見出し画像

【松平氏と岡崎藩と築山御前と】築山殿の首塚についての考察


はじめに

今さら言及することもなく、天正七(1579)年八月二十九日。
築山殿は
・武田氏との内通
・長男・信康公の正妻・徳姫から父君・信長公に宛てた訴状
が原因ではないかーーとされ、遠江国に在る小藪村(現・浜松市中区)に於いて徳川氏家臣に殺害された。

亡骸は遺体は浜松市中区に在る『高松山 西来禅院』に葬られ、首塚は再三触れてきたが、当初は岡崎市両町に在る『根石寺 祐傳寺』に。その後、天保三(1645)年に同市欠町に在る『八柱神社』に改葬された。

今回はなぜ祐傳寺から八柱神社に改葬したのかーー。
個人的な私感を当時の時代背景・資料から読み解いていこうと思う

この内容に触れたいがために、八柱神社・祐傳寺・若宮八幡宮の位置関係が分かるよう神社参拝・東海道『岡崎二十七曲り』を歩き始めたわけだ。

この記事の骨子を書き始めたのは12月6日。計5回に既に分け歩き切った。
道に迷っている歴史を辿る方を見かけたため、『二十七曲り』の記事も完走したい
@イラストAC

築山殿の処分を命じたのは信長公なのか

現在、一般的になっているという通説と同じで、私個人としては、築山殿と信康公の”明確な処分”を命じたのは家康公だと思う
どこかで見たのだが(メモを残しておらず)、信長公から家康公への書状では「処分は(家康本人の裁量に……だと思われる)任せる」とあったと。
そうすると、結局のところそれが信長公に対する家康公からの忖度であったのか、多くは後世の書物により信長公に責務を背負ってもらおうと思ったのかは分からない。
それでも、実質的に家康公、もしくは近しい家臣の進言が大きかったのではないか。私個人としてはそう思うのだ。

10月に購入した古書『岡崎百話』の中でこの件に触れた地方市史研究会会員の方のコラムがあり、大変に興味深かったため一説のみ引用する。

次に問題なのは、「信康様、築山様御首、信長公方へ御実検の上……」とあるのは、あくまで信長公の命令ということにするために、いかにも信長が首実検をしたようにする必要があったのであろう。もし行われたならば娘婿信康や、その母築山殿の首実検のことなど「信長公記」に書いてなければならないが、何も書いていない。「信長公記」には、しばしば首実検の事など記しているが、何も書いていないことは首実検は行われていないのが真実であろう。
そのころ、信長は九月十一日に安土を出発し、帰ったのは翌月十月九日である。この間信長は、荒木村重を攻めており出陣しているのである。

『岡崎百話』 「私考 信康・築山殿事件」--太田銀蔵 より引用

「~かもしれない」という仮定の話にはなるが、度々ネットなどで目にする「家康公率いる浜松派・信康公が率いる岡崎派等といった様々な要因の軋轢が生じていたのではないか」。これは私も同意だ。
石川伯耆守康昌殿の出奔もまた多くの謎が残る話だと思う。

少なくとも『信長公記』『(誇張表現が多いとされる)三河物語』等。私はまだ目を通していないので、これはまた時間をおいてから記したいと思う。
あくまでも「今現在、私はこう思う」という私感として取っていただければ幸いだ。

築山殿、第一首塚『祐傳寺』

岡崎市両町 @ネコチャーン撮る

現在は岡崎市両町に在る祐傳寺。
しかし、「岡崎市史 近世3」を読んでいると次のような一説を見つけた。

「菅生村遊伝寺由来記」に、水野忠善が正保三年投町南裏にあった祐伝寺を両町南裏に移転させ、その跡地に組屋敷を建てたとあり……(略※ネコチャーン)
祐伝寺を移転させたのは、投町南裏すなわち根石原に以前からあった下級武士の集住地を拡張するためとみられる。

『岡崎市史 近世3』第二章 岡崎城下町の形成 より引用

上記を表した図を下に示す。

出典:『岡崎市史 近世3』図2-14 城下町プラン P191 

岡崎城下町が形成され始めたのは天正一八(1590)年に岡崎城主となった田中吉政公の時代からと考えることが妥当だと思う。
吉政公は街道(東海道)を整備している。
そのような取り組みが後の岡崎藩主にも継承され、岡崎藩藩主・本多康重公の代に両町も城下町となっている。
これは、慶長一二(1607)年に起きた洪水(※冠水か矢作川の氾濫か)で甚大な被害を受けた八町(現在の愛知環状鉄道・中岡崎駅周辺か)の住人が両町付近に移住し、両町という町が形成された。

この町に『祐傳寺』は現在在る。

現在在る、としたのは、前述の城下町プランは年を追うごとに拡充していき、水野忠善公が水野系の初代岡崎藩主となった正保二(1645)年の翌年、当時、投村に在った祐傳寺を両町に移転させている。

祐傳寺跡地には組屋敷(下級武士の住地の拡張を目的としてかーー)を建てている。
この時点で、投村も城下町計画に入っているとみられる。

出典:『岡崎市史 近世3』図2-14 城下町プラン P191 
ネコチャーンによる加工処理有
祐傳寺の基の所在地は上記画像近辺かーー

上記の地図を現在の位置関係で示すと以下のとおりになる。

赤:現在の神社仏閣の位置、青:東海道、緑:旧祐傳寺の位置の推測
※これまでの記事で祐傳寺様の「祐」が「裕」となっておりました。大変失礼いたしました。当該記事は即刻訂正、他の箇所は時間を見つけ訂正いたします

