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「言葉信仰」

ああ、いまnote書いている場合じゃない。明日までに仕上げなければならない報告書がある。子どもが部活から帰宅したのにまだご飯作ってない。洗濯物たまってる。時間があったらはげかけた爪をきれいにしたいんだった。
だのにnote書いてる。

いま、こういうときなのだった。とりあえず報告書はないし子どももいないし洗濯物たまってないけど。あ、いま爪には何も塗っていないから本当はきれいにしたい。だのにnote書いてる。

最近、仕事の関係で、面識のない相手にメールを送る機会が増えているのだけど、そのメール作成に関して、わたしはかなり気疲れするのだと自覚した。
気疲れの度合いなんてひとと比較しようのないもののひとつではあるけれど、みんなこんなにあれこれと気をまわしながらメールの文面を考えているのだろうか…。めちゃくちゃ精神的エネルギー消費するんだけど。そして、返信が来るたびに開くまでどきどきする。なんか不備あった? 怒らせるようなこと書いた? 社会人として言葉遣いダメだった? 誤解を招く書き方しちゃった? 等々。で、開いて、たいてい、安堵。ふーーー。怒らせてない。

怒らせてない、か……そこで安心するんだな、わたし。
文章を書くことは(おそらくこれを読んでくださっているみなさまご承知の通り)好きだ。大好きだ。そこに愛はあるか? ある! なんならあふれてる。とうに表面張力超えてあふれ出してる。文章って愛情表現じゃん。その愛情が誰に向いているかはさておき。誰なのかな。特定の相手を想定して思いを込める場合もあるけれど(手紙的なnoteもいくつかある)、まあ、自分への愛情かも。って、すごいナルシスト。わたしこんな人間だった?

仕事のメールに愛情がないかというと、そういうわけではないのだけど、愛情より友情…って逆やんこれでも広瀬香美聴いたことあるよ、ってそうじゃなくて、愛情より、なんていうの? 礼儀? 礼節? 内容を誤解なく伝わえること? まあビジネスっちゃーそんなもんで、わたしの好きなごてごて重たい形容詞とか、まわりくど(くてわかりにく)い比喩とかが二の次三の次になるのは重々承知している。一応、社会人してるんだこれでも。

で、(で?)わたしがこんなに「怒られないかしら…(ビクビク)」と手先を震わせながら(比喩じゃない)日々メールのやり取りをしているなんて、この反応ぶりを普通に分析したら、これまでに仕事上のメールで相当に相手を怒らせたことがトラウマになっている、てなことが考えられるのだけども、実はあんまり思い当たる節はない。「こういう文言を遣うのは避けましょうね」とやんわり注意されたことはあるものの、「ウオズミ!!! 書き方!!!」レベルのテンションで指摘されたことはない。むこうがよっぽどの大人で、こんなメールじゃ箸にも棒にも掛からねーと思ってあきらめていたなら別だけど。

じゃあ、なんだ?
すべてを「幼少期の環境」のせいにするわけではないししたくはないけれど、現在のわたしの反応パターンを形成するに多少は「幼少期の環境」が影響しているだろう。
ぽつりとこぼした一言が二倍にも三倍にも四倍にも五倍にも六b(略)なって返ってくる相手と生活していたら、おそらく人間は大きく二つのパターンに分かれるのではないか。

①「何を言ってもどうせまた何か言われるのだ、もう何も言うまい」と攻撃を避ける
②「言おうが言うまいがいつものことだ、これはたいしたことではない、何を言っても平気だ」と攻撃に慣れる

わたしは見事にパターン①が強化されたのだと思う。わたしが、文章を書くのは好きだけれど「思いついたことをぱっと即興的に書くのは苦手」と自覚しているのはここに由来しているような気がする。(蛇足だが、「気がする」「感じる」と断定を避ける書き方をするのも、相手からの攻撃を避けるため何らかの余地を残した書き方だな、と思う)
完全なフィクションはともかく、少なからず自分の思いや意見を文章にするとき、誤解の生まれないよう丹念に言葉を選んで、信じて、書いている。それは誰かとの会話でもそうである場合があって、何かについて私見を交えて語るとき、「つい口をすべらせて(思ってもみないことを)」という過ちを犯さないように必死だったり、する。相手も同じような熱量で言葉を信じているわけではないかもしれないのに。わたしは「言葉信仰」(ていう言葉いま作った、あれ? 即興してるやん)が深い。「言葉信仰」というのは「思考や考え、感情と言葉をできるだけ一致させるよう、慎重に言葉選びをすること」である。そのとき・時点での一致具合をみるものであって、「あのとき○○って言ったのに、いま違うこと言ったじゃん!」であっても、それぞれの時点で感情と言葉が一致していれば問題ない。

わたしはきっと、言葉を深く信じていれば、誤解という失敗やそれに付随する攻撃を避けられる、と考えたのだろう。生活環境はわたしのその志向を(良くも悪くも)強化していった。
ちなみに、ほぼ同じ環境で育ったわたしのきょうだいはパターン②の人間だ。傍から見れば、ただの怖いもの知らず。よく言うね、言えるね、やれるね、なんかある意味すごいね。そんなひと。


ふーーー。きょうのは息抜きみたいなnote。実は仕事でメールの返事が来なくて(遅くて)、ずっとどきどきしてる最中。どうでもいいけど、「最中」って漢字で書くとぜったい、いったん脳内で「もなか」って読んじゃうよね。んで、なぜか読み方ミックスして、中学の国語の時間に「もちゅう」って音読したフジムラくんのことを思い出す。しょうもないことってよく覚えてるものだ。平和。ありがとう平和。


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