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連載小説『ネアンデルタールの朝』⑮(第一部第3章-5)

5、
駅前の高速バス乗り場に到着する。バスはすでに到着していたが、発車時刻まではまだ10分ほど時間があった。
居酒屋では結局、二人に絵を見せることはできなかった。3時間以上も話をしていたのに、絵について話を切り出すことができない自分がいた。4年越しに、ようやく二人に見せることができるはずだったのに、何が自分をためらわせているのだろう……?
駿が言った通り、確かに今日の将人は様子が少しいつもと違った。表面的には何も変わっていないようにも見えるが、ふとした言動や顔つきに違和感のようなものを感じた。何かザラザラとした感触がする、民喜の胸の内に微かな不安を呼び起こすような……。
停車中のバスの中にはまだ人の姿は見えない。今日は将人に絵を見せることはできなかった。でも駿にだけでも、絵を見てもらう時間は少し残っている。
「話変わるけども、ずっと前、ネアンデルタール人の話をしたのを覚えてる?」
思い切って話を切り出してみる。駿は民喜の顔を見て、
「もちろん、覚えてる」
と頷いた。
「そっか」
「いつもの場所でだろ?」
「んだ。いつもの、あの浜で。高校1年のとき……」
「もちろん、覚えてる」
民喜はバス停近くのベンチを指して、
「まだちょこっと時間あるから、座らねえか」
駿は首を小刻みに動かして頷いた。

ベンチに腰を下ろした駿は顔をほころばせ、
「楽しかったな。三人で、あの浜で、いろんな話してよ」
電灯の下、駿の顔は思った以上に赤くなっていた。
「ああ」
「ネアンデルタール人の話をしたの……確か、震災のすぐ前だっただろ」
「んだ。震災の2日前だっぺ」
「2日前! そんなに直前だったか。そっかそっか」
駿は感心したように何度も頷き、
「思えば、あの日が最後だったんだな。俺らがあそこに集まることができたのも……」
と呟いた。
バス停の前を足早に行き交う人々を二人で見つめる。脳裏にロウソク岩のあるあの浜の風景が浮かんでくる。
「駿はまだネアンデルタール人について考えてるか?」
そう尋ねると、駿は頭を振って、
「もうしばらく、考えてねえな」
「そっか」
そっと時計を見る。発車時刻まであと7分ほど。そろそろ駿に絵を見せなくてはならない。カバンの中から絵を取り出そうとすると、
「あ、でも1年くらい前に、小説を読んだ」
駿はボソッと呟いた。カバンの中で手を止めて、駿の顔を見つめる。
「ウィリアム・ゴールディングの『後継者たち』っつう小説なんだけど。ネアンデルタール人が主人公の小説なんだ」
「へー、そんな小説があんのか」
「ああ、民喜、『蝿の王』っつう小説は知ってるか」
「いや、知らねえ」
「ゴールディングの作品の中では『蝿の王』が特に有名なんだけど。まあ、いいや」
駿は眼鏡をずり上げ、
「『後継者たち』がどんな小説かっつうと……。平和に暮らすネアンデルタール人たちのもとに、ある日、《新しい人間》、つまり俺らホモ・サピエンスの祖先が侵入してくる。したっけ最後には主人公のネアンデルタール人たちが滅ぼされてしまう、っつう話なんだ」
民喜はいったんカバンから手を離した。
「ネアンデルタール人を滅ぼしたのは、俺らホモ・サピエンスってことか?」
「実際のところは分がんねえけど……ゴールディングはそういう設定にしたっつうことだな。小説の中では、ネアンデルタール人たちは純粋で無垢な、本当に善良な存在として描かれている。それに対して、俺らホモ・サピエンスの祖先たちは、知恵はあるけれども、同時に欲望にまみれた邪悪な存在として描かれている。俺らは皆、この悪しき存在の末裔っつうことだ」
「何だか暗い、救いのねえ話だな」
そう言いながら、チラッと時計を見遣る。発車時刻まであと5分ほど。駿は頷いて、
「ゴールディングは人間の残虐性とか悪とか、そういう問題をずっと追求し続けた作家らしい。それこそが、人間の本質だって考えていたのかもしれねえ。ゴールディングがそういうシビアな人間観をもつようになったのは、第二次世界大戦を経験したことも影響してるらしい。『後継者たち』では、俺らホモ・サピエンスはその始まりの時から、そもそもが残虐で、悪い存在だっつうことで描かれている」
「なるほどな」
「あの時、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは頭のつくりが違う、っつう話をしたの覚えてる?」
今度は駿が尋ねてきた。
「ああ、覚えてる」
「今から何万年も前に俺らホモ・サピエンスの遺伝子に突然変異が起こって、脳のつくりが変化した。その結果、新しい能力が開花したんだけども……。ホモ・サピエンスの残虐性とか邪悪さもそれが関係してるのかもしれねえな」
「残虐性も?」
「んだ。脳のつくりが変化したおかげで俺らホモ・サピエンスはだんだんと知恵がついていった。サピエンス、つまり『賢い』人間になった。でもその代償として、ネアンデルタール人が持っていたような純粋さとか善良さを失っちまったんじゃねえか」
民喜は懸命に駿が言っていることを理解しようとしたが、酔っぱらっているいま自分の頭には難しかった。
再び時計に目を遣る。発車時刻まで、残り3分。
「ちょうどこの小説読んでる頃、俺、ちょっと鬱っぽくなっててさ……。小説読んで余計へこんじまった」
駿はフーッとため息をついた。
「したっけ、ふと思ったんだ。俺らホモ・サピエンスそのものが、はじめから生まれて来ない方がよかったんじゃねえか、って」
抑揚のない声でそう呟くと、駿は目を閉じた。
会話はそこで途絶えた。
駿が最後に呟いた言葉は、民喜の心の深いところに打撃を与えた。何かを言おうとしたが、のど元が締め付けられたようになって、うまく言葉が出てこない。
停車中のバスからアナウンスが聴こえてくる。駿はハッとしたように顔を上げ、
「民喜、そろそろ時間だべ」
民喜の肩をポンと叩いて立ち上がった。

