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[小説] 馬子田(2)


「ふざけるな!」
 怒号が飛んだ。いつもの光景だ。
「お前は何様だ!嫌なら出て行け!」
 そこにいたのはあの少年だった。顔も身体もあざだらけだ。
 この時代、奴隷は当たり前だった。もはや誰もが麻痺していた。
 そして今も変わらない。何も感じなくなって機械になってしまった。生身の人間から機械に変わっただけだ。人ではなく鬼が住んでいる。それは歴史が物語っている。
 鬼に育てられた少年はかろうじて人間であった。人間であろうとした。激しく自我と戦っていたのだ。
 そして少年は勝った。あらゆるしがらみを超えて、しかし命を繋ぐ方法は知らないままーーーー


 走っても走っても、辛い記憶は消えやしなかった。振り切ろうとすればするほど胸の傷がうずく。足のあざが疼く。荒れ狂う嵐の中に少年は飛び込もうとしていた。気づけば意識が飛びそうになり、それに抗いながらも闇に引っ張られ倒れ込んだ。深い闇の中を彷徨う魂が、灯火のようにゆらゆらと今にも儚く消えそうだった。
 その時森の奥から声が聞こえてきた。温かかった。初めて温もりを感じたのかもしれない。少年は経験したことがなく、その感覚がわからなかった。すーっと気持ちが晴れていく。なびいた風は少年の頬を撫でた。ぴくりと瞼が動く。だが目が開かない。まるで自分が生きていた世界を閉じてしまったようだ。でも声が聞こえる。音が聞こえる。風を感じる。空気を感じる。感触がある。肉体があり、心もある。それを確かめ直した時、カッと目が開いた。
 すると、今まで見えたことのないものが見えた。きらきらと輝く星空のように草木が呼んでいる。木漏れ日の中に少年は抱かれ、讃えられたていた。身体が宙に浮くような、それでもしっかりと地面を感じる。少年は生まれ変わったのではないかと思った。苦しい時も悲しい時も自分が自分じゃなかったんだと気づいた。まだ身体の傷は治っていないが、そんなことはもう気にしないでいられた。自分の前には真っ新な世界が待っているだけだと思えた。
 あらゆるものが美しく映える。それは着飾った美しさではなく、何も着ていない純粋なものだった。少年にはそれが見えることへの感動があった。感激があった。森の中で蘇生したのだ。

 少年は軽くなった身体を起こし、目の前に広がる草原と湖を仰いだ。胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。森に浄化された風が潤沢な酸素を運んできている。知らぬ間に森を抜けていた。
 大きな湖に向かって歩く。喉が渇いていた。幾日経ったかわからなかった。それでも意識は冴えていた。湖は澄んでいて、飲むことができた。身体に染み渡る。今まで生きてきた中で一番美味い水だった。
 ほっとしたのも束の間、青色の鳥たちが小さな群れでやってきた。何かを必死に訴えているように思えた。鳥がきた方角に目をやると遠くに黒い何かが見えた。少年は追っ手がきたのだと思った。突然の出来事に身体がついていかず走ることができない。それでも必死に駆け出そうするとゆらりと身体は地に倒れた。まだ身体は回復していなかったのだ。
 少年は焦った。前を向いて逃げようとするが、気持ちだけが前に行き身体と心がついていかない。みるみるうちに追っ手が迫ってくる。影が少しずつ少しずつ大きくなる。そこでついに身体が起き上がった。必死で足を引きずり前へ前へと進む。だがその速さは亀のようだった。焦った、恐怖で何も考えられなくなっていた。初めて少年は死を覚悟した。もう追っ手がすぐそこまで来ている。
 「もう、駄目だ」
 諦めかけたその時、馬の鳴き声が聞こえた。
「諦めるな!」
 ハッとした少年は後ろを振り返る。
「うわぁっ!!」
 しかし、そこには誰もいない。少年の鼓動は、けたたましく跳ね上がっている。その場にどさりと落ちていった。
「はぁーっ、はぁーっ」
 呼吸が激しく乱れた。吸い込もうにもなかなか吸い込めない。だが水面が反射した光が少年の前をちらちらと通り過ぎた。湖の方を見ると、白い大きな鳥が悠々と水面を泳いでいた。それを見ると無意識に息を吐き出していた。濁った空気を吐き出し切った後、新鮮な空気が胸に充満していく。視界が明るくなってくる。再び美しい世界がゆっくりと戻ってきた。
 呼吸を整えながら、もう一度後ろを振り返り遠くに目をやった。だが何も映らない。確かに黒い何かが見えたのに。ごしごしと目を擦るが何も変わらなかった。

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