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実家にて、

実家に帰ってきて早1ヶ月。

夏休みも半分ほど終わってしまった。

とは言っても、休学を決めたので、来年の3月まではほぼほぼニートですけど。

最近は誕生日にイラレの本を母に買ってもらい、勉強してみている。

未だかつて、何かについて学ぶことがこんなに楽しいとは思ったことがなかった。

自分が作り出したいもののために学ぶ、集中する。

こんなに楽しいことはないんじゃないかって思う。

先日、すっかり過去のものとなったガラクタたちで埋め尽くされた自分の部屋の整理をしていると、引き出しの中から一枚のポストカードが出てきた。

「本気でやれば、疲れても爽やかだ」

というような詩。

中学校の時行った東京国際フォーラムのあいだみつを展で購入したものだった。

ずっと長い間、何か一つのことにずっと打ち込むことができず悩んでいた。

でも最近、やってみたいことが増えたし、一つのことを突き詰めて探究することが楽しく感じるようになってきた。

何かに本気で取り組むこと、時間をかけてじっくり腹落ちするまで考えることって清々しくて気持ちいい。

だとしたら、なぜ急に本気で取り組むことができるようになったのだろうか。

前置きが長くなってしまったが、少し考察してみようと思う。

(ちなみに現在進行形で仕事が終わりそうにないんだけど、リフレッシュも兼ねてnoteを書くことにしたっていうのは内緒です)

1. 「本気になる」は目的ではない

 よく、「何か打ち込めることが欲しい」「得意なものがない」といった声を聞くように思う。

私も、何かに集中して、極めて、熱を注げることは幸せなことであることには違いないんじゃないかと思って、なんでもやってみた。

ギター、歌、絵、YouTube、ブイログ、写真、カフェ巡り、お茶について調べる。

でも、このうち、何をしていても空を掴むような感覚で、楽しいけどふとした時に「あ、自分空っぽかも」って虚無感に襲われる日もあった。

今になって思うことは、自分に何もないように感じるのは「どういう方法で」本気になれることを探そうかと考えているから、なんだと思う。

タイトルでも述べた通り、「本気になる」は手段であって目的ではない。

つまり、何かを突き詰めていくうちに、知っていくうちに「勝手」に本気になっている状態を目指すべきなんだと思う。

私にとって「本気」を引き出してくれたのは「ものづくり」。

今までたくさんしてきた、歌とかギターとか絵だって、自分のからだとあたまを使って作り出す、「ものづくり」の一環だった。


2.勇気を持って環境を変える

 誰だって、自分が過ごしやすい空間があるはず。

 自分と空間の混ざりにくさだったり、逆に混ざりやすさといった感覚的な変化はなんとなく感じ取れる。

人間は驚くほどの適応力を持っていて、人によってはその違和感でさえ乗り越えてしまう。

でも、その些細な違和感が気がつけば増大してしまって、自分では取り返しのつかない状況になってしまうこともあると思う。

そんな時は、思い切って環境を自分の手で変えてみることが、その勇気が大切だと思う。

私はずっと、中学校、高校、大学と平和に過ごしてきたが、現在は休学をして、学生と社会人のハイブリット生活をしている。

正直、急に社会に放り出されたような気がして、不安もある。でも、それと同時にワクワクしていて、自分の手でなんでも作れるし、どこにいて何をしていてもいい。

休学を決めたのは休学申請の締切日5日前くらいだったと思う。休学理由紙の内容もそこそこに、休学中の滞在場所だって全然頭になかった。もちろん、お金の面もなんとなくしか考えていなかった。

休学申請をして1ヶ月、今の時点でしっかり決まっている予定といったら1週間後までの仕事だけだ。

この1ヶ月で住む場所、働く場所を見つけた。

でも、休学を決める前までは不安でしかなくて、文字通り行きた心地がしなかった。特に地元の友人たちは就職を考える人、もう働いている人、働いている上に家族に仕送りをしている人、ハローワークに通う人と生活を自分で切り開いている人がたくさんいた。

