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『いつか王子様が』

傷を負うまで人は大人になれない

(『サンセット・パーク』 P.オースター 著 柴田元幸  訳)

【焦げる怒り】

 「チクショウ今日も収穫がねえな

 かれは怒りに満ちたひとり言を放つ。真夏の陽の下を歩きながら、怒りに奮えていた。

 怒りの正体――。かれは直面するのが嫌だった。過去の苦い記憶を掘り起こすことになるから。自分を責めることになるから。

 渋谷の高架下に置き捨てられた、ペットボトルや食品の余りを探す。

 前ではなく、下を向く日々。今日をしのげるものは一向にみつかりそうにない。

 陽が強く照らす、8月の中旬。

 真夏日の昼間にかれは動き回る。生きていくのに精いっぱいだ。高架下を彩る、グラフィティアート。この絵は10年ほど前に書かれた。

 今となっては色が薄くなり、かつての輝きを失っている。かつての輝きを。

 武治はホームレスの仲間になることを徹底して拒んだ。かつての輝きを失いたくなかったから。

 アイツらと「同じ」と考えるだけで気が滅入った。

 20年前のことだ。かれは日本各地であくせく演奏をする、指折りの名ジャズピアニストだった。

 ジャズの重鎮、マイルス・デイビスが訪日した時はセッションをした。

 セッション後のひと言。
 “Not enough.”
 ――まだまだだ。

 「本気をだせ」ということだった。

【栄光】

 常にジャズのことを考えていた。

 朝、昼、夜――。トイレにいる時も夢の中でも。「本気をだす」と自分を鼓舞していた。練習も欠かさない。毎日、毎時間、毎分、ジャズのことを考えていた。

 そのかいあってか、かれは名ジャズピアニストになった。休むヒマもなかった。

 今日は仙台、明日は広島といった具合に、多忙なアーティストとして生活を送っていた。

 あちらこちらへと移る日々。

 メタンフェタミンで、疲労を消し去り演奏に集中。この1択しかなかった。それだけではない。メタンフェタミンは「期待に応えなければ」と、武治の重圧とストレスを吹き飛ばしてくれた。

 有名になればなるほど、女性が寄ってくる。「武治さん!」と女性は群がってくる。32歳。キャリアもプライベートも軌道に乗ってきたタイミングだ。すでに妻子はいた。妻は七つ下の元モデル、娘はまだ5歳だ。

 とはいえ、富と名声を手にした名ジャズピアニスト、武治は、家庭を顧みることは滅多になかった。

 浮気が元凶だった。

 相手が、一人が二人、二人が三人とだんだん増えていった。何人と浮気していたのか、今となって記憶は定かではない。

 ヴィヴィッドな記憶は、とある日の朝の出来ごとだ。かれは妻と浮気のことで口論をしていた。

 一軒家の一階で2人は向き合い、妻は声を荒げていた。娘は2階でまだ眠っている。

【崩壊】

 浮気相手と夜明けまで過ごした日のこと。

 その人と一緒に、家に戻ってくるやいなや武治の妻が、壁のように、行く手を阻む壁のように、そびえ立っていた。

 ――どうしたんだ?と訊きながらも浮気のことを問い詰めるとは分かっていた。
 ――もう、いいかげんにして。何度目よ。一緒に女も連れてくるなんて異常よ
 ――ああ、もうやめるさ
 ――何回目?あなたの言うことは信用できないわ、と妻は冷淡に言い放つ。音節も抑揚もなく、ただ淡々と。続けて、
 ――マイルスあたりからよね、あなたがつけあがるようになったのは。長いジャズピアニスト生命を考えれば一コマにすぎないのに・・・と言ったところで武治の憤りは制御できなくなった。
 ――よくも!と、言い妻を思い切り押した。力いっぱい。武治は、アイデンティティ・プライドを踏みにじられた気がして、感情にすべてを任せた。

 その力は壮絶だった。

 恵子の背後にある窓ガラスが割れた。

 そのまま、かの女が仰向けになった状態で、庭に落ちていった。割れたガラスが体じゅうに刺さっている。さらに打ちどころが悪かった。

 窓から庭の縁石に落下してしまい、そこに頭をぶつけてしまった。頭から多量の血が流れる。

 ――恵子!恵子!大丈夫か

 と声をかけても返事はない。冷や汗がつたってきた。とにかく救急車を呼ぶことにした。

 3分以内に到着したことは鮮明に記憶している。救急隊員が、即死ですと言うと武治は放心状態になった。

 「すべてを失った」――。

 めぐってくるのはこの思いだった。一瞬だ。明日以降のスケジュールは全て断ることになる。スキャンダラスになるのは間違いない。絶望しているところに、娘が2階から下りてきた。

 救急隊員の音を聞けば、目が覚めるのも当然。

 娘が最後に残したひと言ーー。

 「ママはどこ?

 その件でかれは15年の懲役が言い渡された。刑務所の生活は案外、快適だった。普通に生活していれば、普通の日常を送れる。

 メタンフェタミンを打ち込めず、辛い日々を送ったが、中毒は治った。

 娘とは接見禁止となった。

 つまり親権はもちろんなく、再度会うことも困難だ。それに刑務所にいる歳月のなか、5歳の娘が出所後どうなっているかは、想像がつかない。

 養子か?それとも義母か叔父、叔母のもとか?

