【短編小説】派手な傘
微かに聞こえる音が心地よくて、耳を澄ませる。
部屋の中で聴く雨音が私は好きだった。
「ねえ、和葉ちゃんー……」
下の階からの母の声が邪魔をする。
母が私をちゃん付けするときは大抵面倒くさい用事を押し付ける時だ。
「駅までお兄ちゃん迎えに行ってあげてくれない?」
やっぱりだ。どうして高校生にもなる兄の迎えに行かないといけないのか。母の過保護ぶりには呆れてしまう。
「なんでよ」
「雨降ってきちゃったから。お兄ちゃん傘持って行かなかったのよ」
「もう、なんであいつ……」
なんであいつのために私が、そう言おうとして止める。母は兄の事を悪く言うのを許さない。
母が不機嫌になる前に、駅まで行く準備をした。
傘立てにあったビニール傘を適当に手に掴む。
もう一本、今度は兄の傘だ。何故か兄だけは自分の傘を持っていて、それが虹色の派手すぎる傘なのだ。
傘なんかなんでもいいし、ましてやこんな趣味の悪い傘を自分の物にしている兄のセンスを疑う。
「ダサい傘……」
私は独り言を呟きながら、玄関のドアを開けた。
開けた途端に腕が濡れた。
肌を直接濡らす雨は、部屋の中で聴いていたあの心地いい雨とは別人のような顔をしていた。
傘にぶつかる音がうるさくて煩わしい。
やっとの思いで駅へと着くとちょうど兄が改札から出てくるところだった。
「傘くらい持っていきなよ」
素っ気なく傘を手渡す。
「悪いな、濡れなかったか?」
「濡れたわよ。傘なんて意味ないくらい降ってるじゃん」
「そうだよな。母さんには迎えに来なくていいって言ったんだけどな。悪かったな和葉」
兄は謝ってばかりだ、私に気を遣っているのが手に取るようにわかって、それがまた鬱陶しい。
兄と私は、血が繋がっていないから気を遣うのは当たり前かもしれない。けれど、その気遣いが血縁以上の壁を作り出している気がしてしまうのだ。
帰り道は、少し離れて歩いた。
兄は何度か私に話しかけたみたいだったけれど、雨の音でよく聞き取れなかった。
家に着く直前に、突風で兄の傘の骨が折れた。もう何年も使っているから寿命だったのかもしれない。
「もう捨てたら?」
私の提案に、兄は首を振った。傘を畳んで、悪いけど先に帰るよ、とだけ言い残して雨の中走り去った。
入れてくれと一言頼めば、それで済んだはずなのに、また私に気を遣う。
「結局濡れて帰ったんだから、私が行った意味なかったよ」
三人で囲む夕食の最中、母に愚痴をこぼす。
「いいじゃないの。どうせ暇だったんだから」
なんという言い草だろうか、血は繋がっていようが少しは気を遣えと思ってしまう。
「そうだ、あの傘もう捨てなよ。ボロボロでしょ?」
母に反論しても無駄だと、兄に話を振る。
「いいんだ。まだ使える。ごちそうさま。母さん美味しかったよ」
兄はそう言って席を立った。母さん、と敢えて口にするのも、美味しかった、と毎回伝えるのも、兄なりの気遣いなのだ。
「なんであんなダサい傘そんなに気に入ってるのかな?」
母と二人きりになり、冗談まじりにそう言うと、母の表情が変わった。
「あのね……」
機嫌が悪い時の母の話し方だ。いくらなんでも傘をダサいと言っただけで地雷を踏むとは思わなかった。
「和葉覚えてないの?」
「何を?」
母はわざとらしく溜息を一つ吐いてから私の目を見据える。
「あなたが小さい頃、お兄ちゃんの忘れ物を駅まで持っていってあげたことがあるのよ。今日ほどではないけれど、その日も少し雨が降ってたわ……」
母は思い出すように訥々と話し出した。
「お兄ちゃんはずっと駅で待ってたんだけど、なかなか来ないから探したんだって。そしたら、駅の端っこの方で、あなたが泣いていたの」
「なんで?」
「駅前にいる人がみんな傘を差してて、誰がお兄ちゃんかわからなかったんだって……」
そのことは覚えてないけど、駅で泣いた記憶はあった。その時のことだろうか。
「その夜ね、お兄ちゃん帰ってきて、自分のせいで妹を泣かしちゃったって、ごめんなさいって私に何度も謝るの……」
母はその時の事を思い出しているのだろう、目元がぼんやりと光った。
「……傘を差していても、和葉が絶対に僕を見つけられるように、ってあの派手な傘を買ったのよ」
知らなかった。あの傘にそんな意味があったなんて。
あのダサい傘は私のためだったのか……。
それを私は……。
無我夢中で、階段を登った。兄の部屋の前に立つ。何を言えばいいのかわからないけれど、とにかく何か言わなければいけない気がして。
扉を開ける。
「お兄ちゃん……」
「どうした?」
「あの傘捨てるよ」
「まだ使えるって」
「もういいの」
「何が?」
「もう、見つけられるよ。お兄ちゃんのこと」
私の一言で全てを悟ったように、兄は笑った。
「そうだよな」
明日、新しい傘を買いに行こう。二人で。
とびきりオシャレな傘を。
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