心の問題の再考(1)ーー普遍主義について

簡単に何かを言うことはできるのだろうか。
私自身は確かに背方空間に意識があるように感じている。
それはそうだ。その背方空間の意識の存在によって自分の状態は変わりうる。
私は男性としても女性としても振る舞えるという話はしたけれど、職場では男性の服をしている。メイクもしても眉メイクとコンシーラーくらいだ。
そのなかで、自分の状態を改善するために努力することは多いのだけど、
どれだけ改善しようとしても上手くいかない時がある。

特異性(singularity)の問題について最近読んだ『現代フランス哲学』のなかではフランスのなかでは個人としての〈市民〉の自由をそれぞれが持てるようになることがまず大事で、そのなかで自分のなかでもともとの出自(エスニシティとか宗教とか)を忘却することが大事だという見方で考える知識人もいるよう。それは普遍主義というように言います。

普遍主義のなかでは自分は自分の障害の特異性の問題、それは私秘的なもので公共空間で簡単に露出してはいけないものになっているのだろう。
私は匿名だからという理由で私秘的なことについて書いてきたけど、それはもしかしたらフランスの普遍主義の観点からするとカットすべき特異性の問題になっているのかもしれない。
この問題については、例えば次のように引用できる。

フランス共和国で重要なのは性別や宗教的属性ではなく、「市民」という普遍的な権利を手に入れることだというのがその理由〔=スカーフを脱がないムスリム女生徒に退学を命じた学校の判断を知識人が支持したこと〕です。つまり、マイノリティの境遇を改善するには、マイノリティの特異性を擁護するのではなく、マイノリティであってもマジョリティと同様の立場になれるような普遍的な体制を整えるべきだというのです。

渡名喜庸哲 『現代フランス哲学』 ちくま新書、2023、p. 185

このように普遍性があるなかで、特異性についてはそれは公共の場では見せないでおこうというのがフランス共和国のなかの普遍主義の伝統です。フランス共和国における普遍主義について、自分もどちらかというと男女同権であった方が良いと思う人であったので、(ただし背後の人格は違うようです)この点について、普遍主義にまず合わせてみる、自分が普通に〈市民〉として発言できるようにすることを重視しても良いのかなと思います。
背後の人格、それは私のなかでは存在しているものですが、それを極めるなら普遍主義の反対の差異主義になるでしょう。
ここから私のnoteの投稿は連載に入っていこうと思います。
前回までは少し自分の特異性をかなり綴っていたところになりますが、普遍性というテーマを知り、そうかもしれないと私はフランスが好きなので思うところがありました。
また、自分のなかでの特異性を追求するというのはもしかしたらそれこそずっと自分の出自のアイデンティティを気にするという意味で多文化主義かもしれないですが、普遍主義についても自分は知っておきたいとは思います。その方が公共空間で振る舞う自分としては良いかもしれない。
自分の投稿で基本人格や主人格という言葉を用いましたが、それはあくまで自分の言葉です。自分は基本人格とか主人格とかいう言葉を使うべきではなかったのかもしれないと思います。その言葉を認めない人を排除してしまうからです。その言葉遣いによって人を排除してしまうということ、そのことについて私は敏感であるべきでした。
申し訳ないです。

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