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理解のある彼くんがいなくても

はじめに


以前からTwitterでは生きづらさを抱えた女性が精神疾患や仕事での挫折などの経験を乗り越えて今はなんとか楽しく暮らしています、というタイプの自伝漫画が数多く出回っている。
TLに流れてくるそれらの漫画に目を通してみると必ずと言っていいほど出てくる存在がある。
それは「理解のある彼くん」だ。
理解のある彼くんに出会うことにより、彼女たちは精神的、経済的に救われ、やがて自分なりの生き方を見つけて生きる気力を取り戻していく。
そして理解ある彼くんと結婚し、出産、今は新たな家族に囲まれ幸せです、という結末を迎える漫画も多い。
めでたしめでたし、と言いたいところだがちょっと待ってほしい。
理解ある彼くん、というのは使用すれば全ての問題が一気に解決する魔法のカードであり、遊戯王でいうところの禁止カードに値するほどのチート能力を所持している。
こんなチートカードは殆どの人の人生にそうそう現れるものではない。SSRどころか、UR級のレアカード中のレアカードだ。
スーパーチート能力を持ったレアカードを引いたので人生の問題は全て解決しました、と言われても殆どの人にとっては何の参考にもならない。
生きづらさを抱え、人生のレールからは外れながらもなんとか様々なことに折り合いをつけながらありついた仕事で糊口をしのぎ、毎日懸命に生きている人達の方が世の中には多いのだが、そのような人達は自伝漫画を描いたりする時間の余裕も気持ちの余裕もない場合が多い。
私は理解のある彼くんが全てを救う自伝漫画の存在自体が悪いのではなく、それらの漫画を読んだ生きづらさを抱えた女性が理解がある彼くんがいなければ生きづらさに苦しみ困窮している人生に救いはないのではないか、と考えてしまう可能性があることがよくないと考えている。
実際理解がある彼くんがいなくても、人生なんとかなったよ、という人は多いはずなのだ。
そこで、金もねえ、学歴もねえ、太い実家もねえ、理解ある彼くんももちろんいない、人生正直詰んでない…?と絶望していた私が行政の社会保障制度などを使いどうにかこうにか人生を立て直しギリギリ食べていけるようになるまでの過程を書き、なんだ、理解ある彼くんがいなくても人生なんとかなるじゃん、と思ってもらえたらいいなと筆を取ることにした。
最初に断っておくと、このnoteには理解ある彼くんは出て来ないが、私は運はよかったと思っているし周りの人達には恵まれていたと思う。
太い実家ではなかったが実家もあるし、家族も健在だし家族仲も悪くないし、多少色々と問題があったりはしても両親は毒親ではないし虐待等も受けず愛情を注いで育ててもらい感謝している。
自分の努力でここまで辿りついた!と自己責任論を展開するような気も毛頭ない。
自己責任論はクソだと思っているし、人生自己責任では手に負えないことが多過ぎる。
このnoteではスーパーチートなURカードを引かなくても、使えるSRカードをコツコツ育成したり無料配布のカードを上手く使えば戦える局面もあるよ、的な内容を書くことができればと思っている。