バスに乗り込んだ民喜は前から2列目の席に座った。バスの中にはほとんど乗客はいない。窓ガラス越しに、外に立っている駿に手を振る。
「本日は、いわき行きの高速バスをご利用いただきまして、ありがとうございます。……」
アナウンスと共にバスが走り出す。後ろを向いて、駿に手を振る。彼もこちらに手を振っている。微笑みを浮かべてはいたが、何だかひどく疲れているように見えた。
駿の姿が見えなくなると、民喜は前を向き、そっとため息をついた。
結局、駿にも絵を見せることはできなかった。
座席にもたれかかり、目を瞑る。頭の中がグルグルと回転している。
目の前の真っ暗な世界が右回りに270度ほど回転したところで、0度の地点に戻る。また右回りに回転し始め、270度ほど回転したところで、0度の地点に戻る。微かに吐き気を感じたので、目を開けて窓の外を見た。

夜の駅前の景色を眺めながら、民喜はふと大学1年生の時に受けたキリスト教概論の授業を思い起こしていた。民喜の通う大学はキリスト教主義の大学で、学内には礼拝堂もあった。
その日、授業の中ではキリスト教の原罪の教理について説明がなされていた。詳しいことは覚えていないが、アダムとエバが知恵の実を食べたことにより、その後のすべての人類に罪が受け継がれることになった、という内容であったように思う。原罪の捉え方は教派によって相違はあるらしいが、とにかくキリスト教は、我々人間は生まれながらに「悪い」存在である、ということを言いたいらしかった。だからこそ、イエス・キリストによって罪から救われる必要があるということなのだろう。
原罪についての説明を聞いたとき、民喜は内心、強い反発を感じた。このようなネガティブな世界観を植え付けようとするキリスト教を自分は信じない、と思った。以来、民喜はキリスト教に対して心を閉ざしてしまっている。必修科目であったので止む無く授業は受け続けていたが、聖書の話を真剣に聞く気にはなれなかった。
窓ガラスにキャップをかぶった自分の顔が映っている。表情の失われた、能面のような顔をした自分と目が合う。
しかし結局は、キリスト教が言うように、人間は生まれながらに罪を持った存在なのだろうか……。 生まれながらに、「悪い」存在なのだろうか。結局のところ、それが真実なのだろうか……。
「俺らホモ・サピエンスそのものが、はじめから生まれて来ない方がよかったんじゃねえか」
駿の呟きが胸の内によみがえってくる。体が気怠く、重たくなってくる。
ひざの上のカバンを抱きかかえるようにして、民喜は束の間の眠りに落ちた。


参照:ウィリアム・ゴールディング『後継者たち』(小川和夫訳、中央公論社、1983年)


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