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7-1.「わざ」のアフォーダンス(2)

ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。

このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。


つづいてアフォーダンスと「わざ」の関係について書いていきます。ここでメインテーマになるのはドナルド・ショーンの「省察的実践」という概念です。

ドナルド・ショーンは一流のプロフェッショナルのもつ「わざ」を分析した研究で知られていますが、一流の「わざ」のエッセンスこそ「省察的実践」です。一流のプロフェッショナルは現在進行形で仕事をしている最中に自身の仕事を振り返り瞬間的かつ即興的に自分の仕事に修正を加えている。それが「省察的実践」です。

誰にも画一的な公的な理論を、その場その場の状況に応じて、細かな修正を施しながら適用していく、そこに省察的実践者としてのプロフェッショナルの腕があります。


もちろん、その場の偶発的な出来事に細かくイエス・アンドをしながらシーンを作っていく「わざ」はインプロバイザーの専売特許です。省察的実践としての「わざ」の秘密に迫っていきたいと思います。


以下8700字です。


7-1. 「わざ」のアフォーダンス(2)


7-1-2. 省察的実践

アフォーダンスの呈示する行動には予期性・後見性・柔軟性の三つの特性がある。とはいえ「いまここ」で取るべき行動の選択においては予期性が強く働くことになる。食用のキノコは食べてもいいことをアフォードし、毒キノコは食べてはいけないことをアフォードする。食用キノコのアフォーダンスは食べても害がない未来を示しており、毒キノコは有害な未来を示している。アフォーダンスは行動の未来とつねに関わる。

 インプロには脚本がなく未来は何も決まってはいない。だからこそ、プレイヤーは未来がどうなるか意識しないではいられず、熟練したインプロバイザーであればあるほど「いまここ」のオファーがアフォードする未来を敏感に察知しようとするものである。それぞれに「ここはまだ我慢してエクステンドをしておこう」「ここは大きなアドバンスをするタイミングだ」「表向きのオファーはしているけど裏の意図がありそうだから流しておこう」「アイディアはあるようだけど苦しそうに演じているからとにかくヘルプに入ろう」などと察知して行動を選択していく。

 経験あるインプロバイザーがシーンの局面で見せる予期はそれぞれに培ってきた熟練の「わざ」とでも言えるものだ。だから、その「わざ」はプレイヤーでまったく違ったものとなる。経験してきた記憶やプレイヤーのもてる資質が違うのだからそれに応じて「わざ」も多様に相違するのは道理である。

 大きな声や派手なアクション、強いエネルギーで押し通せるプレイヤーは早目のタイミングでシーンに飛びこんでも力強く場面を引っぱることができる。それに対して穏やかな雰囲気でシーンを柔らかくできるプレイヤーは相手のオファーをしっかりと見届けてからシーンに関わろうとするだろう。それぞれに資質が違うのだからシーンの未来を読む眼差しも当然変わってくる。


ひとりのインプロバイザーの「わざ」はその人にあまりに固有な「わざ」だから他に二つとはありえない。インプロバイザーはそれぞれ自分の「わざ」に強い愛着を覚えるものであって他のインプロバイザーの「わざ」にも深い敬意や憧れを抱きもする。

 畢竟、プレイヤーが自身の「わざ」を発揮するときこそ、その人自身のグッドネイチャーが輝く瞬間だ。そこで「どうしたらそんなにたくさんのアイディアを出せるのだろう」「どうして迷いなくシーンに飛びこんでいけるのだろう」と、それぞれの強みの「わざ」の秘訣を当人に尋ねてもなかなか明快な答えは返ってこないだろう。「なんとなく勘で」というような返答を聞くことになるはずだ。

 身体になじんだ感覚とあまりに一致しているため「わざ」は言葉として伝えるのに難しさを伴う。だから、ひとの「わざ」は参考になっても身丈があわないように感じることがしばしばだ。以下インプロバイザーの「わざ」に触れながら、一般的に仕事をするプロフェッショナルの「わざ」の独自性について考えていきたい。


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プロフェッショナルの仕事の流儀を研究した米国マサチューセッツ工科大学のドナルド・ショーンによれば、一流のプロフェッショナルは、その仕事に自身の「わざ」(artistry)をもっている。ショーンは「わざ」による仕事を画一的にマニュアルを適用しようとする仕事の仕方に対立するものとして論じている。

