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【ネコチャーンの部屋】私感ーー否定/誹謗中傷と批判について


はじめに

※今回の記事は私感です。ご了承ください

前回の記事で「次回(今回)ネコチャーンの部屋で”否定/誹謗中傷と批判”について書きたい」とした。
昨今のSNSで飛び交う双方向の極論の数々の増加と自分自身に降りかかった出来事から、”自分の考え”として『批判/誹謗中傷と否定』に区別を書きたいと思ったからだ。

また、その簡単な対策(可能性)も書いておくことにする。

それぞれの結論と対策

様々な場所で議論されている内容だが、簡単に見分ける方法を書く。

否定

喩えになるがAさんという知人がいるとする。
Aさんが「〇〇を見た!」と言ってきたとしよう。それを一切肯定せず、Aさんの言葉を”違う””いつものほら吹き”などとあしらう行為ではないだろうか。

<対策>
「うん、そうだね。あなたは見たんだね(私は見ていないけれど、Aさんは見たんだね)」。相手の言葉を打ち消す前にそう発すれば否定は避けられるだろう。

肯定の対語。ある事柄やその様態をあらしめまいとする意志。またある判断や命題を偽であるとする理性の行為。この意志と理性の両方の否定について,全面否定と部分否定がある。欠如や限定や矛盾や対立も広義の否定である。(以下略:ネコチャーン)

デジタル大辞泉 『否定』 
「あなたの話は聞きたくないです」という具合に捉えられかねない。
否定から話に入る方は注意が必要だろう。
画像:ACフォト

人格否定

その人を織り成す全てを否定する言葉・表現だ。
人格否定と批判を迷った場合に簡単な見分け方がある。

自分が発したい言葉が相手が努力をしても変えられない事実であるか否かだ。国籍・性別・生まれた/住んでいるエリア・容姿・年齢など。
変えたくても変えられない。
相手の能力を貶す言葉もダメだろう。

しかし、同じことを何度も教えても覚えてくれない相手がいたとする。教える度に教える側は疲弊していくだろう。また、悪意の有無を問わず、否定のみしてくる人もいるだろう。
人間誰しも寛容でいられる限度がある。その限度を超えた時に相手を否定する言葉が出てくることもあるだろう。私にもその経験がある。
その場合、「キツイ言葉”のみ”」を切り取られては耐えた自分が責められることになる。

<対策>
人格否定は特にしない方が良い。
言葉を変えると〇〇ハラスメントになるからだ。法の場では場合に依って罪に問われる。
特にSNSは瞬発的に思ったことを発信しがちだ。一呼吸おいてその言葉を全世界のネットユーザーに見られても問題ないかーー、そう考えてから発信すれば良い。
日常生活では人を褒めることに目を向けると良いだろう。

逆に、自分が理不尽な立場にいて困っている方は困っている内容・相手の言動・その時自分がどう思ったか・その日時を詳細に日記に書いておくといつか自分の身を守れるだろう。
その際は、簡単に書き直しができないボールペン等で書いておくと自分が理不尽な目に遭っていたことを証明できるだろう。

今回、このテーマで文章を書いたのは私が「先祖について調べること」で否定・人格否定をされたからだ。
された人なら分かるだろう。気力や自信を失わせる最低の行為だ。
画像:ACフォト

批判

相手のしていることを「本来はこうではないのか」「そのやり方では失敗する」など、自身の経験・知識・考え方などに従って意見をいうこと。
よく「普通はーー」という人を見かける。
この場合の”普通”はその人やその人の周囲の”普通=常識”であって、相手の”普通”とは異なる場合が多い。言葉を変えると”個人のものさし”というべきか

個々がもつ”個人のものさし”のズレを補正し、より一般化するものが法・条例・規則・基準・標準といったものになるのだろう。

自分の常識は他人の非常識とはよくいったものだ
画像:ACフォト

この批判をよくSNS等で否定/人格否定と混同して使われている場合を多く見かける。
何かを批判したい場合は「その考え方は違う。なぜならーー」と理由などをつければ相手も聞く耳を持ってくれる場合が多いだろう。
しかし、「その考えは違う。だからお前は(以下略」と批判になりかけたモノを人格否定に論点をズラしている場面によく遭遇する。

<対策>
自分が何故他人の言動に意見したいのかを考えてみると良いだろう。
多くの場合、
①より良い方法がある
②客観的にみても相手の言動が問題だから意見したい
③より良い議論がしたい
④現状に何かしらの不満がある
上記の4つに当てはまる場合が多いだろう。

①~③の場合、相手の意見を最後まで聞いた上で「私の考えも聞いてくれ」と建設的な批判・議論をすると余程困った相手でない場合、話を聞いてくれるだろう。但し、言葉を選ぶ必要はあるが。
邪見にされた場合は、話すべき相手ではないということだ。

相手の意見の肯定すべきところは肯定し、否定するところは根拠をもって「その考えではこうなる可能性が捨てきれない」とすれば良いと思う。

④の場合は古の言葉。「チラシの裏に書いておけ」。今では言い過ぎの表現かもしれないが、自分の不満を誰かにぶつけるよりも、その時の自分の気持ちを言語化すると意外と別のところに不満を抱えていることに気付くことがある。この方法を強くお勧めする。

物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」

人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」

デジタル大辞泉 『批判』--3は略す
建設的な批判・議論が活発に行われるとより良い考え・モノが生まれる
ただ、その議論のテーブルにつく人が「否定と批判」を区別する必要がある
画像:ACフォト

番外編

時折、困った人に遭遇することがある。
根拠をもって批判をしただけであるのに「人格否定だ」などと騒動にする人だ。

「否定と批判は似て非なるもの」。その説明だけし、理解を得られないようであればそっと離れることが得策だ。
残念だが、言動を諫めただけであるのに自分という存在そのものを否定されたと受け取る方が多いのもまた事実。
これには何の対策もない。
相手がそのタイプだと分かったら深くかかわらないに越したことはない。

まとめ

何処で学んだ手法か記憶にないが、私は多くの場合で「その人の人格 と その人の言動/意見」を切り離している。

付合い難い人でも良い意見を持っている場合もある。
反対に、良い人なのだが、意見が全くなくその時々で主張を変える人もいる。

否定と批判。とても難しい。
しかし、生活の中にインターネット/電子化が当たり前のように存在している昨今。簡単に自分の意見を世界に向けて発信できる。
これからの時代、否定と批判。その先にある建設的な議論ができなければ多くの問題がこれまで以上に生じやすくなると私は思うのだ。

言葉はある意味で芸術でもあり、自らの意思を伝えるツールでもある。
その使い方を間違えてはいけない。それだけは言える。

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