 娘の居場所――。

 どこなのか、しこりを抱えたまま、かれは出所した。会うためには稼がないと、と言い聞かせた。ところが雇ってくれるところは、まずない。履歴書の書き方すら分からない。

 ましてや、これまでいた世界が音楽の分野――。特殊すぎて、一般社会の求める能力は欠けていた。

 華やかな世界に身を置いていたものの、その経験には一般社会での汎用性がないと、残酷な現実を思い知った。

 出所してから3年はホームレスとなり街を徘徊している。渋谷区ホームレスは廃止条例の施工までのこりわずか。

 かれの居場所が、別のところに移るのは、時間の問題だった。「別の場所に移るしかないのか。居場所を奪いやがって。好きでいるんじゃねえんだぞ」と、武治は小声で呟いた。

 次にいくとしたら、新橋と決めていた。銀座に近く、便利な場所だ。そんなわけで、新橋へと移動した。銀座と新橋を行き来し、ビンや換金性のあるものを拾う生活。惨めな日々。

 有名ピアニストから、“漁る”人間に成り下がったか。自分のまいた種とはいえ、応報はかなり酷だと胸を痛める。

【転機】

 とある日を境に事態は好転した――。

 以前勤めていた、ナイトクラブ「雅」のオーナーが武治の顔を覚えていたのだ。

「武治さんで?」と雅のオーナー、皆川に訊かれた瞬間にかれは、「そうだよ」と。続けて、「皆川、よく俺のこと見抜けたな。おったまげたよ」
 「そりゃ、『あの』ジャズ黄金期に演奏した伝説の武治だからな!」と大笑いをする。「詳しい話は後でするから、バーでジャズピアノ弾いてくれよ」。

 皆川は中肉中背。実年齢は50代だが、それ以上にみえる。並大抵ではない苦労をし、修羅場をくぐってきたオーラを放つ。

 「ハッキリ言わせてもらうぞ、武治。今ホームレスなのか?風体から分かるぞ」――まず見た目を整えてから皆川の店に向かおう。詳しい話はそれからだ。遅くなるかもしれない。それでも、時間に余裕を持たせて困ることは、一切ないだろう――、と皆川。
 「その通り。出所してから仕事がなくてね」
 「オイオイ!ならすぐこっちにくれば迎えたのに。
 「刑務所に入った――というか、『あの事件』で実刑なのは報じられたが、どこのムショか分からなかった。手紙を送ろうとしても送りようがないだろう?それなら出てきた時に顔でも出してくれればさ!」

 と言ったものの、武治はウソと見抜いていた。じつのところ雅に出向いた。しかし1年ほど閉まっていた――おそらく経営難だろう、と察しがついた。

 皆川の家にも行けはした。しかし、一時的な閉業にまで追い込まれた男のもとに、行く気にはなれなかった。

 自分のいい面だけを見せ、虚勢を張るのが皆川「らしさ」でもある。嫌悪感を抱くことはなかった。

 人間には欠陥の一つや二つくらいはある。自分もしかり。完璧な人間はかえって恐ろしいのだ。

 「今はさ、昔みたくジャズバーだけじゃ客は来ないワケよ。てことで、女のキャストを集めたよ。そうしたら来るようになって。要するに女目当て。ジャズは二の次なんだよな」
 「時代と需要の変化なのかね」
 「とも言える。ハッキリしているのは本物を求めなくなったってことさ」
 「君のオヤジさんが店を経営していた『あの頃』は本物を追求していたよな。音を外そうものなら殴られたのを思い出すよ」と、武治は、はにかむ。
 「俺のオヤジなんかはさ、チェット・ベイカーを知っているか客に訊いていただろう?知らなければブン殴ったり、出禁にしたりが当たり前だったよな。あの時代の燃え盛る勢いに比べたら、今なんてジャズは『付属品』。主役が女に替わってさ。悲しけれど、これが現実だ。時代に合わせて動くしかないんだ」

 「寂しい時代になったもんだよな。俺はどれだけ練習したか分からない。とにかくビル・エヴァンスを真似しようと思っていたよ。意識していたのは、オヤジさんにも言われたけれどさ。あんなに繊細なジャズピアニストは他にいないよな」と、武治は自分をビル・エヴァンスに投影させながら語った。ひと呼吸おいて、

 「しみったれた話をこんな炎天下で話したら、熱中症でブっ倒れる。とにかく髪を切って、服を整えてから俺の店でゆっくり話そうじゃないか。電話番号だ」と、皆川は言い1万円を渡した。

