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【史跡巡り】小豆坂古戦場周辺(愛知県岡崎市)


はじめに

前回の記事で「大平古城の碑」は「小豆坂古戦場周辺のほど近く」と記述した。

先日にそのつながりから、「小豆坂古戦場」周辺に遺る碑などを巡ってきた。その史跡巡りの記事となる。

先に触れるが、関ヶ原や桶狭間のように公園として整備されていない。遺っているのは碑のみだ。
大きな武力を有した織田勢・今川勢の激突の地だが、どうも家康公とは関連が薄いところにはやる気を見せない岡崎市らしい。

今回の散策

先ずは今回散策してきた場所を以下のとおりにお示しする。

名鉄本線『男川駅』(普通列車のみ)より800mほどの距離かーー
画像出典元:Googleマップ

ここでは記述するまでもないと思うが、小豆坂が戦いの舞台になった理由は安城城にある。
家康公の祖父・清康公が安城松平家の家督を継ぐ(後に岡崎城に移る)。
その後、しばらくして森山崩れ。

広忠が十五歳となった天文九(一五四〇)年より織田信秀の三河進出が激化する。この年二月九日、広忠は尾張の鳴海付近を攻めたが、これは信秀に対する先制攻撃であったらしい。六月に入り信秀は大挙して三河に進出し、安城城を包囲した。清康の岡崎移転後の同城は親忠の子安城左馬助長家の城となっていたが、広忠は弟源次郎信康、藤井家の利長、五井家の忠次、矢田(西尾市)の康忠らを援兵に送っていた。しかし利あらず、六月にいたって安城は陥落して長家・信康・康忠らをはじめ五〇人余が討死した。こののち天文十八年冬まで安城城は織田方の三河侵攻の拠点となった。

『安城陥落と小豆坂合戦』p689-690 第3章 戦国動乱期の岡崎 第3節 戦国大名への道
新編 岡崎市史 近世2 より引用

また、家康公の父君・広忠公が家督を継いで後、家臣の序列変更など三河で内紛が生じ、今川氏からの圧により排斥された家臣らの不満を織田信秀公が汲み取る立場にあったともいう。

それは合戦にもなるだろう。
下の画像は安城城・豊橋方面と小豆坂の位置関係を示す。

赤の印が今なお遺る合戦の碑
画像出典元:Googleマップ
赤:小豆坂周辺
画像出典元:Googleマップ

このような場所だ。
(分かり難いが双方向に緩やかな坂があり、坂の上部に碑が遺っている。但し、近年に造成された可能性有)

また、詳しい話は一次資料を読み、時間はかかっても修正するつもりだ。

小豆坂古戦場周辺を歩く

史跡を巡るにあたって、事前に関連/現存する碑を探した。
4つの碑があったため、ひとつひとつ見ていくこととする。

①小豆坂古戦場の碑

竜東メーンロードと県道48(岡崎刈谷線)号線の交差点「光が丘」の近くに小豆坂古戦場の碑がある。

緑が生い茂りすぎの……
片道3車線の道と住宅街にヒッソリと佇んでいる
大正6年1月15日に建立されたようだ
碑の文字は緑が邪魔して全て読み取れず
説明板
他にも2つあり
場所は明言しないが、「この近くを通ると気分が悪くなる」と複数の方がいう池があるそうな
私は特に異変なし

第一次小豆坂合戦に於いて、優勢であった今川軍に織田勢のうち7名(小豆坂七本槍)が奮闘し盛り返したそうだ。説明板によると、彼らが槍を立てかけ休んだ松の碑のようだ。


②徳川・織田・今川の家紋モニュメント(仮称

「小豆坂古戦場の碑」から見て、竜東メーンロードの反対側に移動する。

織田と徳川の家紋入りモニュメント(3面あり)
説明板
今川(おそらく)と織田の家紋
徳川と今川(おそらく)の家紋

次の場所に移動する。

③史跡 小豆坂

竜東メーンロードを800mほど南下する。ガソリンスタンドより手前で小道に逸れる。

台湾料理店の向かい付近にある
市民の方が私費で建立されたらしい(真偽不明)
平和を願ってのことだろう

現存する最期の碑に行く。

④小豆坂戦没者英霊記念碑

竜東メーンロードを「古戦場の碑」方向に戻り、ショッピングセンター「FEEL」付近まで歩く。

いつも車の中から気になっていたが……
私費での建立だろうか
頭が下がる思いだ

適切な言葉が出てこない。

まとめ

小豆坂の合戦は織田勢と今川勢。松平家は今川勢の補助的な役割をしたに過ぎないのかもしれない。
しかし、これも大事な歴史の一幕だ。
何故、しっかりと整備できないのか理解に苦しむ。
※私の考えは豊田市政寄りのため、岡崎市政にはやや批判的。明記すると、バイアスがかかっている。最近は岡崎市も市民の意見を聞くようになったとは思うが……

加えて、森山崩れの後に三河の家臣団の分裂が生じた原因を客観的に読み取れたのは安城市史だ。これは出版年度の問題かもしれないが。

岡崎市にとって家康公が何より大事なことは理解するし、偉大なことを成し遂げられたことは紛れもない事実だ。
しかし、他の部将や歴史的な出来事を軽視しがちな点にはどうしても賛同しかねる。

様々な思いで戦い、命を落とした先人たちに非常に申し訳なく思った散策だった。
このように記すことがせめてもの弔いだ。


最終改定: 令和 年 月 日( 回目)
※後に読み返した際に変更があれば、改定日を修正いたします

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【参考文献】
新編 岡崎市史 近世2
安城市史1 通史編 原始・古代・中世

【画像出典】
Google マップ




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