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創作童話『頭の悪かった蛇の話』(第四話)

第四話

 その夜は、分厚い真っ黒な雲が、蜂蜜色のお月様を隠していました。

 山の方は、葉っぱがガサガサと揺れたり、動物たちの鳴き声がしたりと少し忙しなかったのですが……山の麓の家の中は、静寂に包まれていました。
 子どもたちの寝起きしている大部屋の障子へ耳をすませると、……すうすう、とゆったりとした寝息が聞こえてきました。
 家の中の子どもたちは、どうやら、もう夢の中にいるようです。

 大部屋の障子を薄く開き、一人の男性が子どもたちの様子をざっと見まわしました。

「昼間、たくさん遊んだのかな」

 ……おじいさんが穏やかに笑っています。白く長い髭が、ふわりと動きました。
 このおじいさんは、山の麓の家を管理している家主でした。普段から、この家の衣食住を管理し、子どもたちのお世話をしている、優しそうな風貌をしたおじいさんです。

 おじいさんは小さくその場で頷き、障子を閉め、廊下を奥へ奥へと歩いていきました。……後ろを振り返りもせずに、まっすぐと。

 おじいさんの体の重みに合わせて、床がギシリギシとひかえめに音をたてます。

 全員寝てしまったのだと、そう信じ込んでいたのでしょう。

 さて、……本当にそうだったのでしょうか?


***


 じり、と炎が揺らぐ音が響きます。

 ここは、先ほどの廊下の奥にある部屋です。
 ……おじいさんの自室でした。

 蝋燭一本だけを灯し、このおじいさんは、帳簿に何かを書いています。
 墨の匂いが、部屋を満たしていました。
 蝋燭のひかりが、ちらりちら、と揺れています。小さな灯りは、書き物をするおじいさんの体の影だけを浮かび上がらせています。

 ……いえ、少し待ってください。

 今、……おじいさんの影の他に、もう一つ、何やら細長い影が部屋の中に一瞬浮かびました。

 そして、その影は……おじいさんの方へと近づいているのです。

 ふと、おじいさんは顔を上げます。

「……なんだ、この匂いは?」

 この部屋には、かすかに、奇妙な香りが漂っていました。
 癖のある、独特な……緑色の香りです。

 おじいさんは、首を傾げながら周囲を見回しました。畳の上に片膝をたてます。
 暗い部屋の中、灯りは蝋燭一本だけです。灯りが届く範囲が限られている上に、ゆらゆら揺れるので、あまり視界は優れません。

 そんな中……おじいさんは細い光の中で、「それ」を見つけました。

 細長い体。
 ずりずり、とこちらへ這ってくる動作。
 動くたびに香る、強烈な匂い。
 口の隙間から見える、赤い舌。
 蝋燭の光に当てられて、きらきら光る小さな瞳。

 「それ」を見た瞬間、おじいさんの口ががたがたと震え出しました。
 黄ばんだ歯が、だんだんと剥き出しになっていきます。
 唇が少しめくれて、柘榴の実のような赤が広がりました。


 次の瞬間、けたたましい叫び声が部屋に響きます。


 喉まで見える勢いで、おじいさんは真っ赤に口を開いて叫びました。

 びゅう、びゅう、びゅう。

 おじいさんの両腕が、ぶんぶんと動き回る音が響きます。蛇を追い払おうとしているのでしょう。しかし、それと同時に足はみっともなく後退していくので、その腕が蛇に届くことはありません。
 おじいさんの腕が鞭のようにみっともなく動き、……蝋燭の灯った燭台を倒してしまいました。

 その瞬間、畳の上に炎が移っていきます。
 ちろちろと細かった火が、煙を上げながら次第に大きくなっていきます。

 熱を全身に感じます。
 地面にいる「それ」……いえ、蛇は、思わず苦しそうに顔をしかめました。
 畳の上にいるだけに、炎の熱気が体を包み込んでいるのです。もはや、熱さというより痛みが上回っていました。
 すこしだけ、ひるみそうになります。
 しかし、何とか思いとどまり、蛇はまっすぐおじいさんの足元へと向かっていきました。

 おじいさんは奇声を上げながら蛇を嫌がります。

 立ち上がったおじいさんは、足で蹴飛ばそうと、震える足を振り回しはじめました。
 畳の上の炎を消したいとは思ってはいるようなのですが、足元に寄ってくる蛇を避けるので手一杯の様子です。

 蛇は、頭をガンガン鳴らすこの叫び声にも、迫りくる火の熱さにも必死に耐えました。
 そして、重い体をおもいきり飛び上がらせて、無理やりおじいさんの足にしがみつきました。着物の裾から無理やり潜り込んで、おじいさんの太い足に長い体を巻きつけます。

 おじいさんは、狂ったように濁った叫び声をあげつづけます。
 その声は蛇の頭をしめつけます。
 それに、人間の肌は蛇のそれよりあたたかいので、畳の上の熱気とも合わさって、蛇の体を弱めていきます。
 おじいさんのごわごわとした足の感触も、不快感のあるものでした。

