創作童話『頭の悪かった蛇の話』(第三話)
第三話
それから、ゆっくりと季節が過ぎていきました。
蛇は変わらず、あの山の麓にある家にいます。
庭の茂みに自分の住処を作り、こっそり寝起きしているのです。茂みにいるのに飽きた時などは、縁の下を散歩したりもしていました。
そうです。
蛇は、山には帰りませんでした。
いえ、帰れなくなってしまったのです。
理由は大きく二つあります。
一つ目の理由は、女の子が塗ってくれた薬でした。
女の子が蛇の体に塗ったのは、女の子自身が調合した薬でした。
一部の畑を自分用にもらい、そこで薬草を育てているらしいのです。
――最近蛇が周囲を観察して分かったことなのですが、この山の麓の家は、どうやら身寄りのない子どもたちを引き受けている家らしいのでした。
この家の家主は、人のよさそうなおじいさんで、寂しそうな顔をした子どもをどこからか引き受けてくるのです。
ただ、たくさんの人間を養うにはそれだけの食料が必要になります。
そんなわけで、この家の庭には広い畑が広がっており、様々な野菜や果物が育てられているのでした。自分たちが食べる分よりも多く作って、都に売りに行くといったようなこともしているようでした(この山から都へはずいぶん遠い道のりでしたが、生活のためなら仕方ありません)。
女の子が育てているという薬草も、時々都に売りに出しているといいます。
「……だけどね、みんな、わたしが薬草を育てているのを見ると嫌がるのよ。おもしろいよね」
女の子は、くすくす笑いながら手作りの塗り薬を蛇の体に塗ってくれます。
……その塗り薬は、匂いの強い薬草同士を組み合わせて作ったものでした。
人の鼻にもつくような香りです。
この薬を塗ってもらったまま山に戻ろうものなら、どの生き物も蛇の居場所を知ることができます。天敵に狙われる機会が増えてしまうかもしれないのです。
ただ、きつい香りといえども三日もじっとしていれば匂いは落ちます。
匂いが落ちたところで、山に戻ろうと思えば戻れたのですが……女の子はなぜか毎日その塗り薬を蛇に塗りに来るのでした。
そもそも、蛇は塗り薬を塗ってもらう必要などなかったのです。……あの時ぐったりしていたのは、切り傷などができたわけではなく、子どもたちにべたべたと触られて弱っていただけなのですから。
それでも、かまわず女の子はやって来ます。
毎日、やって来ます。
「蛇さん、蛇さん」
蛇が身を潜めている庭の茂みに、女の子は無邪気な笑顔で今日もやってきます。その手には、塗り薬の入った小さな瓶と……死んだネズミの死骸が握られていました。
「食事と薬の時間よ」
楽しそうに目を細めながら、女の子は蛇を見つめます。
大きな餌を毎回持ってきてくれるので、蛇は次第に体が大きくなっていきました。もう、山の時のようなやせっぽちなチビの蛇ではありません。
しかし……蛇の皮膚には、着実に塗り薬の匂いが刻み込まれはじめていました。
それでも蛇は、女の子を拒むことなどできません。
どうしてか?
それは、二つ目の理由に隠されています。
二つ目の理由は、蛇自身の心の問題です。
「蛇さん」
女の子にそう呼ばれるたびに、蛇はとても体が熱くなるのです。
その声を聞いた瞬間、蛇は女の子の顔がどうしても見たくなって、居ても立ってもいられず茂みから飛び出してしまうのでした。
その為、最初から不必要であるはずの塗り薬を受け入れてしまうのです。
だから、蛇の皮膚には、塗り薬の匂いがどんどん染みこんでいきます。
夜眠るとき、自分の匂いで目が覚めるくらい、薬は独特な香りがしましたが、……蛇はそんなことはもう気にしてはいませんでした。
女の子が、今日も自分の元に来てくれる。
自分の為に、塗り薬や死んだネズミを持ってきてくれる。
その事実だけで、蛇は満足してしまうのです。
もう山には帰らず、ずっとここでコソコソ生きていきたい……と、そこまで思えてしまうのです。
そう。
蛇は間違いなく、女の子に恋をしていたのです。
女の子も女の子で、蛇に大きな興味を抱いているようでした。
他の子どもたちとも遊ばず、毎日蛇の所まで遊びに来ていたのですから。
……いえ、ひょっとしたら、女の子の事情はもう少し違ったのかもしれませんが。
女の子の存在感は、あの大きな家の中でも独特のものでした。
他の子どもたちは様々な色の布をツギハギした着物を着ていたのに、女の子だけはどんよりとした土色の着物を着ていました。
また、他の子どもたちのように大きな家での家事の手伝いなんかを、女の子は真面目にやっていないようでした。もっとも、そのおかげで女の子はしょっちゅう蛇の元へ遊びに来れていたわけですが。
蛇は、時々、こういう女の子の一面にうっすら気づいては、「おや」と思うことがありましたが……女の子の声を聞いた次の瞬間には全てがどうでもよくなってしまいました。
今を一緒に生きられれば、……女の子の笑顔を今見られれば。
蛇にとってはそれが全てだったのです。
***
その日も、女の子はいつものように庭の茂みにやってきました。
「蛇さん、蛇さん……」
しかし、……なぜだか、声に覇気がありません。
蛇は、急いで茂みから出て、女の子を見上げました。
そして、女の子の顔を見て、小さく口を開きました。
白い肌の上で、薄桃色の唇が、わなわなと震えていたのです。
長いまつ毛に縁どられた焦げ茶色の瞳には、薄く、水滴が溜まっているように見えました。
頬が、赤く染まっています。
女の子は、ゆっくりその場にしゃがみ込み、……蛇の方へ、ぐいと顔を寄せます。
ふう、とあたたかい息が、蛇の体を撫でます。
「蛇さん、蛇さん」
女の子の声が、蛇の近くで響きます。
たまらなくなって、蛇は女の子に寄り添うように近づいていきました。
頬のあたりが、ぼんやりと熱くなっています。
蛇は、ただただ女の子の顔を見つめていました。
女の子の可愛らしい唇が、蛇の為に、弧を描いて動いていきます。
「人、殺せる?」
女の子からは、いつも通りの、柔らかい香りがしました。
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