見出し画像

わたしはある ~存在をなかったことにはしない

出エジプト

旧約聖書(ヘブライ語聖書)に『出エジプト記』と呼ばれる書があります(英語では『エクソダス』)。
出エジプト」は、神がモーセという人物を通してイスラエルの民をエジプトから脱出させた一連の出来事を指します。旧約聖書の中で最も重要な出来事とされており、古代イスラエルの人々にとって信仰の「原体験」となっている出来事です。出エジプト物語を映像化した映画『十戒』(1957年)をご覧になった方もいらっしゃることでしょう(割れた海の中をモーセたちが歩いてゆくシーンが有名ですよね♪)。


物語は、エジプトで奴隷にされて苦しむイスラエルの民の叫びを神が聴くところから始まります。過酷な労働を強制され、人としての尊厳をないがしろにされているイスラエルの人々の痛みを神が知る。そうして人々をエジプトから脱出させるため、モーセを指導者として立たせることになります。

画像1

(十戒の板を手に持つモーセ。レンブラント画)

モーセが指導者として神から呼び出されるこの場面のことを、最近よく思い起こしています。「モーセの召命」とも呼ばれる場面です。


モーセの召命

その日、モーセはホレブ山にて、柴の木に炎のようなものが宿っている不思議な光景を目にします。炎が覆っているのに、しかし、いつまでも木は燃え尽きることはありません。不思議そうに柴の木をのぞき込むモーセ。すると突然、燃え盛る枝の間から神が語りかけます。「モーセよ、モーセよ……!」
そうして神とモーセの対話が始まります。

この対話の中で、神が自分の名前を明らかにする場面が出て来ます。その名は《わたしはある》というものでした。

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(出エジプト記3章14節、新共同訳聖書)


わたしはある ~存在をなかったことにはしない

《わたしはある》――。この不思議な名前をどう捉えるかについては、昔から様々な解釈があります。正解も一つではないかもしれません。私としては、この名前には神が私たちの存在を「なかったことにしない」方であることが示されているのだと受け止めています。

「ある」というのは、言い換えれば、「存在している」ということです。確かに「存在している」ことを、力強く宣言しているのが、この「ある」です。

私たちのいまの社会の状況を見渡すと、重大な問題があたかも「なかったこと」にされてしまうことが至るところで生じているように思います。問題がうやむやにされることは、それによって傷ついている人の存在もなかったことにされることを意味しています。その人の存在も、その人がいま感じている痛みもなかったことにされてしまう。自分の痛みが「ない」ものとされることは、私たちが経験する最も辛いことの一つなのではないでしょうか。

そのようないま社会の現状を想う時、はるか大昔にイスラエルの民が聴き取ったこの《わたしはある》という神の名が、改めて心に響いてくる気がします。
神は私たちの存在を、その痛みを、決してなかったことにはしない――そのようにイスラエルの民は信じ、この物語を綴ったのかもしれません。


…………

お読みいただきありがとうございます♪

現在、noteに小説『ネアンデルタールの朝』を掲載しています。2015年の福島と東京を舞台に、原発事故後の世界を生きる若者の姿を描くことを試みた作品です。

小説では直接的には聖書のモチーフは出てきませんが、上記に記した出エジプト記のメッセージ――「存在をなかったことにはしない」――を主題の一つとしています。(ある場面ではこっそりと? モーセの召命を想起させる描写もしています)。

ご関心のある方は小説の方もぜひ読んでみてください。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?