4-5.インプロ的関係 / Autopoiesis
ねぎぽんです。ワークショップのデザイナーとファシリテーターをしています。
このテキストの全体像は「目次」をご用意しましたのでご覧ください。
メルロ=ポンティの思考を借りて、人間個人を超えた場や世界の生の力について書いてきました。ただし、メルロ=ポンティ晩年の思想は「肉の形而上学」と呼ばれることもある程で、すこし抽象的になってしまった感もあります。もうすこしだけぼくたちの日常に近づけて考えられるものにしたい。
ここでは社会システム理論を唱えたドイツの社会学者ニクラス・ルーマンとチリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラ子弟を取り上げます。両者に共通する概念が「オートポイエーシス」です。
オートポイエーシスの理論は偶然でバラバラな出来事の渦巻くカオスが、出来事同士が相互に影響をしあうことで、次第に調和のあるコスモスを生じていくプロセスを解き明かしてくれます。
インプロのシーンもはじめは空白の場に生まれるカオスです。互いに何を考えているか分からない。どんなシーンを作りたいのかも分からない。それぞれのプレイヤーが思い思いにオファーを繰り返す混乱の渦です。でも、イエス・アンドを重ねることで次第に一つの調和あるシーンへと転じていきます。
このインプロの場の生成の秘密をオートポイエーシスに即して書いていきます。マトゥラーナ&バレラは調和生成のプロセスを「愛」と呼びますが、インプロはまさしく「愛」の場です。
以下11000字です。
4-5. インプロ的関係 / Autopoiesis
4-5-1. ニクラス・ルーマンの社会システム理論
メルロ=ポンティの思考を借りて、人間個人を超えた場や世界の生の力について書いてきた。ただし、メルロ=ポンティ晩年の思想は「肉の形而上学」と呼ばれることもあって、すこし抽象的になってしまった感もある。もうすこしだけぼくたちの日常に近づけて考えられるものにしたいところなので、インプロの「場」についての考えを社会学者ニクラス・ルーマンの「社会システム理論」の考えへと迂回させてみたいと思う。
社会システム理論とは、20世紀の社会学で中心的な役割を果たした、社会をひとつのシステムとして捉える理論のことだ。アメリカの社会学者タルコット・パーソンズに始まり、ドイツの社会学者ニクラス・ルーマンが洗練させたものとして知られている。個人の行為がシステムとしての社会を構成するのではなく、システムとしての社会があってはじめて個人の行為が成立すると考える理論で、個人よりも社会に優位を置く考え方に特徴がある。
この社会システム理論はコミュニケーションの理論でもあるのだけど、やはり、社会システムという前提があってはじめて個々人のコミュニケーション行為が成り立つと考える。ルーマンの社会システム理論は膨大かつ難解で知られたもので、その全貌を語ることなど到底かなうものではなく、ここでは、コミュニケーションに関係する領域で、社会システムの生成の鍵となる「ダブルコンティンジェンシー」の概念にだけ触れることとする。
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「ダブルコンティンジェンシー」とは二重(ダブル)の偶有性=不確実性(コンティンジェンシー)を意味する言葉で、はじめパーソンズが社会学のテーマとして取り上げたものである。人間の行動においてダブルコンティンジェンシーは取るべき行動の選択を決定する根拠に関わるものである。すなわち、自分がどのような行動をすべきかは相手の出方次第であり、相手から見ても同様であるとき、ダブルコンティンジェントな状況にあると定義される。要するに、自分の取るべき行動が相手の取る行動に依存している不確実な状況で、なおかつ相手にとっても同様であるという二重の状況のことを指す。
ダブルコンティンジェントな状況では行動の決定に偶然が大きく作用する。物々交換の経済の場合、肉が余っていてパンを欲しがっている肉屋とパンが余っていて肉を欲しがっているパン屋が出会ったとき、肉とパンの交換が成立する。けれども、かならずしも肉屋がパンを欲しがっているわけではなく、肉を欲しがっているパン屋がいるとも限らない。だから、ここで交換が成立するとしたら偶然なのだ。
あるいは、片思いを寄せている異性がいたとして、その人と関係を深めたいと思っても相手が自分のことをどう思っているかわからないから、どう行動したらよいかわからないという状況もまた知ることのできない相手の恣意性に委ねられているという点でダブルコンティンジェントな関係だと言える。