【無力】

 炎天下。

 「歴史的」猛暑を記録したとされる日。銀座の表通りの横道を少し歩くと、表のまばゆい世界とは異なる、アンダーグラウンドな空気が漂う。

 その裏路地にはかつていた――。
 薬物中毒者、
 社会から疎外された人びと、
 社会を捨てた人びと、
 罪を背負った人びと。

 武治は、銀座の表も裏も見てきた。今いるところは「かつて」自分が嫌悪した場所だ。そこを徘徊する日がくるとは、全く想像もしていなかった。

 涙が流れた。悔しさとふがいなさからなのかは分からない。とにかく自分が情けなく思えた。

 悲劇のドラマの主人公だとも思えない。ただただ、路地裏をうろつく病人なのだと、不意に自覚した。

「無力だ」

 皆川は帰りの途中、複雑な思いを抱えていた。事実――1年ほど店を閉じていたこと、自身が薬物のらん用で捕まったこと――をすべて言えなかった。「見抜かれている」との思いから、冷や汗をかいた。

 季節外れの冷たい汗がつたった矢先のことだった。10代の3人組に、腹部を殴られた。不意打ちだ。

 超少子高齢化が進み今では日本人口の5人に1人が80代。このような時代背景から、若者の暴走が始まった――「ジジイ狩り」。中年以上がターゲットにされる。殴られた挙句、金品は盗まれる。

 「このヤロウ・・・」と皆川は小声で言い返し、対峙しようとするものの、3人を相手に戦えるはずもなかった。かれが20代のころは血気盛んでケンカに明け暮れる日々だった。負けなしの皆川。この名前が定着しいていた。

 ところが今では負ける側だ。

 「顔面!」
 「いや、腹だろ?」
 「まあどっちもいけばいいか」
 と、3人の少年たちは笑い飛ばし、皆川に殴りかかろうとした。幸い警察官がそこに駆けつけた。殴られずに済んだことに安堵した。一方で、安堵している自分が惨めで仕方がなかった。

 「無力だ」

 武治は髪型も服装も整え、何日、いや何年かぶりの入浴をした。長髪に放っていた悪臭、物乞い特有のオーラは、なくなっていた。

 自身でも「本来の姿だ」と、驚くほど。古い服は捨てた。きっと別のホームレスが着るだろう。その足で雅に向かっていた。

【あの時あの場所で】

 午前1時。

 営業時間の過ぎた店内で皆川は、1人バーボンを飲んでいた。殴られた腹部をなで「来るワケないよな」と思った。が、着信だ。武治からだ。裏のドアから入るように伝えた。閉店後のバーは暗い。だが、活気が、消え去ったはずの活気が、幽霊のように浮遊している。余熱。

 「悪いな、こんな時間に」と武治は言い中に入った。本題に入るのが先かどうするか皆川は考えていた――。武治の娘が雅でキャストとして働いていることを。仲の良い2人の間に緊張感が走った。

 「一人酒さ。昔みたく飲むのに付き合ってくれよ。もちろんタダだからな」と言いながら皆川は本題から話すことにした。理由はない。その時の判断だ。
 「恩に着るよ」。バーボンを注いでから、「実はな」と切り出した。

 去っていった客の熱気が徐々に消えてゆく。活気の幽霊たちは姿を潜め始めてきた。

 "Once a bitch, Everything is a bitch."--ウィリアム・フォークナーの言葉が、皆川の頭に、ふと思い浮かんだ。

 「一回ダメになろうものなら、なにもかもが崩れやがる」――。店の売り上げが伸びない時期に、バーが薬物売買の拠点になっていた。経営難から立ち直した今ーー。薬物の密売で、損失した分を補てんする必要はない。

 しかし、一度始めた「裏ビジネス」。急に止めるとなると、イチャモンをつけてくる連中はいた。武治の娘の元恋人、落合がその一人だ。

【清算】

 武治の娘、秋子は皆川の経営するバー、雅で働いている。

 22歳の女性が、22歳の武治の娘が、キャストとして。今、世の中は不況にあえいでいる。例に漏れず、秋子も不況の煽りを受けた一人。

 有事のさ中に被害を真っ先に受けるのは、女性なのかもしれない。非正規として働いていたが、かの女は業績不良を理由に契約期間に、解雇された。

 日本全国では、清掃業者を民営委託する案が浮上。業者はストライキを蜂起した。「ネズミ」問題。ストの結果、路上にネズミが群がるようになった。治安衛生は悪化し、失業者や薬物乱用者も増加傾向にある。

 また超少子高齢化から、高齢者の家を狙った強盗の件数が天文学的に増えた。高齢者が富を占める時代となった。若者の貧困率は高くなった。若ければ若いほど貧しく、高齢であれば高齢であるほど余力のある時代。

 高齢者をターゲットにした、ひったくりや強盗・殺人の件数は増えた。経済面では、高齢者は「強者」。半面、事件被害に遭いやすい「弱者」でもあった。

 ――酷な現実だ

 娘の秋子の交際相手が覚醒剤中毒者なこと、この店に、今はないのに覚醒剤を買い求めにやってきていること、言いがかりをつけてくること。

 本題を最初に切り出したことを、どこかで申し訳なく思う皆川は、暗く照らされている、店内の明かりをやせ細った眼で、みつめる。

 ――この空間に群がっていた、客たちの熱気、店の活気は、伝わってきた。ところが、だ。武治が来たら、熱気と活気の幽霊たちはどこかへ消えたのかもな――と、皆川は腹部の痛みを感じながら、考えていた。――危ない、放心状態になるところだーー。

