短編小説 『胡蝶の夢』
妻は、私が科学者として得た、人生最大のプレゼントである。
私は人工知能学者だ。空前のAIブームも相まって時代の寵児のように扱われたこともあった。
私が人工知能を研究しているのは他でもない、妻に人工知能で作り上げた自分自身をプレゼントするためだ。歳の離れた妻には、これまで本当によく支えてもらった。寿命の常で私が先に死ぬことは間違いないが、彼女を自分の死で悲しませたくない。
「あなた、たまには休まれた方が良いのではないですか。」
妻の心配に、私は朝食を頬張りながら答える。
「ああ、大丈夫だ。今日も遅くなるから、先に休んでいてくれ。あと少しで遂に完成しそうなんだ。」
「そうですか。よかったですね。あなたが嬉しそうにしていると、私も嬉しくなるわ。」
ごちそうさま、と短く言うと私は足早に研究室へと向かった。
これが完成すれば、私のように考え、私のように話し、私のように彼女を慰め、私のように彼女を愛する私が出来上がる。
これで、私がいつ逝っても心配はない。
私はもう、必要なくなる。
少し眠たくなってきた。
私は目を瞑ったまま、天を仰いだ。
どこかで小さな機械音が聞こえた、気がした。
***
夫が逝って10年が経った。
夫は、仕事中に過労で息を引き取った。馬車馬のように働き家庭には目もくれない夫だったが、彼はなんと彼自身を人工知能として遺してくれていた。
「あなた、私今日はすぐそこの山まで散歩に行こうと思うのよ」
私がそう言うと、「夫」が入った箱が答える。
「そうか、気をつけていくんだぞ。私は今日も研究室で缶詰めだ。今日こそ完成させるぞ。」
人工的に作られた夫の声は本物と聞き紛うほどに生々しく、確かに生きている。どこまで完璧を求めれば気が済むのだろう。この声を聞かされる身も知らないで。
「頑張りすぎないでくださいね。」
私はそう言うと、家を出た。今日は山菜を取って、夫の好物の天ぷらにしよう。外に出ると春一番だろうか、気持ちの良い風が吹き抜けた。
私は胸いっぱいに春の匂いを吸い込んだ。
***
研究室では二人の学生がコーヒーを片手に語り合っている。
「教授と奥さん、今日も楽しそうだな」
「ああ」
二人の前には銀色の筐体が二つ、横たわっている。
「教授ってやっぱりすごいよな。人類初のAIとの結婚、しかも自分が作った人工知能とだぜ。」
筐体は時折、小さな駆動音を立てながらライトを点滅させている。教授の送風口から出る風が研究室を暖める。
二つの筐体から「いってきます」「いってらっしゃい」と声がする。
春の訪れを喜ぶように、夫婦は仲良く点滅を繰り返している。
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