 画一的なマニュアル型の知としては、医療行為の現場で疾患の診断に際して使用される医学的(科学的)なエビデンスに基づいたガイドラインが挙げられる。ガイドラインは主訴に対して疑われる疾患を診断するために検査等の標準的なプロセスが定めるものであって、病名を診断したり治療を進めたりするうえでのマニュアルとして機能する。

 ガイドラインは医療の標準化を図る上で大きくその効果を発揮する。同時に医療過誤などが起きた際には標準的ガイドラインに沿った医療を提供したか否かが問われることもあるため責任の担保として使用されることもある。そのためにガイドラインに沿った検査で診断できない疾患については専門科として責任が取れないため「整形外科的には問題が見られない」「脳神経外科的には異常は見られない」といった結論が下されて診療科をたらいまわしにされてしまう原因となることもある。

 専門家の専門的知識や技能がマニュアル化されることにはもちろん意義がある。専門家の技能は信頼されるものでなければならない。医師なら医師、弁護士なら弁護士、人によってムラやバラつきがあれば信用できるものとはならないものだ。標準化され規格化されたものである必要はある。


専門家の知識は一般人からは覗き見ることのできないブラックボックスでもある。違和感を覚えたとしても素人に口出しすることは難しく、秘匿化されたプロフェッショナルの技能の前に先生に「お任せ」するほかないケースも多い。だから、医療の場面で医療者の行為に違和感を覚えたとしても公式なマニュアルがそうだからと言われてしまえば、患者の側からは何も関与することはできなくなる。それが専門知を権力化させる原因ともなる。

 ショーンは専門知のマニュアル化が専門家に独善的な権力を付与してしまうこと、それが専門家の独善的な振る舞いを許してモラル的な崩壊を招いてしまうことの危惧を表明している。だからこそ、マニュアルを超えた独自の「わざ」をプロフェッショナルがもつことに期待をしている。「わざ」のあるプロフェッショナルこそ一流のプロフェッショナルであり、プロフェッショナルのモラルを支える役割に担う存在なのだ。

 ショーンの倫理観に従えば、科学的に効果がないと分かっている手術や投薬を「やってもムダだから」の一言で片づける医師は真にプロフェッショナルではない。患者のひとりひとりの望みや生き方の状況にあわせて対応を変えていく医師こそ一流とみなすべきプロフェッショナルなのだ。一流のプロフェッショナルはマニュアルでは対応できない領域までカバーできる存在であり、マニュアルを超えた個人的な技能を操る存在でもある。

 かつてマニュアル化できない個人的な「わざ」がムラやバラつきとして否定的にみられてきた経緯があった。ショーンの研究はそのような個人的な「わざ」を再評価しようという試みでもあるのだろう。


ショーンは「高地」「沼地」という比喩を用いて語っている。「高地」を選ぶ人とはあくまで理論の専門性や厳密性に重きを置く人たちのことだ。公式の知的枠組み(フォーマルモデル)の正しい運用にあくまでもこだわろうとする。他方「沼地」を選ぶ人とは乱雑で混とんとした現場の状況にあえて足を踏み入れるプロフェッショナルである。彼らは始終蠢いて形のない状況のなかで試行錯誤して直感や混乱のもとで自身の選択を決断する。

 フォーマルモデルに固執する人たちにとって現場の不明瞭で些末な要素はただの「ジャンクデータ」でしかない。しかし、沼地を選ぶプロフェッショナルは曖昧で不確実な現場にこそ専門家が関わるべき「何か」、生態心理学の言葉を使えば「アフォーダンス」を見出すのである。

 無論、プロフェッショナルの「わざ」はマニュアルを否定するものでは決してない。マニュアルが効果的に適用できるのが確かな状況ならばマニュアルを使用するのが妥当だ。しかし、現場の状況は確定したものばかりとは限らない。むしろ未確定ではっきりしない状況の方が圧倒的に多いものだ。でも、そのような「沼地」のぬかるみこそプロフェッショナルの「わざ」が真価を発揮する場なのだ。

 マニュアルをそのまま適用するのが難しい局面においてマニュアルをすこし改変したり、状況に働きかけてマニュアルが適用しやすい状況に変えたり、場にあわせて即興的に「わざ」を生みだしていくところに一流の「わざ」の真髄が光るからだ。