 ずず、……と蛇の体が下へとずり落ちそうになりました。

 蛇は、勢いよくおじいさんの足に歯をつきたて、落ちないように固定しました。
 柘榴のような赤と、どろっとした鉄の匂いが、蛇の視界を真っ赤にします。

 半分発狂するかのような甲高い声が、天井を縦横無尽にかけていきます。

 蛇の視界が、がくがくと震えます。
 おじいさんが懸命に片足を振り回しているのです。

 いっそ、口を離してしまえば楽だったのですが……蛇はどうしてもそれをすることができませんでした。

 だって、これをしなければ、約束を果たせないではありませんか。

 そうです。

 ……全ては、あの女の子との約束を守るためなのです。

「は、離せ……! この……気色の悪い蛇め……!」

 おじいさんは口汚く蛇を罵りながら、震えながらなおも足を振りつづけます。
 その分、蛇の尖った歯がおじいさんの肉に染み込んでいきます。蛇は、食い込んでいく歯に頼って、体を巻きつけていきます。

 何度めか分からない大声が、その場に響きます。

 ……おじいさんがこんなにも叫んでいるというのに、誰もその声に反応する者がいません。
 子どもたちは、もうすでに眠ってしまったからでしょうか?
 いくら奥の部屋で行われていることとはいえ、こんなにも叫んでいる人間に、気づけずにいられるのでしょうか?

 おじいさんの叫び声が、むなしくその場に響きつづけます。

 ずざらっ。

 ふいに、おじいさんの足がもつれました。
 心を乱しているおじいさんは、膝から崩れ落ち……まっすぐ頭から地面に落ちていきます。
 すう、と小さく息を吸う声が、風に紛れて消えていきました。
 そして、落下していく先には……。

 ごごん!

 ……文机の角がありました。
 机の角が、真っ赤な色に染まります。
 おじいさんは、その場に仰向けになって倒れたっきり、……動かなくなりました。

 いえ、何回か、おじいさんの足が大きく震えました。

 びく、びくびく、びくん。

 最後の痙攣に突き飛ばされ、蛇は、かぱりと食い込んでいた歯を足から引き抜きました。
 着物の裾から、蛇はゆっくりと出ていきます。……目を見開いたまま固まった、おじいさんの姿をその小さく黒い瞳に焼きつけながら。

 顎まで、だらんと柘榴の赤が滴ります。
 鼻先まで鉄の匂いにそまりきった蛇は、静かに息を吐きました。
 おじいさんの目に、白い膜がさっと入っていくのが見えます。
 蛇の体は、ぶるぶる、震えて……仕方ありませんでした。

 体は、部屋の熱気や、近くで寝転んでいるおじいさんのせいで、熱くて熱くて仕方がないのに……蛇自身の心の芯は、氷よりも冷えきっていました。

 がたがた、震えながら……蛇は疲れたように頭をめぐらせました。

 こんな時にこそ目に焼きつけたい、想い人の姿が、蛇の心の中には浮き上がっていました。

 ふいに、背後で鈴がころころ転がったかのような、可愛らしい笑い声が響き渡りました。


「あはは……! 蛇さん、すごい!」


 それは、……今、蛇が最も聞きたかった声でした。
 蛇は、くるりと勢いよく後ろを振り返りました。

 部屋の障子の所に、その声の主……蛇が恋している女の子の焦げ茶色の瞳が浮いていました。
 障子を薄く開いた女の子は、部屋には入らず、入り口から一歩距離を置いて、こちらを覗いていたようです。


 ……次の瞬間、さっ、と障子が勢いよく開かれました。


 女の子は、いつになく澄んだ明るい笑顔をしています。部屋の炎の色彩にあてられて、昼間と同じくらい女の子の顔をはっきり見ることができました。

 蛇の心臓が、どくん、と上へ上へと動きます。

 なぜならば、……女の子は、蛇が見たどの瞬間よりも、美しい姿をしていたからです。
 身につけている着物も、普段の地味なものとは違い、紺地の生地に椿の花が刺繍されている凝ったものでした。女の子の色白い肌が、さらに白く引き立っています。
 ふふ、と女の子の長いまつ毛が柔らかく上下しました。
 ぎし、と床がきしむ音が響きます。


「正直、本当に殺せるとまでは思ってなかったわ」


 ……女の子は歌うように言いながら、おじいさんの部屋へ入ってきました。女の子は、何やら包みを背負っています。

 ここで、蛇は、はっ、と身を震わして我に返りました。
 火の熱気と鉄の匂いが、その瞬間に広がります。

 この部屋の火はだんだんと大きくなっています。
 女の子を危ない場所に連れ込んではいけないと、蛇は素早く体をくねらせながら女の子の前に近づいてきました。

「うん。おいで」

 女の子は、小さい子どもに言い聞かせるような丸い話し方をしました。
 そして、自分から近づいてきた蛇を、ひょい、と持ち上げます。
 熱い手のひらが、蛇の体を包みました。
 女の子が、蛇の顔を着物でぐいと拭います。……鉄の匂いが少しおさまり、蛇はほっと息を出しました。

「今なら二人で逃げ出せる。一緒に外に出ましょうね?」

 女の子の声に、蛇の目が炎の光にあてられて、ぱっ、ぱっ、と光りました。
 ……心が震えます。

 女の子は、蛇を助け出しに来てくれたのです。

 蛇は、女の子の腕の中で小さくうずくまりました。
 嬉しくて、仕方がありません。

「さあ、さっさとこの家から出ましょ。蛇さん」

 女の子の声音は、蛇には甘く聞こえます。
 その声は、どんな子守唄よりも優しくて……蛇の体の力はゆるゆると抜けていきました。


「あ、この部屋だけじゃなくて、他の部屋にも火を移していきましょうよ。この家の子たちは連れて行くつもりなんてさらさらないんだし」


 女の子が、まだ何か言葉を続けていましたが……もう蛇はまともに聞いてはいませんでした。
 女の子の腕の中にいられる。
 蛇にとっては、それで十分だったのです。

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