コンティンジェンシーはコミュニケーションにとって厄介事である。パーソンズはコンティンジェンシーを除去することが社会システムの機能のひとつであると考えていた。どこに肉を欲しがっている人がいるのか、誰がパンを欲しがっているのか、そのような偶然に依存していては生活は成り立たない。だから、コンティンジェンシーを削減する道具として人間は貨幣を使用する。現物が手元になかったとしても貨幣があればいつでも欲しいときに欲しいものが手に入る。こうして、貨幣というシステムはコンティンジェンシーを除去していく。
しかし、色恋についてはどうだろうか。恋愛に限らずとも人の心は外部から窺い知れぬ暗闇のひとつだ。コンティンジェンシーの除去とは心を消してしまうことだろうか。それとも心を透明にして100パーセント分かりあうことだろうか。いいや、それは不可能だ。ここでコンティンジェンシーの除去を志向するパーソンズの議論は袋小路に陥ってしまうのだ。
ルーマンはパーソンズの議論を逆転させたのだった。すなわち、厄介事でしかなかったコンティンジェンシーを人間の社会システムに必要不可欠な前提として捉えなおしたのである。畢竟、ダブルコンティンジェンシーがあるからこそ人と人の相互行為が起動して社会システムが生成されると考えた。
ルーマンの社会システム理論は、個々の人間個人を結びつけたものがシステムであると考えることをもはやしない。ひとりの個人もまたひとつのシステムとして考えられる。そして、システムとシステムの関係性がさらにもうひとつのシステムを生みだすとする。だから、コンティンジェントな状態とは複数のシステムが相互に必然的な関係をもちえない状況、偶然のままに晒されている状況へと再定義される。そのうえでルーマンはコンティンジェンシーの理論を「必然性の排除と不可能性の排除」「必然的でもなければ不可能的でもないもの」としてその概念を拡張する。
ぼくに密かに想いを寄せる女性がいたとする。ぼくは彼女とより仲良くなりたい。でも、相手がどう思っているかは分からない。この状況でぼくが彼女との関係をよくするためにどのような行動をすべきかは確定できない。このときぼくの行動はまったく「必然的ではない」のである。
いきなりLINEで通話をするのは気が引けるし、メッセージをしようにも「飲みませんか」と直接的に誘うのも悪手にも感じる。そこで「昨日の飲み会、映画の話題で盛り上がりましたね。今度封切られる映画でおもしろそうなのはありませんか」くらいのメッセージで探りをいれてみることにする。すると相手からは「○○という映画はおもしろそうですよ」という返信が帰ってくる。ぼくは映画の話題は悪くないかもと思って「○○」という映画の監督の作品をチェックして、次のタイミングで感想を伝えられるように準備しておく。別件で連絡を取る必要があったついでに追伸で映画の感想を一言添えておくと彼女からは「やっぱり、いいですよね、あの監督の作品」という返事があった。ぼくは少し距離が近づいたかもしれないと思って「よかったら○○を見にいきませんか」とメッセージしてみる。このような相互作用をすることがありえる。ここで「不可能的でもない」とは、相手の考えていることが分からないなりに相手のリアクションを察しながらコミュニケーションの可能性を探っていくことを意味する。
ぼくは相手の考えが分からないし相手もぼくの考えが分からない。ふたつのシステムが関係をもっていないという状況では必然的ではない行動を取るほかはない。無限にある可能性のなかでとりあえずひとつの行動を選択して相手に投げかけてみる以外の手はないのである。しかし、そのような偶然に委ねた行動でも実行を決断できるのはコミュニケーションの成就はまったく不可能でもないという期待があるからだ。
コミュニケーションにはかならず相手からの反応がある。好意的な反応であれば少なくとも嫌われてはいないことを教えてくれるし、無反応という反応であれば脈がないことを教えてくれる。投げられた賽に対して相手の返す反応は最初の状況のコンティンジェンシーを縮減してくれる。そして、次にぼくが相手に対して投げかける行動は相手のぼくに対するコンティンジェンシーをまた縮減するものになるはずである。
そうしてコミュニケーションの骰子振りを繰り返していけば、さっぱり分からないという状況から相互に影響を与えあう関係が生成し、もしかしたら恋人というシステムへと生成することも不可能ではないかもしれない。これが、必然的でもなければ不可能的でもないものとして生まれてくるシステムである。
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ルーマンの社会システム理論はコミュニケーションの理論として考えられる。しかし、社会システム理論によるコミュニケーション概念は決して「分かりあう」ためのものではない。いつまで経っても互いの心の内が分かるようになるということはない。ダブルコンティンジェンシーを前提とする以上、他者の心は決して中を窺い知ることのできない暗闇、ブラックボックスなのだ。この点でレヴィナス的な他者の概念に近しい。