 ーー「実はな」の意味。

 武治にはなんのことか察しがつきそうでつかない。「実はな」は皆川がよく使う言葉だ。大それたことではないのに、言うことがある。どんなカードなのか、思いめぐらす。

 恵子のことか、過去の話か、もしくは、都合の悪い条件――何かは言われないと分からない――の提示なのか。いずれにせよ、悪い話を切り出す時によく「実はな」と言うのが、皆川だと知っていた。

 二人が徐々に暗くなってゆくバーの中に向かい合って座っている。皆川は、宙を見上げてから一呼吸した。ため息とも、諦めとも違う、一呼吸。

 「ストレートに言っていいか?」
 「『ダメだ』なんて言えないだろう?教えてくれ」
 数秒の思い沈黙が影を落とし、二人のあいだに緊張の糸が走った。ほんの数秒。「ほんの」なのに、両者には長く感じられた。

 皆川は切り出した。「『実はな』、お前の娘、秋子ちゃんがな」と言いかけたところで、「秋子がどうしたって?」と武治はすかさず返し、皆川は「働いているんだよ。ここのキャストとして。話のネックは分かるだろう?」と言った。

武治は思いがけず涙を流した。

 「秋子」――。娘の名前を聞くだけで、心が張り裂けそうだった。名づけたのは皆川だ。それもあってか、かれの発する秋子という三つの音から、様ざまな感情が渦を巻く。

 かれは今、後悔と情けなさに打ちひしがれている。

 同時に心の中では、愛情が根を下ろしていることにも気づく。懺悔と愛情の中間で、かれは涙を流すほかなかった。ーー遺書を残そう。いつ死去するか分からない。一つ言えるのは、俺が長生きしても何の得もない。それなら、遺るものを書くしかないーー。

 そう思い、1分ほど武治はうつむいて流した涙を隠そうとした。

 もちろん、皆川に見抜かれたが。

 ――話を進めるか。過去の清算をするのは自分だ。ろくでもない自分。自分に情けをかけてきた、みっともない父親だっただろう?そもそも父と呼べるほど、長く接していない。俺が父を名乗っていいのだろうか――。

 「もう22歳か。キャストとしてだなんて、な。驚いたよ。信じようにも信じられない。『まさか』こうなるとは100万の1も予想していなかったさ」
 「秋子さんも大きくなったよ。当たり前だよな。踏み込んだことは訊いていないぞ。どこで育ったか、今どうしているとかはな。ピアニストとして働いている父親=お前から訊いてみるそれか、オレから訊く。どっちがいいんだ?」

 武治はすっかりと困惑していた。痙攣した声で「少し考えさせてくれ」。「もちろんさ」と、皆川が言ったころには、時計は午前3時を回っていた。店内のライトは同じ光量なのに暗く思える。静まり返る時間帯。

 二人をまるごと呑み込むような暗闇が、忍び寄ってきている。

 武治は悟った――。

 きっと自分には何かをしなければならない。「何か」の正体は分からない。分かっているのは、大きな試練ということだけだ。

 皆川は「何か」を今、突きつけるのはあまりにも酷と思えた。――すべてが突然の出来ごと。今日、ホームレスの身を捨て、秋子さんの話をした。それだけで心は傷むハズだ。これ以上伝えるのはよそう――。

 「武治、ここは女性キャスト用の寮がある。ひっそり、バレないように使ってくれ。ここで働いてもらうようならゆくゆく伝えるがな」
 「助かるよ。ひとまず落ち着く時間が欲しいな」と言うと、皆川はうなずいた。女性キャストに変態扱いされるのは気の毒だが、提供できる居場所は、キャスト用の寮だけだった。

 真夏の空に拡がる雲は、行き先不明に見える。どこへ向かうのだろう?今日は右に、明日は左に、と針路を変えて人の心を惑わす。そう思いながら武治は、夜明けにベッドの中の、沈黙に沈んでいった。

【夜明け】

 目が覚めた。

 昼の12時だった。室内は蒸し暑かった。武治は自分の毛穴に、湿った空気が入り込み、湿度に毒されているように感じられた。

 寮の部屋の外では、女性キャストが、今日の指名のことを話していたり、客のグチをこぼしていたりと、意気揚々な雰囲気。

 「」とは違う。

 武治が雅で働いていたのは20代のころだ。週に3回ほど、ジャズピアノの演奏をしに来ていた。すでに引っ張りたこだったのに、雅で演奏していたのには理由があった――。

 著名なジャズミュージシャンが演奏していたからだ。素晴らしい演奏を聴き入るためだった。有名なミュージシャンとのコネクションづくりが目的ではなかった。

 女性ホステスは当時もいた。

 ただ、会話内容が、昔のかの女らのそれとは違う。大体はジャズの話だった。他は、誰が有名な、ジャズアーティストになのかの予想、今日のニュースについてなど――。端的に言えば、質が高かった。本物だった。

 かつて――30年以上前の話だ。

 この店は、日本の数少ないジャズの聖地として、知られていた。皆川はダイヤモンドの原石を掘り起こす才能を持ち合わせていた。かれが発掘したアーティストは、続々と人気になっていった。

