見出し画像

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」

はじめに

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」は存在の起源を問う究極の問いと呼ばれている。私たちの目の前に存在する存在は、なぜ、あるのか不思議だ。私は、その答えを知らないまま、死んでいくのは口惜しいと思っている。

しかし、残念なことに、この問いは未解決で、世界に確たる答えは無い。
現在、様々な解答案が提示されているが、それらを読んでも私は納得しなかった。納得できないので、私は(恥ずかしながら)考えていたところ、自分なりに納得できる答えをえられた。

私がなぜ、これを書いているかというと、世界にはこの問いに納得したい人がいて、本記事が多少なりともその納得の役に立つのではないかと思い、つたない文章ながら公開した次第である。


この世界はゲームに似ている

厳密には違うのだが、手っ取り早く、おおざっぱに説明するにはこの例えが便利だ。ゲームはどこに何があるか、何がどう動くか、などはすべてプログラムによって説明される。ゲーム内の存在はプログラムが「ある」ように指示してるため「ある」のである。

ゲーム内の存在がなぜ「ない」のではなく、「ある」のかと問えばプログラムによって存在が肯定されているからである。

筆者の意見は、我々の世界もゲームと同様に、「プログラムのようなもの」によって駆動されている、というものだ。

ここで、世界における「プログラムのようなもの」、を「真理」と定義する。
世界は「真理」が「ある」から「ある」のである。

筆者がなぜ、こんな根拠もなさそうな、突飛なアイデアを述べているかというと、実例をみつけ、検証したところ、筋道が通っているという感覚を得られたからだ。
真理の例を示しながら、紐解いていくことにする。

説明できる真理の一つに同一律がある、と私は考える。
同一律とは「AはAである」という形式で述べられることである。

具体例は次のようになる。
「無は無である」
「有は有である」
「動くことは動くことである」
「止まることは止まることである」
「私は私である」
「素数は素数である」
「回転は回転である」

一見、何ら意味のないこれらの同一律、これこそ、ゲームのプログラムのように、世界にある真理(の一部)なのだ、と筆者は考えている。

「A=Aである」という同一律

先述の同一律であるが、実は、完全な理解を得られるものは、ほぼない。例えば「有は有である」について説明する。

「有るということは、有るということである」というのは自明だ。「有る」ものは、「有る」。否定しようがない。しかし、なぜ、完全に理解できないかといえば、「存在」について知らないからだ。「存在」が何なのか分かっていないので、「有る」といっても、何が「有る」のか、何をもって「有る」のか、さっぱり分からない。

結局、「有」とはなんなのか?意味不明でそれ以上の理解は進まない。

しかし、私が理解できる同一律が一つだけ存在した。それは「無は無である」ということだ。「無は無である」ということは「何も無いということは、何も無い」という意味である。ここで、先例と違うのは「有」は理解できないが、「無」は理解できるということだ。

誤解が無いように説明すると、無とは何も無いことであって「0」ではない。「0」というより「null」といった方が伝わるだろうか。

ともかく、「有」は、存在が何なのか分からないので、語ることが出来ない。しかし、「無」は無ければいいので、語ることが出来る。「無は無である」ということは、一見、何も主張していない。しかし、これが世界の在り方に大きく影響している、と筆者は考える。

「無は無である」ということ

突然だが、あなたの目の前に直径10センチの「無」が発生したことがあるだろうか?もちろん、無い。なぜなら、「無は無である」から「無」が「ある」ことはありえない。

「無」は見ることも、触ることも、認識することもできない。だから「無」なのだ。認識できたり、作用したり、物理法則があったら「無」ではない。

この「無は無である」ということを別の角度から見ると「世界に無は存在することは出来ない」という法則になる。
「世界に無は存在することは出来ない、なぜならば、無は無だからだ」

例えば、世界を次のように表したとする。
{1,2,3,4,5,6,7,8.9……}

これが「無は無である」から、世界は次のようにはなることは、出来ない。
{1,2,null,4,null,null,null,8.9……}(nullは無を意味する)

こういった考察をせずに、私がもし、世界を作ろうとしたら「無」でまみれた、めちゃくちゃな世界を創造するだろう。しかし、そもそも論として、無がある世界は、原理的に作り出すことができない。

世界は有で完全に満たされていなければならない。
世界は有で連続していなければならない。
これが世界の根底をなす、真理(の一部)だ。

ここで「無は無である」ことの挙動を確認する。
「何も無いことは、何も無いことである」は一見、自明でなんの主張もしていない。
しかし、そこから「世界は有ならば、有で連続していなければならない」という自明でないことが導かれる。