 プロフェッショナルの「わざ」とは一見混乱したカオスにしか感じられない状況に対して知識や技能を適切に適応させていく能力にほかならない。言い換えれば、マニュアルを機械的に押し当てることのできない状況に臨んで、独自の「わざ」を頼りに適切なアフォーダンスを見いだして関わることのできる能力だ。つまるところ、プロフェッショナルの「わざ」の神髄は課題を解決する前に課題を適切に見抜く力にある。非熟達者が複雑な状況を前に混乱してしまうのは解決すべき課題を適切に切り取れていないからにほかならない。



熟達の対話

ショーンの著作『省察的実践とは何か』にはプロフェッショナルたちが仕事をする様子が複数収録されている。そのうちのひとつにデザインスタジオの所長とその学生とのやり取りがある。所長であるクイストは学生たちにデザインの課題を与えている。斜面のある地形に小学校を設計するという建築の課題である。すると学生のひとりペトラが課題に行き詰ってクイストのもとを訪ねてくる。そこでのクイストとペトラのやり取りである。

 ペトラは斜面という難しい条件に設計デザインの理論をなんとか適合させようとして苦労している。ペトラは設計デザインの知識を身に着けたばかりで、その理論の使い方は画一的で四角四面である。それゆえに一方をあわせると他方で無理が出てしまう問題を解決できないでいる。

 クイストがペトラにして見せた手法はひとまずマニュアル的な「お堅い」理論から試しに離れてみることだった。逸脱してみることも厭わずに理論自体を「和らげて」みようとする。最後にはわざと隙のある方法を取ってみることでデザインを収めてしまう。

 クイストがデザインの基本的な理論に疎いわけではない。熟達者にふさわしい知識と技量を当然のごとく備えている。だからこそ、理論を押し通していいところと一歩外してみるべきところの差異もわかるのだ。現場の混沌とした状況に理論的な枠組みをそのまま押しつけても不都合が出てしまう。状況の複雑性に目を奪われてモデルをあてる条件や解決すべき問題の設定を見誤れば二進も三進もいかなくなってしまう。フォーマルモデルの限界は、ここにある。

 一流のプロフェッショナルは混沌とした状況に適切な眼差しを向けて注意を向けるべき事項を適切に見抜くことができる。それをショーンは「名前をつける」と呼ぶ。雑然とした状況に新たに名前をつけることで理解可能なものとするわけだ。それは注意を払おうとする状況に「枠組みを与える」プロセスにほかならない。

 既存の理論ではうまく収まらないと見たクイストは手元で簡単なデッサンやスケッチを繰り返して斜面という状況と理論がどうすればマッチするか試行錯誤を重ねていった。それは状況との対話そのものだ。そうして、状況に変化を与えて課題の設定を操作しなおしているのである。まさに「枠組みを与える」に相応しいリフレーミングの作法なのだ。


ショーンの指摘する一流のプロフェッショナルがそなえる熟練の「わざ」はアフォーダンスを見いだす能力の鋭敏さにある。ペトラには困難で困惑させるだけのカオスでしかない状況にクイストは切り結ぶべきアフォーダンスを見いだして適切に関わり、状況を一変させてしまう。

 ペトラにはできなくてクイストにはできるのもアフォーダンスを見いだす経験の差異、身体に蓄積された記憶の差異があるからだ。だからこそ、プロフェッショナルの「わざ」こそメルロ=ポンティの「スタイル」に相当するものに思えてならない。

 ペトラには「見えないもの」がクイストには「見えるもの」として現れてくる。クイストとペトラに「見えるもの」の差異があるのは、クイストとペトラの身体に宿るスタイルに差異があるからで、そこに両者を入れ替え可能にすることのできない唯一性が存在している。スタイルとしての「わざ」には、平たく言えば個性ということのできる存在の唯一性が宿る。

 メルロ=ポンティのスタイルが、詩人の言葉遣いや画家のタッチのようにその表現者自身の個性を表すものであると同時に、既存の言葉や画法といったルールを自身のものへとモディフィケーションしていく力であったことは押さえておきたい。同じ言葉なのに詩人が使った瞬間に言葉は日常と別の輝きで現れてくる。同様に一流のプロフェッショナルは画一化されたマニュアルを瞬時に状況に適した策へと変容させていく。マニュアル化された知識とプロフェッショナルの「わざ」との差異は、日常の言語と詩人の使う言語の差異とアナロジックな関係にある。