一方で大学の友達たちは半数が留学、半数は同じくインターンや就職活動に時間を使っている人が多い。

幼い頃から人間観察が好きで、人をたくさん見て、知ることに集中しすぎて自分のことが二の次になる性格の私は焦りまくっていた。

「え、ちょっと待てよ、もうみんな就活してる…?」

家に帰れば父からインターンに応募したのかという確認の電話がきて、メールボックスも気がつけば「インターン生募集中!」の文字で溢れていた。

見えない何かに押しつぶされそうになっていた。

しかし、同時に希望を見出した時期でもあった。

友人からの似顔絵作成の依頼、縁があって出会ったデザイン会社に務める先輩、フリーランスのライター兼動画編集者の先輩。

デザイン関連の出会いが多くあって、デザイン関連のInstagramも開設した。

そこで私は、デザインについて学ぶために休学しようと考えた。

そして現在に至る。

つまり、縁の流れは確かにあって、一つのことを突き詰めて、研究していると周囲の人々にも次第とこちらの意図をわかってくれるようになるということである。

類は友を呼ぶ、じゃないけど、自分の好きなものとかやっていることを人に開示していくと自然とその類が類を呼んでくれて、自分だけの住み良い空間を作ることができるのだと思う。

もしかしたら勇気がいる行動かもしれないし、先が不安かもしれないし、失うものも得るものもあると思う。

でも多分、そうやって、「生きる」を知ることができるんじゃないかな。


3. 自分を知ることは面白い

 日々、曖昧な言葉がたくさん飛び交っていると思う。

「楽しい」「悲しい」「やばい」「好き」

でも、何がどう楽しくて、何が悲しくてというのは人それぞれで、そこに人間の面白さがあるんじゃないかって。

人がどんなふうに物事を受け取って、どう感じているか耳を傾けることも面白いし、大切だけど、意外と自分の「好き」や「楽しい」「悲しい」そういった漠然とした感情に対しては無頓着になってしまうことがある。

自分の内側の声を、感情を自分以上に敏感に察知してくれる人はいないし、自分が生きていく上で最も長い間共存するのが自分の感情たちだと思う。

なんでそれが好きなんだろう?なんで今私は悲しいんだろう?と、自分の感情を観察してみるのもいい。

私は人との会話の中で自分がやりたいことだったり、感じていることを客観的に考えることができるような気がする。

だから、誰かと話すのが難しい時は思っていることや感情をノートに書き出して気持ちをビジュアルに起こしてみている。

そうすることで自分自身のことを外から観察することができて、冷静に解決策を模索することができるように感じる。

4.最後に

最近印象に残っている言葉は「猫のように生きる」「だいじょうぶ、あとでわかる」というこの二つ。

この二つは大学のある教授が講義中に教えてくれた。

猫は恐怖心と好奇心の狭間に生きていて、初めてのものを目の前にした時の反応がとても興味深いとその教授は言っていた。

怖いけど、同時にワクワクして今にも飛びかかってしまいたい。

飛びかかって仕舞えば、その後どうなるかは流れに任せる。

あとでわかる。

とても今の自分にとって心にしっくりくる言葉だったので、ここに残しておこうと思う。

この記事は頭の中がごちゃごちゃしていたから整理するために描き始めたけど、気がついたら四日間にまたがって書き続けていたみたい笑

あっという間に、明日は実家を立つ日になってしまって、明日からは母と大阪にセカオワのライブを見に行ってきます。

ひとつひとつ、考えながら、行動しながら、明日も全力で生きようと思います。

今日はなんだか眠たいし、もう動ける気がしないので、ウルフルズ聞いてどうにかこうにか12時くらいまではお仕事しようかな。

明日ちゃんと起きれますように。

それでは、おやすみなさい。



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