お金もない、学歴もない

Twitter上で表立って公表したことはないが、私は高卒である。
大学全入時代の今どき高卒だなんて、とか、奨学金を借りれば大学に行けるんだから大学に行かなかったのは甘えとか、色々な声が聞こえてきそうだ。
私だって大学に行きたかったが、行くことがかなわなかった。
理由は単純明快、お金がなかった。
奨学金は大学に入学すれば借りることができるが、大学に入学するには入学金が必要だ。
入学金を借り入れるための奨学金も存在するが、それには保障人が必要だった。
私の両親は保証人になれなかった。何故なら信用情報が傷ついていたから。いわゆるブラックリストというやつである。
私の高校卒業の付近から、実家の財政状況は急速に悪化した。正確にはもっと前から悪化していたのだが、それは私達子供たちには知らされていなかった。
実家の困窮を知ったのは、借金が膨れに膨れてついに債務整理に踏み切らなければ家すら失うという状況になってからだった。
実家の財政状況の悪化の原因は、脱サラして祖父と祖母から継いだ農業だった。
農業が失敗し莫大な金額の初期投資の借金だけが残り、赤字の中営農を続ける中でさらに借金は膨らんだ。
弁護士に依頼してなんとか債務整理は成立し家だけは失わずに済んだのだが、車などは全て手放す形になった。
親戚などからの借金もあったが、そちらもとても返せる状況ではなかった。
電気やガスが止まったりもしたし、食い詰めて亡くなった祖母が買ってくれたピアノも売り払った。
そんな状況で私の大学入学金など到底用意できるはずもなく、親は奨学金の保証人にはなれず、親戚からも保証人は断られた。
家庭の経済状況を知るのが遅かったのもあり、高校時代アルバイトで大学資金を用意するようなこともしていなかった。
両親が不器用ながらも懸命に農業をやってきたことも知っていたし、自分の認識不足を恥じたが、周りの同級生たちはごく当たり前に進学していて(一応進学校に通っていたので当然なのだが)自分の状況が酷く惨めに感じた。
私は大学への入学を断念し、無気力で自暴自棄な日々を送った。
ただ、無気力とはいえ実家には全くお金がないので齧る脛もなければニートや引きこもりをやっているような余裕もなく、すぐに働かざるをえなかった。
高校卒業後就職することは考えていなかったため何をしたらいいのか分からずとりあえず近隣のDVDレンタルショップでアルバイトを始めた。
他にもいくつかアルバイトをしながら、10代は終わり、20代に突入していく。
お金を貯めて大学に行くことも考えたが、なかなか貯金は貯まらず、徐々に意欲も失われてただただ日々のアルバイトをこなすだけのフリーターとして生活していた。
勿論このフリーター生活で得たこともたくさんあったのだが、当時の自分は自分の未来のことは何も考えられずにいた。
お約束のように希死念慮にも苛まれ、バイト中に死にたい…死にたい…と自分でも気づかないうちに繰り返し呟いているようなことも多くどう考えてもまともな精神状態ではなかった。
時折体調を崩しアルバイトに行けなくなってしまいバイト先に迷惑をかけることもあった。
高校時代から交際していた男性は希望の大学に順調に進学して大学生活を楽しんでいて、劣等感から彼に相応しい存在ではない、あまりに環境が違い過ぎる、と距離を置いてしまった結果関係は自然消滅してしまった。
自分の現状に恥ずかしさを感じて数少ない友人ともろくに連絡を取らなくなってしまった。
ちなみに、弟は奨学金を借りて大学に進学していてその時の入学金の奨学金の保証人は私がなった。
足りない入学金は私と妹の貯金から出したりもした。
そういった理不尽に思える状況も影響して、当時の私の心はさらに荒れていったのだと思う。

自暴自棄の先へ

そんな無気力で荒んだ日々を送りながらも、このままでは自分の人生はどうなってしまうんだろう?という不安があった。
このままフリーターを続けるわけにもいかない。
何か手に職をつけなければ、と漠然と考えた。
当時私はアルバイトで稼いだお金でPCを買った。ネット回線も自分で契約し、PCを使用できる環境はあった。
買ったPCを使い、趣味についてのWEBサイトを作って公開したりしていた。
PCを触っている時間は楽しかったので、何かPC関連の仕事ができたらいいな、とぼんやりと思っていた。
そんな中、新聞に入っていた求人広告に記載されていたPC教室のインストラクターの求人を見つけ、応募してみることにした。
主にOfficeソフトの操作を教える業務だった。
Officeを実務で使ったことはなく、趣味の二次創作小説でWordを使うことくらいしかしてこなかった私が応募するのは無謀過ぎるように思えたが、面接でのやる気を評価されて、未経験でも採用してもらえることになった。
実際に生徒さんを相手にインストラクターをやる前に、みっちりとOffice操作について研修してくれたのもとてもありがたいことだった。
自暴自棄だった日々に光が宿るように感じた瞬間だった。
ここらへんの時期から、再び友人と連絡を取るようになった。
自暴自棄になって関係性を放り出そうとした私を見捨てないでいてくれた友人には本当に感謝している。

まさに天職!かのように思えたが…

PC教室での勤務は非常に楽しいものだった。
業務の幅は広く、ただテキスト通りにOfficeの操作を教えるだけではなく、テキストを作成したり、テキストのレベルに応じた課題を作成したり、生徒さんが楽しめる企画を発案したり、教室の運営、広告作成、果てはその広告のポスティングまでとにかく教室に関わる業務はなんでもやった。
教室に通う生徒さんの年齢層も幅広く、様々な生き方をしてきた生徒さんと話すうちに、自身の凝り固まっていた価値観が解けていくのも感じた。
充実した日々でまさに天職のように感じていたのだが、PCインストラクターの仕事には大きな問題があった。
とにかく薄給な仕事だったのだ。
それだけで食べていくことは到底できない薄給に耐えかね、多くの若いスタッフが辞めていった。
教室を運営する会社の業績はさらに悪化し、正社員からアルバイトへの降格が行われたり正社員の給料がさらに削減されたりアルバイトのシフトが減らされる事態に発展していき、本当に悲しいことだったが、私はPC教室を退職することを決めた。