それでも、相互にやり取りを繰り返すことでコミュニケーションという出来事は成り立ちえる。もちろん、相手の心を知りえるからということではない。コミュニケーションが取れているとみなすことのできる関係性が築けているということである。畢竟、社会システム理論においてコミュニケーションは純粋に個人的な行動ではない。そうではなくて複数の個人の行動が調整されて生じる、それ自体社会システムであるものにほかならない。そこには「見えるもの」と「見えないもの」の相互関係が世界を生成するというメルロ=ポンティの現象学にも通じる考えがある。
多少くどくどしくルーマンの社会システム理論について書いてきた。けれど、ルーマンの描写するコミュニケーションは、インプロのコミュニケーションに重なるものが見て取れる。プレイヤーは互いに何を考えているか分からない。シーンの冒頭、互いのアイディアはブラックボックスである。しかし、関わりあいを重ねることで、シーンの終盤には、コミュニケーションのシステムをひとつ生みだすことができる。
ダブルコンティンジェンシーに満ちた状況からスタートをしながらイエス・アンドが徐々にコンティンジェンシーを縮減していくことでコミュニケーションとしてのシーンが生成するのである。大切なことは、コミュニケーションとは誰かの意に添うことでは決してなくて、相互作用の結果として出来あがったシステムのことなのだ。
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ぼくがインプロのコミュニケーションを学んで何にいちばん驚いたかといえば「相手の気もち」など理解できなくてもやり方次第でコミュニケーションは成立するということだった。日本の空気を読む同調圧力に依拠したコミュニケーションは、相手の気持ちに沿うことを絶対的なゴールに設定してそれからずれないように外れないように忖度しながら、正しい行動をするように強いるものである。それが陰湿なイジメを生み、うつ病を蔓延らせる一助となっているわけだけど、インプロのコミュニケーションはその対極にある。
インプロでは相手の考えていることや相手の期待は正直わからない。分からないからそれにしり込みするのではなく、まず試してみる。そして、試してみた結果をイエス・アンドして次の自分の行動を試してみる。その繰り返しで人との関係を作っていくというプロセスのコミュニケーションだ。
コミュニケーションは試行錯誤であり、そして、偶然の結果として出来あがるというのが社会システム理論の教えるコミュニケーションの形である。このように結果から考える作法はいまは偶々そうなっただけで別の可能性もあったのではないかという思いを必然的に呼び起こすことになる。
ぼくはいまインプロについて書いている。インプロと出会い、インプロと関わったことでぼくはいまここにいるぼくとなった。けれど、インプロではない何かを続けていたら、インプロに出会っていなければ、インプロを教えてくれた友人がいなければ、ぼくは現在のぼくではなくて別のぼくであったはずだと思わずにはいられない。過去にありえた無数の分岐のなかで結果取ってきたコミュニケーションが現在のぼくというひとつのシステムを作ったのである。
したがって「もしかしたら別様にありえたかもしれない」とは「必然的でもなければ、不可能的でもない」を一言で言い表した言葉にほかならない。それはルーマンのコンティンジェンシー概念を的確に射貫くだろう。そして、別様にありえた可能性としてのコンティンジェンシーこそ実はシステムを維持していくのに必要不可欠な要素なのだ。
コンティンジェンシーはコミュニケーションのスタビライザー(安定化装置)としても機能する。コミュニケーションにコンティンジェンシーがなかったら、たとえば誰かの意に添うことがコミュニケーションだとしたら、どうだろうか。「誰かの意」というゴールが存在する以上、取るべき行動は必然的に決まる。答えは唯一であって、それ以外の答えはない。したがって、唯一の答え以外の行動を取る人は意に添えない人であり、コミュニケーション能力がない人とされる。結果、コミュニケーションの不可能な存在としてシステムから排除されざるをえない。
しかし、コンティンジェンシーを前提とすれば「ああ言ってしまったけれど、別の言い方もあっただろうか」「こう言っているけれど、言いたいことは別にあったのではないだろうか」と別様の可能性について思いめぐらすことができる。コミュニケーションの不可能性は否定され、可能性が残される。コンティンジェンシーは複数のアクセスルートを用意しておけば、ひとつのルートがダメになっても別のルートからアクセスできるという情報理論における「冗長性」として機能する。