そうすると、祐傳寺の投村から両町への移転に伴って築山殿の首塚を城下町に入れまいとしたのではないかーー。元の場所でもお弔いをする人がおらず、また、城下町の内となる。
それに伴って新しいお弔いの場所が必要だと考えたのではないか。そう邪推してしまう。
なにより、江戸時代初期は築山殿と信康公の御首は近くで眠っていたことも分かる。

ただ、祐傳寺では今でも築山殿の首塚をしっかりと守っている。
藩命・形式上・藩による幕府への忖度など止むに止まれぬ事情があったのではないか、と邪推してしまう。そうでなければ、今なお、祐傳寺に首塚は現存しないだろう。
時代が変わるまで人目に触れぬよう守ってこられたのではないかーーそう私個人は考えてしまう。

なにより死した後にも時代に翻弄された築山殿が不憫でならない。

第二の首塚『八柱神社』

『八柱神社本殿』岡崎市欠町 @ネコチャーン撮る

上記のような城下町計画に伴う首塚の改葬(?)で白羽の矢が立ったのが『現)八柱神社』ではなかろうか。
最寄に城下町計画外にあった村は多く在る。しかし、私たちの先祖、鈴木重辰が建立し、松平新右衛門にも所縁がある家の(当時)氏神であれば話が早い。藩は所縁を持ち出しやすい。先祖も断る理由はないであろう。
少なくとも先祖と信康公と築山殿との間には何かしらの所縁はあったと思われる。

正保三年 投村祐傳寺とある

先日、『岡崎二十七曲り』を歩ききり、最後に岡崎城・大手門前の二十七曲りの碑の写真を撮影した際に気が付いたものがある。

『五海道其外分間絵図並見取絵図』東海道分間延絵図_13巻之内7
出典元及び所蔵・東京国立博物館
https://webarchives.tnm.jp/

上記は国立博物館が所属している『東海道分間延絵図』
上記の岡崎城・岡崎宿が主の絵が岡崎城大手門前・二十七曲りの碑の裏にあった。
作成年間・詳細は下記リンク先(国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所)が詳細に記している。私自身も勉強させていただいた。

上記が原本。下記は私が拡大した画像だ。

『五海道其外分間絵図並見取絵図』東海道分間延絵図_13巻之内7
出典元及び所蔵・東京国立博物館(拡大・印の加工処理有)
https://webarchives.tnm.jp/

見づらいが神社の印(現 八柱神社と思われる)の横に「鈴木墨右衛門屋敷跡」とある。
鈴木墨右衛門は私たちの先祖・鈴木重則の改名後、もしくは重辰が隠居後に名乗ったのかもしれない。

『三河堤』や『諸大名旗本衆三州生邑跡』にも鈴木墨右衛門の名は見つかるが、上記は江戸幕府に収められた五街道の詳細な絵図
余程の功績か軍功がなければ屋敷跡としても名を遺してくれることはないだろう。
『五海道其外分間絵図並見取絵図』は国の重要文化財だ。
重要文化財に名が残る先祖をもち、また、その先祖が作った神社であればどれだけの批判を受けようが先祖の体面を守りたい。それは当然のことではないだろうか。

重辰は松平清康公に仕えた後、主君の明記はない。
それにもかかわらず、このように江戸時代でも記録が遺ることの意味は時間をかけて調べていきたいと思う。

何にせよ(恐らく)藩から築山殿の首塚の(形式的か実質的かは不明)改葬の打診があり、先祖が受諾したと考えると筋がとおる。
仮に重辰が隠居し父の名「墨右衛門」を名乗ったとしても、三河武士の間でなんらかの影響力はあったのではないだろうかと思う。そうでなければ、名もなき武将の名は江戸時代に屋敷跡としても残ることはないだろう。
私は鈴木重辰という武将、築山殿と信康公との関係性が有ったのか否かそれが知りたい。

さておき本題に戻り、当時の藩が城下町に築山殿を入れたくないーーそう思っていないことだけは願ってやまない。

まとめ

元来歴史に明るくない私は分からないことばかりだ。
今回書いた記事も「~ではないだろうか」の初稿に過ぎない。様々な書物を時間をかけて読み、情報を突合せ・矛盾点を探し・執筆し・意見を頂戴し・また調べ……とこれもライフワークになるだろう。

何より、時代に翻弄された信康公も築山殿の御霊が今は安らかであってほしい。加えて、その御霊を供養する土地に住まう私たちは歴史を学ばなければ良ろしくないと私は思うのだ。

社は神仏がいるだけの場所ではないと個人的に思う。
そこに祀られた御祭神。建立者。これまで守ってきた人々。多くの人の思いも供に在る場所だと思う。
誰一人の功績・御霊も軽く見ることなく、御祭神や様々な人の思いも全て大事にしたい。
そうあってほしい。


最終改定:  年 月 日( 回目)当注意事項の追加
※後に読み返した際に変更があれば、改定日を修正いたします

【注意事項】
著作権の観点から、無断引用・転載はお控えください。
引用・転載の際は必ずお声がけください

参考文献
岡崎百話』 岡崎地方史研究会発行
『岡崎市史 近世2』
『岡崎市史 中世3』

参考・出典
東京国立博物館 国立文化財機構所蔵品統合検索システム『ColCase』
東京国立博物館 東京国立博物館研究情報アーカイブズ

Thanks;
いらすとや様
https://www.irasutoya.com/

イラストAC様
https://www.ac-illust.com/

ACフォト様
https://www.photo-ac.com/




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?