 数多くの人脈がある皆川は、武治にとって謎な存在だった。バーの経営だけでなく、どこから才能のある無名なジャズ演奏者を発掘するのか気にはなっていた。

 なにか「ウラ」があるのでは、と武治はどこかで恐れていたのかもしれない。薬物を介してなのか、他のルートなのか。気になっていはしたが、ジャズに関係のないことは訊かないよう努めていた。

 それが正解でもあるし、バーの経営を軌道に乗せ、新人を発掘させたのはメタンフェタミンのおかげだ。同時に、今、皆川を悩ませているのもメタンフェタミンだ。その二重性に皆川はイラ立っていた。

 このバーを経営し始めてから、才能のある有望なアーティストを見つけ出すのに、メタンフェタミンの売買は必要不可欠だった。主に銀座で捌いていた。

【秘密】

 薬物の売買をすることで、人脈が広がっていった。

 「どこどこの、だれだれが、何をしているか、何を目指しているのか」――。話を訊き出すのに、アンダーグラウンドな仕事はうってつけだった。そこから、ミュージシャンを発掘するのには、案外相性のいいウラ仕事。

 中にはのちに逮捕された者もいたし、変死する者もいた。無名な才能を持ち合わせないアーティストの死、才能を開花さえたジャズアーティストの死。

 皆川は、この悲劇のドラマを心の奥底では、楽しんでいた――。早世するからこそアーティストは惜しまれる。「生きていれば」と、惜しむからだ。

 芸術の世界と薬物は切ってもきれない関係にある。皆川は、アーティストに倫理が通用しないことを心得ていた。社会通念に縛られる、無才なアーティストもいる。

 「ダメ」なことを冒しても、傑作を出すアーティストもいるのは事実だ。短命であれ、アーティストとして讃えられればそれでいい。それが皆川の揺るがない考えだった。

 長生きしていたら才能と技術は朽ち果ててしまう。そのような、グロテスクな考えを抱いていた。ところが、武治は違った。

 早熟で技術が減衰していなかった。

 20代にして繊細かつ、大胆な演奏をする、稀有なジャズピアニスト。音が微妙にズレようものなら、ピアノを叩くこともあった。つねに、自分が納得する「音」をひたすら、追い求め続けていた。いっさいの妥協がない。

 メタンフェタミンに溺れていったのは、有名になれない、才能をくすぶらせているなど、ありきたりな理由からではなく、有名になったストレスからだった。かれの中にはみえない葛藤があった。

 才能が賛美されるようになってから、圧力を感じるようになった。周囲の期待に応えるという圧力。徐々に期待値は高まっていった。重圧を跳ね除けようとする姿は、皆川をおののかせた。

 狂気に近いものでもあったのだ。

 ひたすら音の「美」を追求するがあまり、時に自己破滅するのでは、と皆川は危惧することもあった。承認欲求の強いアーティストとは、一線を画す武治に、恐怖と敬意を抱いた。

 刑務所に送られる前は、武知に対して、コイツは異端――つくづくそう感じたものだ。

 のちに殺人で獄中生活を送り、その後はホームレスになると、破滅的なのは事実だ。ただ、その原因が演奏に無我夢中になったこと、というより、夫婦間でのもつれというのも皮肉なものだ。

【教えよ】

 倫理を踏みにじった行動。

 皆川は、社会と反りが合わなくても、ジャズピアニストとして有能であれば、何も口出しをするつもりはない。創作とプライベートは切り離して考える。

 つまるところ、武治に降りかかった災難ーー同情の余地があるとしてもーーはかれの個人的な話に過ぎない。演奏がすべてだ。かれの愚行をめぐった考えが、頭をよぎっている。

 同時に、武治との過去を反芻(すう)している。

 ――武治、ここにはチャンスが溢れているぞ。コネクションを作って有名になれるのだからな
 ――やめてくれ。俺にはコネやら周りのしがらみは要らない。自分の力だけで、最良の音楽を届けたいんだ。商業的すぎるのは好きではない
 ――もったいない。それだけのウデがあれば、もっともっと有名になれるというのに
 ――本当にうんざりするんだ。目先の金に執着する気なんて、1ミリもないんだ。むしろ、最近は名前が知られてやりづらい

 思い返せば、かれの目つきは野心的だった。コネクションがなくても有名になると、皆川には確信があった。事実そうなった。だが、あの一件で、妻の恵子を殺めてしまったせいで・・・