コンティンジェンシーという「見えないもの」や「余白」がダブルコンティンジェンシーとして相互作用となるときコミュニケーションのシステムを起動する。このようなルーマンの考え方はドゥルーズの潜在性の議論に共鳴するところがある。ルーマンの言葉を使えば、インプロバイザーのオファーはコンティンジェンシーを生みだし、イエス・アンドはコンティンジェンシーを縮減すると語ることができる。それは、ドゥルーズに即して潜在的な差異化=微分化としてのオファーをイエス・アンドが異化=分化して現勢化すると述べてきたことと接近する。
インプロには多様な側面がある。レヴィナス的な他者との関係性への視点とメルロ=ポンティやドゥルーズに特徴的な場の力への視点と、その双方でインプロを語ることができる。ここで社会システム理論を用いてインプロを語ることで両者を結びつけることもできるのではないかと、ぼくは考えている。
4-5-2. オートポイエーシス
社会システム理論は生成する場の理論だ。その理論化の過程でルーマンに大きな影響を与えたのが、チリの医学・生理学者であるウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラ師弟の「オートポイエーシス」(自己創出)の理論だった。マトゥラーナとバレーラは生物学研究からオートポイエーシスの概念を導きだした。
自動車や時計は人間が別の場所で作った部品を組み合わせて作ったものであって他に依存した創出である。それに対して生物の胚はつねに自分を自分自身で生みだしている。受精卵はひとつの細胞が無数の複雑な個体へと自己生成していく。これがオートポイエーシスの個体の自己創出である。
オートポイエーシス個体の第一の特徴は「自律性」だ。自己自身で差異を生みだして変化していく力をもっている。そして、第二の特徴は「個体性」である。個体のホメオスタシスを維持する自己保存の運動を行う。オートポイエーシス個体は互いに自律した存在であり、自己の個体を維持しようとする。しかし、他の個体とも無縁ではありえず、互いに影響を与えあう。ひとつのオートポイエーシス個体に生成した変化は他のオートポイエーシス個体である細胞に影響を与えないではいられない。
この影響関係が連動している場合、構造的な「カップリング」が成立していると言う。細胞と細胞のカップリングは臓器というオートポイエーシス個体を生成し、臓器と臓器のカップリングがひとりの人間というオートポイエーシス個体を生成する。
オートポイエーシス個体どうしは互いに影響を与えあう。だけど、その与え方には特徴がある。自動車であれば人間が動かしたいときにキーを回すことができるし、ハンドルを切れば自在に動かすことができる。入力と出力のオンとオフが一対一に対応している。しかし、オートポイエーシス個体はそうではない。大前提としてオートポイエーシス個体は互いに自律している。したがって、それぞれに生じる変化や差異はそれぞれに偶発的なものでしかない。一つの個体に生じた変化が他の個体にどのような変化を起こすのかも当然偶発的なのだ。
オートポイエーシス個体は他からの影響は受けるものの、それに伴ってどう変化するかまで他によって決定されるものではない。マトゥラーナとバレーラの言葉によればオートポイエーシス個体には「入力も出力もない」のだ。オートポイエーシス個体は入出力の存在しない閉鎖的なシステムである。したがって、その自己と非自己の境界=界面=膜を自分で決定していることになる。ここからルーマンはコミュニケーションのブラックボックスの議論を導いたのだった。
オートポイエーシス個体には「自律性」「個体性」「境界の自己決定性」「入力も出力もないこと」以上の4つの特徴がある。それでも互いに影響しあい、関わりあって、更なるシステムを創出していきもする。というのもオートポイエーシス的なシステムが全体として自己を保存するように動くからだ。
ある細胞に突然変異が生じて他の細胞を攻撃するようになったとしよう。しかし、この状態が続けば他の細胞を殺すことで生体全体が傷つくことになる。生体全体が死んでしまえば攻撃する細胞の自己保存まで不可能になってしまう。だから、このような細胞は存続することができない。畢竟、攻撃的に変化した細胞を抑制する機制をもった個体であれば存続することができるわけで、そのときは自己保存が成功するのである。