某行政機関の臨時職員を経て失業保険のありがたさを知る

PC教室を退職する際に既に次の仕事は決まっていた。某行政機関の臨時職員だった。
市役所や県庁などの行政機関は臨時の契約社員を採用している。
契約は基本的に一年で終了することになっており、更新はされない(※これは私の県のケースだが、何回か更新があるような自治体もあるようだ)
契約が一年後に会社都合で終了することが確定しているということはつまり、契約終了後失業保険をすぐに受給できるということを意味する。
私はこの一年を今後の準備期間と捉えることにし、この求人に応募した。
何故なら、車必須の地方に住んでいながら、私は当時運転免許がなかったからだ。
車がないと生活ができない地域で車の免許がないまま行う就職活動は相当厳しいものになる。(実際いくつかの企業の面接を受けたが、車の免許を持っていないことを理由に落とされたところが多かった)
この一年で仕事をしながら車の免許を取り、契約が終了した後は失業保険を受給しながら本腰を入れて就職活動をすることにしたのだ。
臨時職員の仕事は完全な雑務で、正直面白いものではなかったし、人間関係でしんどい思いをしたり様々な闇を垣間見ることもあったが、行政機関を内側から見ることができた一年は貴重な経験になった。
この期間で無事運転免許を取得することができ、さらにありがたいことにお下がりの中古車をもらうこともできた。
この車は譲り受けた時点で既に走行距離10万kmを優に超えた貫禄の車であったが、車を手放すその時まで大きな故障もせず頑張ってくれた私の相棒だった。(最終的に走行距離は20万kmを超えた)
契約が終了するとすぐにハローワークに行き、失業保険の手続きを進めた。
なんだかんだで常に働き続けていたので失業保険の受給をしたのは初めてだった。
雇用保険のありがたみを噛み締めつつ、就職活動を開始した。

改めて就職活動開始!ハローワークの職員さんにひたすら感謝

希望の就職先はIT企業だったが、就職活動は難航した。
何故IT企業に行きたいと思い始めたかというと、PC教室時代、教室の予約システムの作成や管理までこなしていた社長が予約システムのjavaのソースコードを見せてくれたことがきっかけだった。
私もこんなふうにシステムを組めるようになりたい、と思った。
ただ、当たり前だが完全未経験で何の知識もない私がそう簡単に採用されるはずもなく、私はハローワークの職員さんにIT企業に就職しシステム作りに携わるにはどうしたらいいか相談した。
すると、ハローワークの職員さんが「職業訓練校に行ってみたら?」と提案してくれた。
でも、失業保険の受給期間が終わったら働かないと生活できないので…と言うと、失業保険の受給期間中に職業訓練校に行くことになれば失業保険の受給期間が延長される、つまり、失業保険を受給しながら職業訓練校に通うことができるのだと言う。
この提案が、後の私の進む道を大きく変えてくれる転機となる。
当時親身になって対応してくれたハローワークの職員さんには感謝しかない。
さっそく職員さんと一緒に今受付募集をしている職業訓練校を探してみると、javaのプログラミングのカリキュラムのものがあった。
年に2回しか募集がないjavaのプログラミングの勉強ができるクラスにちょうど応募することが可能な期間だった。
まさに渡りに船、今でも本当に運が良かったと思っている。
応募締切が迫っていたのですぐさま手続きを開始した。
失業保険を受給しながら勉強ができるなんて夢のようだ!と胸を踊らせて応募手続きを進めていると、職業訓練校の申し込みを担当している職員さんから衝撃の事実を告げられる。
「職業訓練校の開始日までに失業保険の受給日があと一日足りません……この状態だと失業保険を受給しながらの職業訓練校への通学はできません」 
一気に天国から地獄へ叩きつけられたような気分だったが、どうにかして失業保険を受給しながら職業訓練校へ通学したかった私は何とかして失業保険の受給期間を延長できないか職員さんに相談してみた。
すると、一つの抜け道があると言う。
失業保険の受給期間は、アルバイトなどでの収入があると、収入があった分の日にち、「先延ばしに」なるのだ。
つまり、受給期間中に何らかの形で収入を得れば、その分の受給日は先延ばしになり、受給の終了を遅らせることができる。
私は職員さんのアドバイスどおり単発アルバイトを行い、無事受給期間の延長をすることができた。
本当にハローワークの就職相談担当の職員さん、職員訓練校の申し込み担当の職員さんには感謝、感謝である。
こういった関わってくれた方々のご好意があって、私はなんとかやってこられたのだなとつくづく思う。
職業訓練校のjavaのクラスの定員は少なく、面接などを行い合格した人だけが入学できるのだが、ハローワークで面接対策などもサポートしてもらい送り出してもらった私はなんとか合格し、職業訓練校に入学することができた。
その年に私は27歳になろうとしていて、ここからの数年で私の生活は一変していくことになる。