 「アノ事件」から20年近く経った今。武治には昔の迫力がなくなっているように映った。

 皆川は、かつての武治の勢いが衰退していると、寂しく思えた。とはいえ、自分もかつての覇気はないのかもしれない。

 老いるとは、自分の武器を捨てることなのかもしれない。
 一つひとつ、強い武器から先に。

 過去を思い返す。同時に今の武治を、過去の姿と照らし合わせ、年を重ねること、見舞われる悲劇で人間は変わること――。これらを考えていた矢先だった。 

 武治が事務所をノックした。「起きたか?」と皆川は声をかけ、けだるそうな返事の声を聞いた。「ピアノの練習がしたい」。

 その時の武治の目の奥にはかつての野心が、みなぎっているように映った。

【狂気】

 開店前。

 武治は店内のグランドピアノで「枯葉」を弾いた。もちろん衰えている。しかし、過去に受けた衝撃が、皆川の心にこだました。

 武治の「狂気」にひれ伏せざるを得なかった。

 変則的な旋律に即興で生み出す、新たな音。まさに求めていたものだった。演奏の途中の出来ごとだった。

 武治は楽譜を思い切りフロアに投げた。「これじゃねえんだよ!」と怒りの声を放っていた。

この姿を見たかったのだ。唯美を追求する、怒れる武治。

 皆川はあえてあおることにした。「オイオイ、そんなことで怒らなくてもいいだろう。ブランクを考えたら相当なウデだ。そこらの音大卒のヤツらより断然聴き心地がいいよ」
 「他人と比べて何の意味がある!一人にしてくれ!」と憤りに満ちた返事をした。

 ――これだ。この武治を待っていた。怒りと狂気、常軌を逸したジャズピアニスト。

 この練習を目にしてからというもの、開店前は武治の練習時間に充てることとし、キャストも出入り禁止にした。

 1カ月の練習期間を経て、武治は営業時間にピアノを演奏することになった。皆川は心から歓迎していた。

 一方、練習に没入していたためか、娘がこの店のキャストとして働いていることを、武治はすっかりと忘れているようだった。

 9月のとある晩、閉店後に皆川が武治を呼び出した。

 午前1時。

 真夏日の再会。あの日の夜中に話した、同じ時間――午前1時――同じテーブルで話を切り出すことにした。

 「武治、ピアノのウデには俺は何も言わないよ。けれどな、一つ最初に伝えたことがあったろう?」
 「秋子・・・」忘れていたのではなく、ピアノにやりきれない感情をぶつけていたのかもしれない。
 「そうだ。かの女と話すかどうか、決めるタイミングに来たんじゃないか?」

 武治は黙り込んでしまった。真夏日に出会った時とは打って変わって、今では、上品な紳士のようだ。順風満帆な、ピアニスト。だが、過去の傷は癒えていない。

 ――まだ傷が残っている。とはいえ、武治が目前の困難を乗り越えなければ親子関係が修復することはない。試練だ。酷かもしれないが、涙を流すだけではダメなんだ。護るのがアイツの務めだ――と、皆川は思いながら、責めるような目つきで見ていた。

 「いつ出勤するんだ?秋子は」
 「明後日だ。話を進めるなら、開店前にするか、閉店後でも。どちらでもいいぞ」
 「その時の判断でもいいか?できれば演奏後がいいのだが・・・」
 皆川は大きく、異論はないといった表情でうなずいた。

 秋子は自分のこれまでを思い返す。

 5歳で母が死に、父は刑務所。

 どのような経緯(いきさつ)で父が、母を殺めたのか、何も知り得ることはなかった。22年間、手がかりがなかった。ただ、今では「無償の愛」と思える「愛情」を、父が捧げてくれたことは記憶している。

 父とともに暮らしていたのは5年と短い。それでも親として、かの女を大切にしてくれた父ーー今や再会することのない父ーーを思い返すと、感傷的になった。

 折にふれては、心に涙が滴るのだ。

 母方の叔母の家族のもとで暮らしていた。叔母は「人殺しの娘」と、かの女をみているように思えた。

 叔母たちは冷徹だった。食事が出ないこともある。成績不良なわけでもなく、むしろ上位なのに「出来ない娘」のレッテル貼り。理不尽な扱いに、中学時代までは耐え忍んでいた。

 高校1年生になった途端、尾が切れた。不遇な環境への反撥(ぱつ)――。家を飛び出し、夜の世界へ進んでいった。様ざまな夜の店を経験した。報酬は十分とはいえないように思えた。

 とある日、雅の求人広告を見、待遇の良さと寮が完備されていることから、働くと決めた。寮のある店舗を選んだのには、意図があった――。ストーキングをする、前の恋人から逃れたい気持ちがあった。

 また、仕事を変え別のところへと移れば、「もしかしたら」実父に会えるのでは、と淡い期待も抱いていた。ふたたび会う日を待ち焦がれていた。何度も、胸を燃やす期待は裏切られてきたのだが。

 秋子は残念なことに「その男」が、雅に薬物を買い求める者だと知らなかった。そこから、いつ鉢合わせるのか、不安すら抱かなかった。というか危機を察知しようがなかった。

 災難が襲うのも時間の問題だった。

 開店してからというもの、店内は一気に賑やかになった。外出を控えていた人たちが、一気に開放されたかのようにバーにやってくる。

 「ネズミ問題」。これが原因で、疫病が一時的に全国では流行った。清掃員は公務員として雇われていた。コスト削減の一環として国が、民間委託に踏み切ろうとした。ストライキが始まったのはそれからだ。ストが続き、衛生は悪化した。