端的に言ってオートポイエーシス個体は他のオートポイエーシス個体にとって本質的に攪乱要因にほかならない。ひとつの個体に生じた変化は必然的に他の個体を攪乱する。それと同時に他の個体が攪乱されて生じた変化は、再度はじめの個体に攪乱的影響を与えることになる。個体間にはフィードバックの連鎖が存在していて、均衡のとれる関係性だけが淘汰=選択されて存続していくことになる。他が他に対する「セレクター」(選択的要因)として機能するのである。
個体と外的環境の間にも選択の関係が存在する。環境というシステムにとって個体はそれぞれに偶発的に差異を生じる攪乱要因にほかならない。しかし、個体の生みだす差異のうち、環境との相互作用のなかで存続できるものは限られている。差異は無数かつ無際限に生みだされてはくるけれども、環境との調整の結果、残されたものは唯ひとつ「いまここ」に現れているものということになる。
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オートポイエーシス理論にはダーウィンの進化論の継承的発展の側面がある。ダーウィニズムは突然変異と自然淘汰の二つの軸から成り立っている。種はつねに偶然かつ突然に種の変異を生みだす。けれど、生みだされた新たな種の差異は、周囲環境との関係で存続できるものもあれば存続できないものもある。結果存続できたものだけが現在に残されている。このように考えるのがダーウィン進化論だ。
淘汰=選択の理論は、環境が主体的に残される種を選ぶということでもなく、残った種に残る能力があったからというわけでもなく、突発的な変異と周囲環境の相互調整によって結果残るものがあるということだけを意味する。
シーンにおいてインプロバイザーは差異生成の根源だ。インプロバイザーは相互に自律した存在であって、それぞれがスポンテニアスにオファーを生みだしていく。言ってしまえばオファーのあるごとシーンに攪乱が生じていく。だけど、すべての差異が現勢化するわけでも存続するわけでもない。オファーにはシーンに残るオファーと残らないオファーがある。残るオファーは次のシーンを作る礎となるが、残らなかったオファーは実現不能な選択肢として淘汰される。
インプロバイザーはシーンの流れを身体的に感じ取る存在だ。優れたインプロバイザーであればあるほど場の流れに逆らうことをしない。流れに逆らったオファーを選択してもシーンに淘汰されるのがせいぜいで、最悪の場合、シーンを殺してしまう可能性があることも理解している。だから、オートポイエティックにカップリングが創出されていくことを邪魔しようとはしないのである。
インプロバイザーは関係性に流れる力や場のもっている力を実体験として理解している存在である。シーンのさなかでインプロバイザーは多方面からの複数の流れを同時に感じ取ることになる。「自分のアイディアは相手にどのように届くだろうか」「どのようなオファーが有効に刺さるだろうか」「今日のプレイヤーが好きで演じやすいテーマは何だろうか」「ちょっと挑戦してみたいテーマはあるか」「今日の観客が見たいシーンはどのようなものだろうか」「観客は大人が多いか」「子どもが多いか」「シーンに夢中になっているか」「距離を取っているか」「熱はあるか」「冷めているか」など、インプロのシーンは無数の流れが合流して渦を巻いている。その逆巻く力に逆らわず、渦巻く流れに乗って、適切なオファーができるのが優れたインプロバイザーだ。
より良いシーンを作ろうとひとりでがんばってもシーンを壊してしまうことがある。反対に停滞した雰囲気におつきあいをしてしまって低調なままシーンを終えてしまうこともある。キース・ジョンストンであれば、前者のプレイヤーには「がんばらないで」と声をかけ、後者のプレイヤーには「明らかにして」と声をかけるのだろう。
刺激を作るようなオファーをするタイミング、相手のオファーに流されるタイミング、それは時と場によって様々だ。共演するプレイヤーによって、見ている観客によって、ベストなパフォーマンスは異なるわけであって、誰にとってもベストなインプロはありえない。今日の場にとってベストなインプロがあるだけだ。場の自己創出に適切に関われるパフォーマンスができること、それが熟達したインプロバイザーの極意である。
オートポイエーシスは偶発的で無軌道に生まれる差異が相互に関係を結ぶことで均衡と安定のあるシステムへと生成していく様子を説明してくれる。マトゥラーナとバレーラはオートポイエーシスの理論を拡張して、個体と環境の生物学的な関係から人間の個人と社会的な関係を語ることまで広げていく。
人間の社会もまたオートポイエティックなシステムである。ただし、一世代で終わる生物個体とちがって、多世代に渡って言語的な歴史と文化を培ってきたシステムである。個体間の相互調整の履歴が歴史として蓄積されている。社会に生まれた個体は自身の行動が調整可能なものであるかを事前に検討することが可能になるし、それを周囲からも求められる。そうしてシステムに適合するものとしての振る舞いをするようになる。