また、「なぜ世界はこのようになっているのか」という問いは未解決問題だ。
私はこの一連の「無は無である」ということがこの問いの(一つの)答えになっているように思える。

「なぜ世界は有で埋め尽くされるようになっているのだろうか」
「無は無であるから、世界が有ならば、すべては有であるようになっていなければならない」

真理は存在する

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という問いの答えはどうなるか。世界の有り様は、なんでもありの自由ではなく、制限事項があった。「無は無である」から、世界は「無」か、完全な「有」のどちらかの状態しか取りえない。

しかしここで、距離をおいて考えてみてほしい。そもそも、世界は存在する以前に、制限があるのだ。「無は無である」ということが、世界の有り様を指示している。

筆者は、世界における「プログラムのようなもの」、を「真理」と(あいまいだが)定義した。

ここで、ゲームのプログラムはゲームの外にあるか、中にあるか、考えてみる。筆者は、ゲームのプログラムは、ゲームの一部である考える。つまり、世界における真理も、世界の一部なのではないか。であれば、真理が存在するならば、その真理もまた世界である、ということになるではないか。
「無は無である」は否定できない。否定できない「無は無である」があるならば、それこそが、世界なのではないか。

以上から、問いと答えは次のようになる。
問:「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」
答:「無は無であるという、真理はある」

これはゲームの武器や、お金などの具体的な存在が、なぜ存在するかを考えていたところ、先にゲームプログラムが存在するということを発見してしまったようなものだ。

原子や素粒子が、なぜ存在するかわからない。しかし、「なぜ何も無いのではなく、何かがあるのか」に対しては、真理自体が答えになる。”何かがある”には”真理”があてはまる。

また、「無は無である」に、なぜと無限に問うたらどうなるか?存在になぜと問うと、無限になぜが続く現象があった。しかし、この解答に関しては、無限遡及は発生せずに止まる。「無は無である」のだから「無が無である」ことに、なぜと問う意味がない。

物質はなぜ存在するのか

存在とは何か分かっていないにもかかわらず、物質はなぜ存在するのか予想してみることにする。

逆算的に予想すれば、物質は存在する、つまり、その背後に物質が存在するのが自明となる真理が存在するのではないか。

「1は1である」「空は空である」「バナナはバナナである」といった、ありとあらゆる森羅万象、無限の同一律が世界に自動的に適用された結果、世界は存在するしかないという結論になった、という考えだ。

「素数は素数である」について考えてみよう。
無限に存在する素数を人類は計算することも、理解することも出来ない。
しかし、世界はその無限に存在する素数を、矛盾がないように自動的に完備している。

世界になぜ素数があるか分からないが、世界に素数があるならば、素数は素数になるしかない。この素数の例のように、まるで全知全能のように世界はすべての数学や論理の法則を真理として完備しており、その条件下で、世界はあるように、あるしかない。

世界が存在しているという結果からいえば、ありとあらゆる真理の中で、私たちの世界はしっかり成立していたのだ。

腐ったリンゴで例えてみよう。
腐った部分は論理的に成立しない部分だとする。
腐った部分は同一律でない、「無は有である」「うさぎはカラスである」「素数は素数でない」など。
そういった、腐った部分を、ひたすらそぎ落としていった結果、綺麗で食べることのできる(論理的に整合する)部分が残った。

論理的に否定できない、”なにがしか”が残った。
これを、なにもなかったことにできるだろうか?
筆者は出来ないし、これこそが世界であり、存在である、と思う。
一文にまとめるとこうなるだろうか。
「否定しえないことは存在する」

「有」とはなにか、筆者が勝手に定義すると
「世界のありとあらゆる真理に対して否定されず、論理に整合して残った事象が有である」

世界の最初を表現する

否定されず、論理に整合して残った事象が有であるならば、世界の最初はどういう筋書きになるだろうか?

ビッグバンが世界の最初としてみる。
ありとあらゆる真理を照らし合わせた結果、世界はあるように、あるしかない。それによって、ビッグバンの存在、エネルギー量、世界の形状などが超越的に自動的に決定されている。つまり、世界は(すでに)ある。真理が創造されていないのと同様に、真理と表裏一体の世界も創造されなくても、ある。
存在はどこから来たわけでもなく、真理と同様にすでに存在している。この、存在に対し、「存在」はいつから存在するか、「存在」はなぜあるのか、と問うことは、「無は無である」ことはいつから存在するか、「無は無である」ことがなぜあるのか、と問う無意味さと同じだ。