 政府は秘密裏に、感染病原体の研究を進めていた。研究データを基に、ワクチンや、感染予防などの策を、打ち出すのが目的。

 日本は世界的に、研究開発で「遅れた」国となってしまった。国が補助金を削減したせいで。汚名返上のために開始したプロジェクト。

 その研究は、街の衛生が担保されていれば、問題はなかった。しかし、不衛生な環境下にあって、感染病は流行してしまったのだ。ましてや首相が収賄で、研究所の土地を決めてしまった。

 これが再度の感染拡大を招く原因ともなった。

 「所有する土地」に研究所を建ててください、と。土地を安く売り渡す見返りに、前首相が賄賂を渡した。キックバックだ。選んだ土地は、安全性を全く考慮していなかった。

 都心部に置かれていたのだ。 

 不衛生な環境に、ウイルスの病原体が流出した結果、日本の主要部からまん延してしまった。

 それだけの規模のパンデミック。

 感染拡大を受け外出制限がかかっていた。ただ、政府はこの疫病を無くすのは無理だと判断。制限の解除に踏み切った。

 のちに、解除によって感染が再拡大するとも知らず。

 店に来る、大半の客の目当ては女性キャスト。美人揃いと有名だった。ジャズが二の次なのは、皆川の意に反するものだったが。

 薬物売買の「ハブ」となり、次は売春の温床になるかもしれない。今や女性が平気でカラダを売る時代だ。形式上は禁止しているが、キャストのなかには、男性客とプライベートで肉体関係をもっている者もいる。

 「ダメ」という体(てい)にしているが、実際に横行していることを皆川は把握している。

 ――俺は救えないんだ。待遇はいい方かもしれないが、このままだと廃業するのが目に見えている。売春宿としてのバーに成り下がるのが関の山なのかもしれないな――。

【訣別の時】

 煌(きらび)やかに輝く光に照らされるフロア。

 ここに、男性の高揚感と女性キャストの色気が混ざり、店内は独特な空気感に包まれた。今日は武治の演奏だ。といっても、音楽を聴き入る者は、ごく少数だろうが。

 外は9月の雨が降っていた。季節が夏から秋へと移ることを知らせる雨ーー。湿っていて、心地悪い。酸欠になりそうなくらい濃い、二酸化炭素。ねちねちと、人を不快にさせる天候だ。

 午後7時。

 楽譜が目の前にある。黒いスーツで身を包み、一流のジャズピアニストのような風体。1カ月ほど前までホームレスだったとは思えないほど、見違えるような姿だ。

 霧かかった外から店内へと入ってくる客にキャストーー。神秘的な入店などあるのか分からない。おそらく無いだろう。しかし、武治はなにか、超常的なものを感じた。

 ビル・エヴァンスの「いつか王子様が」を演奏することにしていた。開店し、キャストと男性が席に着く。賑わい始めた段で、武治は演奏を始めた。

 視界に入ってきたのは秋子の姿。見知らぬ中年の男と手をつなぎ席に。見ているだけで、複雑な感情が、渦を巻いた。再会する喜びもあれば「まさか」女性キャストとしての娘を目の当たりにするとは。

 失った悲しみや、自身の不甲斐なさから、プロピアニストにある者が涙を流してしまった。その涙は鍵盤に滴り、音を外してしまった。言い聞かせた。「構うものか

 武治は、極限まで鍵盤に顔を近づけ、涙していることを隠しおおせようと、必死だった。

 皆川は音を外していることに気がついたが、事情を察知して反応することはなかった。

 曲の演奏がクライマックスに近づき、活気に溢れ始めるタイミングだった。一人の男――落合――が、雅のフロアにやってきたのだ。

 「ったく、皆川のヤロウ。早くよこせ!」と大声をあげた。20代半ばくらいで、体は不健康に痩せている。一目で見て、一般人とは「違う」と分かった。

 ――人生の終わりだ。もう何も抵抗しようがない。自分が裏で始めた商売が全ての元凶だ、と皆川は心でつぶやく。

 「それにな、秋子がここにいるのも知ってるんだよ。匿うつもりだったのか?バカなヤツだな。早く出てこい!」と、その男は叫んだ。ナイフを持っていた。

 落合がナイフをかざしてキャストに皆川がどこにいるか、脅すように訊いてもおかしくないと思えた。

 皆川はフロアにいる人たちにただちに逃げるよう、大声を放っていた。狂乱状態だった。

 パニックで逃げ惑う人たち。怯えながら大声を発する女性キャストたち――このような光景は初めてだ。

 「ここだ。もういいだろう。個人間で話を・・・」と皆川が言った瞬間、その男は、秋子に目をやった。
 「こっちに戻ってくれば、問題ないんだよ。シンプルだろう?」とナイフをちらつかせていた。

 演奏を止めた武治は騒然とした光景を目の当たりにし、何もできず、何も言えず、固まってしまった。

 ――秋子の命が・・・

 落合はナイフを振りかざす。その刃の先は、皆川なのか、秋子なのか判断がつかない。いずれにしても自分の娘に「命の危機」が迫っていることは確かだ。

【救い】

危ない!」ーー。とっさの判断だった。

 秋子のところへと、一心不乱に駆けていった。「護るしかない」。秋子を正面から抱きしめるような格好で、かの女がナイフに刺されないように護った。


 何分経ったのだろうか。

 「何で生きているんだ・・・俺は」
 「お父さん。17年ぶりの再会なのに・・・」と秋子は涙を流していた。その粒は、武治の頬を伝っていた。演奏中に流した涙は枯れ、今はかの女の涙が、かれの表情を覆っている。