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長く歴史をもった場のシステムは、調整の可能性と不可能性を厳しく峻別して許される個体と許されない個体を明確に分離する作用を見せることがある。学校や職場にはびこるいじめが好例だ。しかし、マトゥラーナとバレーラによれば、オートポイエティックなシステムはあくまでも攪乱要因を差異生成の起動因として肯定するものである。そして、生成した異質なる他者=外部を排除していくシステムは最終的には自己自身を切り崩してしまだろうと指摘している。
結局、外的な変化に対応して自己を変化させていくのがオートポイエーシス個体の生命の力なのであって、そこで変化を拒むようであれば死んでいるのと同じである。そもそもの生きている個体の自己保存を目指す運動から外れているのだ。
システムがオートポイエティックに存続するためには、共に存在している他の異質な個体の存在を認め、受け容れ、関わることが欠かせない。世界が唯一であるという錯覚を捨て、この世界は自己と他者が共に関わることで生まれてきている一つの世界の多様な現れでしかないことを理解すること、そして、別の視点で世界を作っている誰かと共にいることを受けいれることが新たな社会を作っていくプロセスを生む。この営みこそ人と人との間に生きる「人間」を特徴づけるのだ。
だから、マトゥラーナとバレーラは他者とともに暮らし、他者を受けいれ、システムにダイナミックな変化とハーモニックな統合を導く力を「愛」と名づけた。いまさらインプロが愛の表現であることに論を待つまい。
オートポイエーシスの理論は、個体それぞれが自己閉鎖したシステムでありながら最終的には他者と関係を結んでつながっていく逆説的な愛のプロセスを描くものである。メルロ=ポンティの肉の存在論やドゥルーズの潜在性の場の議論に通じるのはもちろんだが、東洋思想の無の考えにも通じるものである。
大乗仏教の縁起説は、無の内に偶然生まれた個物たちが互いに作用して関係を結ぶことで、世界を生成させていく様を教えてくれる。インプロの場も無だったステージがシーン開始の合図とともに自然と形を生じさせていって無限の姿へと転じていくプロセスを見せてくれる。オートポイエーシス理論に近づいてみれば、インプロの場がはじめひとつの細胞でしかなかった受精卵が自己分割を展開して多様な姿へと生成する様としても見えてくるだろう。
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参禅体験と西洋哲学を結びつけ日本初の哲学を大成したと言われる西田幾多郎は、無限者である無が、すなわち東洋思想の論じてきた無が自己限定することで意識と世界として生まれてくると考えた。受精卵が自己分割して多様な組織を生んでいくように、限定されることのない無限な無が自己自身を限定して分割していくことで多様で複雑な世界、そして、人間の意識を生みだしていくというのである。
だから、西田の無の哲学には、場としての無が自己限定=自己展開して世界を生成していく場所の哲学の相貌がある。西田によれば、この世界には多種多様な存在が有って、しばしば互いに傷つけあい排斥しあう関係にもなるのだが、しかし、根源的に同じ無を分けもつものとして通じる部分もまたある。それゆえに、自他の差異が理念的に一致しえる無の位相の自覚こそ自他の調和的な和合を導く縁になるはずだ。
西田は急速に近代化=西洋化を遂げる日本にあって近代的=西洋的意識を抱えこんでしまった悲しみに終生憑りつかれた人だった。西洋の主観と客観、自己と他者を分離する思想では決して両者を和合させることはできない。自己自身を一致させることはできない。「私」と「あなた」を一致させることもできない。その悲しみを乗り越えるために西田は東洋思想の伝統に向かったのだった。
西田は個体どうしが互いに分かりあえないブラックボックスであることを痛いほど理解していただろうと思われる。だからこそ、無による自他主客の一致ならざる一致、自他の調和は描いても描き切れない西田の悲願だったのではないだろうか。その西田もまた自他合一の感情を「愛」と呼んだ。
ルーマンと並んで入り組んで複雑怪奇な西田哲学についてここで紙幅を割いて論じることはできない。けれど、分かりあえない存在どうしが、それでも互いを肯定して関係を結ぶことでひとつのコミュニケーションを生みだしていくという奇跡をインプロの実践を通すことで伝えることができたなら幸甚だ。
【了】
画像著作者:x1klima
画像は著作権フリーのものを使用しています
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