日本の武道や芸事の熟達を示す言葉として「守破離」が知られている。まずは師について修行を重ね、師の教える型を「守」ることから始め、次いで既存の型を「破」りつつ自身の型を新しく作ることに挑み、最後には型から「離」れることで道を究めるというものだ。ショーンの分析するプロフェッショナルも、はじめ定型化された理論の型から始め徐々に自身の「わざ」へと磨き上げていくプロセスをたどっている。型を自家薬籠中の物として操ることではじめて型に縛られない仕事ができるのである。

 畢竟「わざ」には公的なものを私的なものに落としこむ力がある。生のままの理論は抽象的で脱文脈的な知識である。それだけでは現実の偶有性に馴染まない。だから、それを扱う人間の偶有性、すなわち身体に接木されることによって具体的で文脈的な世界に落としこむことができるようになる。「わざ」は抽象的な理論と具体的な文脈の接点として機能するのだ。

 クイストがペトラにしてみせたように一流のプロフェッショナルは混沌とした状況から最適なアフォーダンスを引き出してくる。周囲の人間には偶有性渦巻く文脈であっても、名づけなおし、枠組みを与え、要するにリフレーミングして解きほぐしてしまう。畢竟「わざ」とは個別具体的な状況が提示するアフォーダンスと切り結び、相互に行為調整をしてみせる能力にほかならない。人は身体を通じて環境と相互的な関係を取り結ぶ。周囲環境に作用してバランスを取ることのできる「わざ」はきわめて身体的な性質をもっている。

 プロフェッショナルの「わざ」はその人自身の経験と記憶に深く根差したスタイルによって生まれてくる。そのため「わざ」の知恵は個人の身体に根ざした偶有的なものに留まってしまう。結果、言葉などによって他者と共有することは至難である。プロフェッショナルはマニュアルとは一線を画した彼だけの秘密の理論を隠しもった存在なのである。だから、それを隠し立てて権力化することのないようにショーンは釘を刺す。むしろ、対話の可能性を開くものとして「わざ」を定位させようとしている。



「わざ」の謙虚さ

一流のプロフェッショナルの身体に宿った「わざ」はその人の弛まぬ試行錯誤の果てに生まれてきたものだ。その人が誰と出会い、何を経験し、どのようにしていまに辿り着いたのか、その履歴が「わざ」を磨いていく。畢竟「わざ」は偶然によって作られる。それは運命的と言うほかない。

 「わざ」が発揮される局面もまた偶然で一回きりの状況だ。マニュアル的な知識は個別具体的な文脈から離れて必然的な解答を用意するものだけど「わざ」は二度と訪れない具体的な文脈に臨んではじめて発生する。だから、ある文脈で有効だった「わざ」の回答が他の文脈では功を奏さない可能性は十分にある。「わざ」にはこのような限界がある。


「わざ」の理論はマニュアルのように確定したものでも最終的なものでもない。卓抜した予期の目をもつ達人といえども絶対ではないのだ。だから、いままでの経験では対応することのできない新しい事象や想像だにしない偶然が起こることもまた達人は承知している。

 しかし、自身の「わざ」が通用しない場面に遭遇してからが達人の腕の見せ所でもある。一流のプロフェッショナルは過去の経験を瞬間的に反省して未知なる新しい状況に適用させるために工夫することができる。この即興的な工夫にこそ一流のプロフェッショナル最大の力量があるとショーンは考えている。そして、それを「省察的実践」と名づけた。実践の最中における反省、反省しながらの実践こそ一流の証なのだ。


不確実な現場においてこそプロフェッショナルは真価を発揮する。日常的な作業に対しても使い古した理論の反復をあてはめてよしとすることはしない。日々の日常のなかでさえ新たな差異や不確定性を見いだして自身の理論に細かな反省と修正をほどこしていくことを怠らない。こうして、プロフェッショナルの「わざ」は偶然との対話を通じて磨かれていく。未知なる状況のカオスをつねに想定して、いままでの理論を手放すと同時に新たな理論を組み上げていく。「わざ」は差異生成の技能でもある。

 プロフェッショナルの「省察的実践」はつねに差異をはらんだものであるとともに、その場限りの有限な「わざ」である。その場限りであるため「省察」によるメンテナンスをしておかないと次の状況では使用できなくなってしまうのだ。

 なんとも面倒なことである。しかし「わざ」の有限性にこそショーンは専門家であるプロフェッショナルと一般人であるクライアントとの相互的な対話の可能性、そして専門家のモラルの可能性を見いだしてもいる。