職業訓練校への入学、勉強ができるという喜び

職業訓練校に入学した私は本当に久しぶりに「学校で学ぶ」という経験をすることができて、毎日が新鮮でとても楽しかった。
訓練校での勉強は優しいものではなく、シビアな試験もあって試験の成績によっては退校を勧められるようなこともあった。
訓練校の担任の先生がいつも言っていたことがある。
「プログラミングがつらいと思うなら、プログラミングを仕事にするのは辞めた方がいい。これから先つらくなるだけだ。ただし、楽しいと思うなら続けた方がいい」
私はクラスの中でも出来がいい方ではなかったが、幸いにもプログラミングがとても楽しかったし、もっと色々なことができるようになりたいと積極的に学んだ。
訓練校での学習期間は半年で、4ヶ月まではひたすらにプログラミングの勉強、5ヶ月めには企業にインターンのような形で実習に行き実際の業務を経験し、6ヶ月めには就職活動と卒業製作を行う、という形だった。
そのため、学習時間はとてもタイトで、毎日かなりのスピードで授業が進む。
DBの操作から始まりオブジェクト指向の概念やMVCモデルの概念について学び、実際にコードを書いてプログラムを動かし、簡単なWEBアプリを作れるようになるまで学んでいく。
試験も筆記と実技の二つがあり、実技では時間内に指定された内容のアプリケーションを作り、動く状態にしてから提出する。プログラムが動かなかったり、時間内に完成しなかった場合、点数は入らない。
授業内容について行けず辞めてしまうクラスメイトも多かった。
私も授業についていくのに精一杯だったが、分からないことがあると授業の合間や放課後に先生の元に行き、理解できるまで繰り返し質問した。
先生はいつでも質問しにきてほしい、いつでも答えます、と何度でも対応してくれた。
先生に分からないことを質問できる、これが職業訓練校での一番の財産だったのではと思う。
大学に行けず、ずっと渇望していた学校で学びたい、という願いが僅かな時間ではあるが叶えられ、ひりついていた自分の心が少しずつ癒やされていくのも感じた。
職業訓練校での学びの時間は、私にとって本当に大切な時間だったし、大袈裟ではなく救いだった。
職業訓練校で担当してくれた2名の先生には深く感謝している。

企業実習を経て、IT企業へ就職へ

なんとか試験も合格ラインに到達し、企業実習まで漕ぎ着けた私は、地元のとある企業のIT部門に実習に行かせてもらうことになった。
実習では実際に内部向けの評価システムを設計から作らせてもらうことになり、非常に貴重な経験となった。
javaの基礎を勉強しただけの素人が実務を経験する実習の1ヶ月は毎日大変だったし、指定の日数実習に行けなかった場合その時点で単位が足りなくなり訓練校の卒業は不可能になるため、ここまで来たら絶対に訓練校を卒業したい!という一心で毎日頑張っていた。
実習先の企業でも丁寧に指導してもらい、その点も幸運だったと思う。
そして、無事に企業実習も終了し、訓練校での最後の1ヶ月が始まった。
企業実習のレポートを作成して発表したり、卒業製作として各自思い思いのアプリケーションを作ったりした。
私は簡単なネットショップのシステムを作り卒業製作とした。
それもDB設計から先生に相談しながら作っていった。
作り上げた卒業製作を使って、就職活動も開始した。
先生には面接対策や履歴書や業務経歴書の書き方もサポートしてもらった。
いくつかの企業に応募したが、なかなかいい返事はもらえなかった。
企業実習先の企業にも応募していたのだが、社内の人員の関係で一旦採用は保留という形になってしまった。
やっと内定をもらえた会社で、私は3月から勤務を開始することになった。
ところが、無事職業訓練校を卒業し内定先の会社に出勤してみると、思いもよらないことを言われる。
車関係のCADの業務をやってくれないか、と言うのだ。
CADは触ったこともないし、そもそもシステム開発ができると聞いて入社したのに、全く話が違った。
今考えれば営業が自分の入れたい案件に新人をとりあえずねじ込みたかったのだろうな、あるいは社内でスキルについての共有がなかったのだろうな、というのは理解できるのだが、当時の私は激しく動揺し、会社への不信感が増していった。
しかしとにかく失業保険の受給も終わった今働かなくてはならない、せっかく学んできたことを活かせず、やりたいこともできないのは非常に歯がゆく悲しかったが、この会社に在籍しながらまた就職活動をするしかないかもしれない…と悩んでいたとき、企業実習先の会社から電話がかかってきた。
やはり採用させてほしい、との内容だった。
採用の決め手になったのは、書類と共に送っていた卒業製作で作ったネットショップのシステムのソースとDB設計書だった。
とにかくシステム開発がやりたかった私は僅か2週間で内定していた会社を辞め、企業実習先の企業に就職することにした。

