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極私的レオナルド・ダ・ヴィンチ考その4

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高校一年生の時に、ルーブル美術館からはるばる海を渡って来日して、展示されたのに、その時には、ほとんど関心がなくて出掛けませんでした。

その頃に、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯をドラマ仕立てで描いたテレビ番組『レオナルド・ダ・ヴィンチ ミステリアスな生涯』を食い入るように観ていたのにも関わらず、その絵がレオナルドの手によるものであることさえ知らなかったという、不思議な無知振りでした。

信じられないことに、この頃は、彼の作品群には全然関心が無くて、彼の生き様がどうであったかしか興味がなかったのです。

美術には関心が無くて、音楽が好きだったので、ドラマで流れる音楽だけは、心の奥底にずっと鳴り響いております。

長じて、彼の作品群に興味を抱いたのは二十一世紀になってからで、

その頃には、
「受胎告知」
「レスター手稿」
「ほつれ髪の姫君」
などの展示会に出かけるようになり、

さらに、
ルーブル美術館で展示されている
「モナ・リザ」を、
超高画質で高精細なデジタルカメラで撮影された、
本物よりも“本物らしい”画像に加工した作品群を、日本のイベント会場で観ることができました。

それは、警備が厳重なルーブル美術館ではオモテ面しか鑑賞できないところを、額装を外して、ウラ側からも撮影された、ある意味、本物を超えたアングルから鑑賞できるというものでした。

「モナ・リザ」は、トスカーナ地方のフィレンツェ近郊のヴィンチ村(地元の地名を名乗れた公証人の家系であるヴィンチ家の家長セルピエロの愛人だったカテリーナの私生児)出身のレオナルド(だから、レオナルド・ダ・ヴィンチと呼ばれているのですが)が、その後はミラノやフィレンツェやヴェネツィアやナポリなど、まだイタリアとしての統一がされていない時代の諸国を流転した末に、彼の晩年に、その連合国に攻め込んで来たフランス王国のフランソワ一世がヴァチカンで催された講和会議に自ら乗り込んで来て、ヴァチカンを征服する代わりの条件として、レオナルド・ダ・ヴィンチを、招聘という名目で人質としてアンボワーズ城に幽閉しながら、一番の目的は、当時から有名だった「モナ・リザ」をフランスのものにするという、過去のフランスの王族が代々チャレンジしてなかなか成功しなかった“宿願”があり、やっと達成できたのですが、その後数々の凄まじい経緯を経て、やっと静かにルーブル美術館に収納されていました。

ところが、それを面白くないと思っていたイタリア国民の感情も利用して、1911年に、この絵がルーブル美術館から盗まれるという事件が起こりました。

この事件自体は解決に向かい、幸いなことに、その後絵画は"無事"に発見され、犯人として逮捕されたのは、イタリア人のペンキ職人だったそうで(絵の裏には1箇所だけペンキの跡が残されているそうです)、彼は「モナ・リザをフランスからイタリアに取り戻すためにやった」と、犯行動機をうそぶいたそうですが、実態は、営利目的の「誘拐」だったという説が有力です。

彼はイタリアで裁判にかけられましたが、愛国者であると賞賛され、投獄されたのは6か月に過ぎなかったそうです。

つまり、フランスに人質として連れ去られたモナ・リザを、再び、イタリアに連れ帰ろうとしたという主張が響いて、そのようになったのだそうです。

そして、再びルーブル美術館に返還されたその絵の裏側にはちょっとだけペンキの跡が残されており、その様子も、この時の撮影によって確認することができました。

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なかなか面白い展示会でしたね♥

ビンセンツォ・ペルージャ(イタリア語: Vincenzo Peruggia, 1881年10月8日 - 1925年10月8日)は、イタリアのドゥメンツァ出身の泥棒。

モナ・リザを盗んだ人物として知られ、20世紀最大の美術品窃盗と呼ばれる事件を起こした。

「来歴」より

レオナルド・ダ・ヴィンチがフィレンツェで『モナ・リザ』の制作を開始したのは1503年か1504年である。

レオナルドと同時代人のジョルジョ・ヴァザーリは「制作に4年を費やしたが、結局未完に終わった」と記している。

晩年のレオナルドは「ただの1作も完成させることができなかった」ともいわれている。

レオナルドは1519年に死去し、『モナ・リザ』は他の作品とともに弟子のサライが相続した。

その後フランソワ1世が『モナ・リザ』を4,000エキュで買い上げ、ルイ14世に寄贈されるまで、100年以上フォンテーヌブロー宮殿に所蔵されていた。

ルイ14世は『モナ・リザ』を自身が新たに王宮に定めたヴェルサイユ宮殿へと移した。

フランス革命後、『モナ・リザ』はルーヴル美術館の所蔵となったが、ナポレオン1世がフランス皇帝だったときには、テュイルリー宮殿のナポレオン1世の寝室に飾られていたこともあった。

1870年から1871年に起こった普仏戦争時にはルーヴル美術館からブレスト・アーセナル (en:Brest Arsenal) に移されている。

また、第二次世界大戦時には戦禍を避けて、アンボワーズ城、ロク・デュ修道院 (en:Loc-Dieu Abbey)、シャンボール城を転々とし、最終的にモントーバンのアングル美術館に収められている。

【個人的備忘】

「レオナルドと私」アーカイブス

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#創作大賞2023

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