gender、sexuality(あるいはsexual orientation)ということは2020年代のフェミニズムにおいて常識になってきつつあるようだ。
自分はsexは男性である。genderは分からない。sexualityはsexual orientationということで言うと女性に向いている。
そうした自分の性をめぐる現状があるなかで、確かに僕たちは生物学主義的に相手の性別を最初のsexのみで判断していたのではないか。
sexが女性ならgenderはどうあっても女性というのは暴力かもしれない。
その暴力性に気づくようになることがあるいは大事なのではないか。
sex、gender、sexuality(あるいはsexual orientaiton)という3つの位相で性別について考えたいなと思った。

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