 高地に居つづけるプロフェッショナルはクライアントに対してつねに「ワンアップ」の地位にいるステータスの高い存在である。理論の優位を譲ることがなくクライアントの個別の状況を理論に当てはめて捌くことに終始する。高地のプロフェッショナルは、理論が不首尾に終わって自身の専門性が傷つくことを恐れるため失敗をしたときに、失敗を認めることができない。だから、素人であるクライアントに手の内を明かすことなく権威的な態度に取るようになる。

 それに対して沼地のプロフェッショナルは自身の「わざ」が有限であることを自覚している。クライアントの個別の文脈に自身の「わざ」がマッチするかどうか細かく省察を続ける。クライアントの状況と対話に意を配り、省察的な実践を欠かさず、クライアントの状況に自身の理論がそぐわないと思えば即座の修正を厭わない。「わざ」をもったプロフェッショナルは偶然に向きあおうとする「配慮」(ケア)をつねに忘れることがない。その「ワンダウン」の謙虚さにショーンがモラルの根拠を見いだしたのは故ないことではない。


「謙虚な問いかけ」はシャインのキーワードであるけれど省察的実践を旨とするプロフェッショナルにも言えることである。ショーンの批判する権威的な専門家は手の内を秘匿する。専門家は正しいものだという態度を崩さずに非専門家であるクライアントに威圧的な態度で接する。それに対して、省察的なプロフェッショナルは他者の織りなす状況に対してつねにワンダウンのポジションで謙虚に対話する姿勢をもちつづける。

 「フレーム実験」とショーンは名づけているけれど、一流のプロフェッショナルは変化を続ける状況に対して、まずは自分の枠組みをあててみて、課題の「核」とでも言うべきものを探していく。はじめにあてた枠組みが適切なものではなければ再度枠組みを与え、細かな実験を重ねつつ、断続するリフレーミングのなかで行動の調整をしていく。

 要するに、専門家が熟練の「わざ」を通じて偶然と対話することをショーンは示しているのである。省察的実践のエッセンスはやはり「省察」にある。一回限りの偶然性との謙虚な対話にはアンラーニングの作法が埋め込まれているのだ。


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熟達したインプロバイザーにも独自の「わざ」がある。その「わざ」は偶然に「イエス」と言うことでスポンテニアスに生まれてくるものである。だから「わざ」の発露する瞬間はプレイヤーのグッドネイチャーの現れる瞬間にほかならない。

 そして、ショーンの描いてきたプロフェッショナルの「わざ」も偶然との対話に根ざしたものである。インプロバイザーの「わざ」こそ「わざ」の原点を体現するものだとは考えても無理はないだろう。

 熟達したインプロバイザーはシーンの流れを読むことにも長けているが、予想に反してシーンが展開することも十分に承知している。だから、どれほど思いがけない状況に居合わせたとしても過去の経験に強引に適応させて抑えこんでしまうことはしない。「こういうことか」「ああいうことか」とすこしずつ工夫をしながら自身のアイディアを場になじませていくのである。

 熟達したインプロバイザーは優れたエージェンシーとして環境と対話を重ねて相互調整を怠ることがない。それは省察的実践そのものだ。省察的実践者としてのインプロバイザーはいままでの「わざ」を保ちつつも、その場に適した新たな「わざ」を即興的に編みだしていける存在である。


畢竟、熟達とは自身のスタイルからひとつの「わざ」を生みだしていくプロセスにほかならない。「わざ」を編み出していく過程では、自身のスタイルと他者のスタイルを比べること、すなわち見るもの、感じるもの、そのアフォーダンスの差異を省察することがきわめて重要な役割を果たす。

 インプロはその眼差しを自然と養うことになる。自身のスタイル、すなわち「わざ」がどこにあって、どのようなものなのか、反省しないプレイヤーはまずいない。だから、インプロの経験は「わざ」をどのように生みだしていったらいいのかを、要するに「わざ」の生みだし方を入れ子的に学ばせてくれるものだとぼくは考えている。学び方を学ぶこと、熟達の仕方の感覚を学ばせてくれるのだ。

 しかし「わざ」の習得のプロセスに他者との比較が必要だとしたら「わざ」はひとりだけの学習、自習や独学では身につかないことになる。「わざ」の習得における他者の存在の不可欠性について次は考えていきたい。


【了】

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