さらに具体的を考えてみる。
仮に、世界の最初が一粒の粒子だったとする。
その粒子は最初から存在しており、だれかに作られたとか無から生成されたとかはない。「ある」しか取りえないから最初から「ある」。
いつからあるのか、と問えば最初からであり、その粒子が存在する以前の世界は存在しない。粒子があるから世界なのであって、世界が無いのに時間や空間は無い。我々の常識では突然、粒子が無から現れたように思えるが、そもそも時間も空間も観測者もいないのだから、突然、無から粒子が現れるなどという描写は間違っている。突然というのはある程度の時間幅を観測してから初めて突然という概念が発生するのだ。

良くあるのが、最初の存在以前に、無の空間や時間や神などが存在するという主張がある。しかし、ある、存在以前にもう一つの存在を規定してしまうと、それ自体が世界となってしまい、無限遡及が始まって答えとして収束しない(ex 世界の前には神が存在して……神が存在する理由は……さらにその理由の理由は……∞)。これがなぜおかしくなるかといえば、そもそも無いことをあるとしてしまっているからだ。しかし、これも多少手を加えれば答えとして成立する。つまり、空間や時間や神は理由なく存在する存在であって、最初から存在する、とすればいい。筆者は神の存在を肯定も否定もするつもりもない。最初に理由なくある何か(真理や物質)はあまりにも不思議であり、それを神と表現してもなんら疑問はない。

なぜ物理法則が働くのか

世界の物理法則がなぜ働くかは解明されていない。すべての物理も数学もそうなっているから、そうなっている、としか説明が与えられていない。

スティーヴン・ホーキングは物理法則がなぜ動作するか次のような疑問を持っていた。

『仮にたったひとつの統一理論があったとしても、それはただの方程式の集まりでしかない。いったい何が、これらの方程式に火を吹き入れ、そしてそれによって記述されるような宇宙を作ったのか?』

私は世界の物理や数学がなぜ働くかの根底に、真理があると考えている。「無は無である」ことが数学であり物理法則であり、世界に実効力を持っている実証例だ。説明すると、「無は無である」ために、世界は「無」か「有」のどちらかであるしかない。

世界が「有」ならば、すべてが「有」でなければならない。
世界が「有」であればそこに「無」が僅かでも混入することは出来ない。
つまり、世界は「有」で完全に満たされた「有」の連続体であると言い換えられる。こういった世界の完全充填性や連続性は数学や物理法則で表現することが出来る(と予想できる)。

例えば、連続性というと数学の微分が連想される。

「無は無である。世界が有であれば、世界は有で充填された有の連続体である。その連続性は数学で書き記すことができる」

つまり、世界が「有」で満たされるという物理法則があるとして、それがなぜ効力を発揮しているかというと、真理によって、そうなるしかないからだ。くどい表現をすれば、「無は無である」ということは自明で拒絶することをできないため、「無は無である」ことが世界に引き起こす数学や物理現象は止めることが出来ない。

つまり、あらゆる物理法則や数学の背後にこういった自明の真理があるため、世界はこのように物理法則が自動的に発動していると予想する。

これまでの説明を踏まえ、ずぼらに世界を説明すると次のようになる。
「世界はそうなっているから、そうなっている。そうなっているから物理も数学もそうなっている」

酷い文だが、これまで考察したことでそれが言わんとする背景を把握し、意味不明だと絶望することはないのではなかろうか。

まとめ

・「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」
→具体的な存在について言及を避けるなら「無は無であるという真理は存在する」
→具体的な存在について積極的に述べるなら「あるとは、否定されず残った事象である。否定できないものは、すなわち、ある。なぜ、否定できないのかと問われれば、それが世界にとって自明で、そうなるしかないから」という仮説を提案する。

・「なぜ世界はこのようになっているのか」
→同一律が存在する。同一律は、世界がとりうる状態を制限しており、世界がとれる状態は限られている。
例)「無は無である。ゆえに、無を含んだ世界は存在できない。世界が有るならば、無が無い世界しか実現できないようになっている」

・物理法則や数学が、なぜこの世界で効力を発揮しているのか
→物理法則や数学の根底に否定できない真理があるから。否定することのできない真理は効力を発揮するしかない。
例)「無は無である。ゆえに、世界が有るならば、世界は有で完全充填された連続体でなければならない。完全充填された連続体というのは数学や物理で書き記すことが出来る(と予想される)」

〇感想
表現できたことに感謝します。背負っていたものがなくなり、身が軽くなった心地です。

読んでくださる方がいらっしゃれば、筆者のこの上ない喜びでございます。
ありがとうございました。
2024/6/11 ほしのりふみ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?