東京への転勤、新しい世界

企業実習先の企業に面接に行った際に、「東京への転勤はできる?」と質問され、私は、はい、転勤は可能です、と答えていた。
長年暮らした田舎を出て都内で仕事をしたい、というのはかねてから考えていたことだったのだが、ここに来て大きなチャンスが回ってきた。
しかも都内に転勤した場合、引っ越し費用は会社負担、住む場所も会社名義の借り上げ物件、家賃補助に加えて転勤補助も出るという。
常にお金がなくまともな貯金もなかった私にとって、こんな美味い話はなかった。
入社してしばらくは社内用のシステム開発を行っていたが、入社3ヶ月目にして都内の開発案件に先輩のバーターで参画できることになり、入社早々東京転勤が決まった。
あまりに目まぐるしく状況が変わっていき、環境の変化に自分自身が追いつかないような日々だったのだが、私は東京に転勤し、念願の開発業務の経験を積むことになったのだった。
東京に行ってからも全てが順調には進まず、OJTの先輩には毎日散々に怒られ、この仕事には向いていないと言われたり、体育会系な環境で精神的にも肉体的にも揉まれまくり過酷な業務に心折れかけたりもしたし、未経験で入ってしばらくの間は給料も薄給で家賃補助と転勤補助と残業代でなんとか食いつなぐような状況だった。
それでも以前よりは諸々が好転しているし、なによりやりたいことができていることが私の心の支えとなった
東京の街も刺激になった。
電車に乗ればあらゆる場所に行くことができたし、何より東京はエネルギーに満ちていた。
田舎の閉塞感から抜け出し、自由を感じた。
田舎では行き遅れ、早く結婚して子供を産まないと、女が仕事を頑張ってどうするの、と言われることも多かったが、こちらの環境ではそのようなことは殆ど言われなくなった。
田舎の方が空気は澄んでいるが、私にとっては都会の方が息がしやすいな、と思った。

その会社で数年勤務して開発経験を詰んだ後、諸般の事情から都内の会社に転職し、今に至るという形になる。
この数年で経験を積んだことで給料も上がり、なんとか食うに困らない生活ができるようになった。
家賃を節約したくて横浜に引っ越したが、勤務地は今も都内だ。
今年33歳になり、理解のある彼くんと結婚もしていないし出産もしていないが、まあまあ日々を楽しく暮らしている。
未だに悩み苦しむことはたくさんあるしどうにもならない生きづらさは抱えたままだし、薄氷を踏むような生活で一寸先は闇だが、どうにかこうにか自分の足で立って生きている。
学歴コンプレックスは未だに解消されていないし、学歴がないことで困ることも相変わらず多いので、いずれ大学卒業の資格は得られるように動いていきたいと思っている。
理解のある彼くんや太い実家の存在はなかったが、ここまでやって来られたのはただただ運がよかったという部分はとても大きい。
関わってくれた皆さん、苦しい時仕事の愚痴を聞いてくれた友人各位、お世話になった会社の先輩や同僚、そして家族に感謝したい。
これから先のことは分からないがあまり悲観的にならず、ただがむしゃらにやれることをやっていくだけだなと思っている。
失業保険、職業訓練校、ハローワークでのサポートなど社会保障に多いに助けられたので、社会保障の大切さを身をもって痛感できたことはとてもいい経験だったと思う。
国に支払っている税金は社会保障のためにバンバン使ってほしい。
そしてかつての私のようにお金もなく先が見えなくて苦しんでいる人々が少しでも楽しく希望をもって生活していけるようになることを心から願っている。

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