 「覚えていたのか。すまなかった。何も言えないよ」――よく一目で、俺が父親と気づいたな。恐らく実は、皆川があらかじめ伝えていたのかもしれない。

 秋子は過呼吸な状態でさらに激しく涙を流し、悲しみの声は大きくなっていった。「死なないで!ねえ!」と叫ぶころには、武治の意識は遠のいていた。

 ――これで愚行だらけの人生の幕を閉じるのだ。何も不満はない。何せ、娘の命を救えたのだから。俺にできた唯一の孝行は命を護ることだったんだな。そうだ、最後に遺書の在り処を教えないといけないな――と、心の中でつぶきながら、景色がかすんでゆくのが分かった。

 「皆川の事務所のテーブル内に遺書がある。読んでほしい」と、朦朧とした意識のなか、無理やり声を出した。

 「ごめんよ。これくらいしかできなくて」。これが武治の最後のひと言だった。多量出血だ。

 落合は本当に人を殺したと実感できていない様子だった。――本当に殺してしまったとは・・・と、うろたえていた。

 血まみれになった自分の洋服に、武治の傷口、秋子の泣き叫び声がかれの胸を刺していることに皆川は気づいた。

 皆川はナイフを奪い、落合を刺した。――俺も終わりにしよう。バーをこんなに汚染させてしまった元凶は俺にある――と、自分の過ちを清算するために、自分を刺した。

 床に転がる三人の男の死体。息をしていないのに、まだ生きているようだ。一匹のネズミが死体を漁る。遺体を嗅ぎつけては、血を飲んでいる。このネズミは、伝染病を街にばら撒くのだろうか?

こんなに凄惨な状態なのにもかかわらず、ライトは、陽気に輝いている。

まるで、息のない死人を明るく照らすかのように。
まるで、死人を這うネズミを照らすかのように。

 秋子は泣きじゃくった姿で、皆川の事務所へと向かっていった。遺書をとるために。

 ーー実は、皆川から「父」がピアニストとして働くこと、遺書を預けてあることは、事前に聞いていたのだ。

 もう一匹、新しく出てきたネズミが、秋子を追いかける。

 雨は止んでいた。静寂が、夜空を呑み込むようだった。

【あとがき】

 この作品の基となる小説は、大学時代に、英語で書いたフィクションです。

 確か、講義名は「クリエイティヴ・ライティング」。教授はアメリカ人で、英文でフィクションを書くのが、授業内容でした。

 何度も「ダメ出し」をされたのを覚えています。元の英文版はかなり簡素で、動的。「チャールズ・ブコースキー(米作家)のようにシンプルに書け!」と何度も喝を入れられたものです笑

 英語バージョンはWordで1〜2枚程度と、文字数がとても少ない。最初、この小説を書く際は、英語版を、日本語に和訳するだけで終わらせようと思っていました。

 ラクなので。手抜き精神が丸見えですね笑

 遡ると大学当時のぼくは、日本文学をナメていました。「英文で小説を書く日本人」を目指していました。「日本文学なんてくだらない」と、冷めきっていたのです。

 ところが「和訳作業」のつもりが、創作に変わっていきました。おそらく日本語に対しての感度が変わったのかもしれません。

 英文バージョンと大きく異なるのは、武治と皆川の存在感です。ここはあえて、色濃くしました。親子の再会にあたって欠かせない、二人の存在と老いるとはなにか、考えるようになりました。

 次に、描写です。

 基の文ではここまで「ひねり」を入れませんでした。というか、加えるという発想すらありませんでした。こうした作業を終え、思いましたーー年齢とともに、何にドラマ性を持たせるかは、変わってゆくのだと。

 原文のラフな和訳も出したいところです。

 ただ、気が引けてしまいます。申し訳ないのですが、簡易な英文ですのでドキュメントをスキャンして、Google翻訳などにかけると、読めるかと思います。

 栄光と衰退、再会という救い、死という贖罪ーー。主人公は武治。かれが人生をかけてゆく姿を、客観的に描くのは、新たな技法のチャレンジです。

 リアリティを持たせるために、三人称で書くのも新たな試みです。少ないものの、登場人物の「ドラマ」に焦点を当てました。

 ドライになってしまう印象を与えるのでは、と思い独白の描写をしました。これも新たな挑戦。

 実験作と言っても過言ではないかもしれません。

 あらためて、一度すべてを失った人の「救い」を提示するのが、主眼です。武治が「死ぬことで生き返る」のは、皮肉な話ですが。

 きっと、ぼくたちは、これまで、これからも挫折や盛衰を経験するかもしれません。

 良い時もあれば悪い時もある。その「程度」は人や状況、環境により異なるでしょう。

 そんな時に、この作品内の、絶望と希望を、ふと思い出していただけたら、このうえなくうれしい限りです。

(本作は連載に加筆・修正をし、一つにストーリーをまとめたものです)

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