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54.夫婦の形は人それぞれ

五年前のちょうど今頃、私は病院のベッドに横たわっていた。
ゴールデンウィークを目前にして起きた忘れられない出来事がある。
それは、全身蕁麻疹による入院だ。
今日は5年前のGWを振り返ってみることにする。

私は全身蕁麻疹を患い、GW含む10日間ほど入院した。
点滴に繋がれてベット生活。
バタバタした毎日が急にストップした。

特定の原因は分からず、おそらく疲労とストレスからくるものだった。

育休明けの2年間は、睡眠時間も毎日平均三時間くらい。
ベットに横になれただけで嬉しいと思うほど毎日が本当に多忙だった。

はっきり言って、記憶が曖昧だ。
ただただ、日々を生きるのが精一杯だった。よく無事だったなとも思う。

体が悲鳴をあげていた。

今ここに生きている。
ただただ感謝しかない。

自分では頑張っていたつもりだったが、すべてがうまくいかなくて、空回り。
仕事中に涙が自然とこぼれる日が続き、
「私、いよいよヤバいな。」ってハッとしたことだけは鮮明に覚えている。

退職を決意した日だ。

正規職員の少ない園に復帰したこともあり、たくさんの仕事を任された。
これって、自分の仕事かな?と思う仕事も当時は断れなかった。

できる先生でいたかった。
良い人でいたかった。

ただ、3月まではやり遂げると決めていた。
途中で抜け出すことはしたくなかった。
クラスの子どもたち、保護者、職場の仲間に迷惑をかけたくない。
そんな想いでなんとか毎日職場に向かった。
その意地が、ある意味私を救ってくれたのかもしれない。

毎日仕事に行く。
当時はそれが習慣だった。

自分の中の辛い気持ち、ボーっとする暇をあたえてくれない生活が、私の心を保っていたに違いない。
もし、のんびりした時間があったらネガティブな気持ちばかり膨らみどうなっていたかわからない。

毎日仕事があるってありがたいことでもあった。

職場では、学年主任として学年全体をまとめ、ひっぱっていかないといけない。さらにトップとして他学年まで気を配り連携を保つ。そして園長主任の板挟み。
打ち合わせや準備、係の仕事に追われた。

そんなこんなで自分のクラスの仕事なんて勤務時間内にできず、夜な夜な製作物を家で広げて作っていた。

土曜日は決まって出勤。
平日追いつかないクラスの仕事、会計などに没頭した。
ウサギの掃除当番がある時は、子どもを連れて出勤したっけな。

まだ子どもも小さく、平日は家に帰ってから急いでご飯を食べて一緒にお風呂に入って、寝かしつけてとゆっくり座る時間も本当になかった。

ただ、お風呂につかると、ホッとしてか3秒くらいで睡魔に襲われ、目が閉じてしまう。
ぽちゃんと顔が湯船につき、慌てる私を見て、「ママ、大丈夫?」と一年生の娘によく心配された。

あー懐かしい。

本当に忙しい日々だった。
あー、私、よくやったなぁ。

「私、なんのために働いてるの?」
「こんな毎日がずっと続くの?」
「逃げ出したい。」
「私には無理。」
「もうキャパオーバー」
「仕事、やめたい…」
「助けて〜」

こんな想いを抱いてほぼワンオペしていた。
旦那さんは仕事が忙しく、夜も遅かった。
帰ってからもバタンキュー。

私は夜な夜な仕事。
ただいま、お帰りの挨拶だけで、ゆっくり会話することもなし。

家族の寝息が響く…。

子どもが寝てからは静まり返った家だった。

同じ家にいるが旦那さんとはすれ違い生活。
会話をするのさえも疲れるからいいやと私は想いをどんどん閉ざすようになった。

もっと話したり、手伝ってとお願いしたりすればよかったかもしれないが、会話をする気力さえも失っていた。

「パパも大変だよな。私がやった方が早いか…。」
そんな気持ちから、なんでも1人でこなした。

「言わなくても気付いてよ!」とどこかで相手に期待していたのだけど…。

だからか、無言の圧力や態度が、旦那さんを責めていたのかもしれない。

旦那さんは、「俺いなくてよくね?」と思ったそう。
頼ってほしかったらしい。

そんなん知らんがなー‼︎(笑)

仕事と言いつつ、仕事じゃなくても帰るのがどんどん遅くなっていった。

帰りたくなるような家じゃなかったから。

家に帰っても、癒し空間なんてどこにもなかっただろう。

帰っても、おかえり〜と迎えてくれるわけでもなく、ダイニングに仕事を広げながら力尽きて寝ている妻…。

晩酌なんてしたことなかった。
ゆっくりおしゃべりするのが夢だった。

え?
この冷めきった夫婦がよく今も続いてるなぁって?

それなんです。

人生わからないものですよね。

もうこのお方とは一緒に生きていけないかもと何度考えたことか。

私のなかでお別れもありかなという考えが大きく膨らみかけていた。

そして職場の送迎会も終わった次の日、
まさかの全身蕁麻疹におそわれたのだ。

私のそのお別れの選択は、間違っているよと言われているかのようだった。

生きるか死ぬかの時、
「助けて〜旦那さん」と思う私がいた。
そこはスローモーションになりながらもはっきりと覚えている。

私、旦那さんに助けてもらいたいんだ…。

私は本当の自分の気持ちに、病気を通して知ることとなった。

その日以降、考えも180度変わった。

自分の素直な気持ちでこれからは生きていきたいと思った。

そして、自分の機嫌というのは、旦那さん始め、誰かがよくしてくれるのではなく、自分でとればいいんだ。
自分でとるものなんだ!と気付きました。

いろいろなことを相手に期待する自分。
頑張るのは自分勝手で、その頑張りがいつしか見返りを求めてしまうこと。
すべて自分が正しいと思っていること。
一般的にとか、普通さとか、私の価値観を押し付けていたこと。
自分で自分を苦しめていること。
自分に優しくできないところ。
感謝がたりないところ。
病気のおかげで、知りたくない、受け入れたくない自分ばかり知ることとなる。

私は何をそんなに頑張っていたのだろう…誰に認めてもらいたいのだろう…
私が今1番したいことはなんだろう…

病院のベッドの上で考え続けた。

どれだけの涙を流したことか。

究極の、生きているだけでありがたいということに辿り着く。

帰るおうちがあること。
家族がいること。

ただそれだけで幸せだった。

お見舞いに来てくれる家族に込み上げる気持ちをおさえるのが辛かった。

【私は、本当は家族との時間を大切にしたいんだ。】

公務員やめたらもったいないからとたくさんのまわりの人に言われ、流されてきた自分。

しかし、私の気持ちは何かひっかかるものがあった。

私は家族との時間を大切にしたいと言いきればよかった。

自分の人生だから、自分で決めて良い。

私は不器用だから、仕事しながらの育児はきつい。

ただのおかあさんになりたい。

いつしか自分の気持ちより、人に合わせた方が揉め事もなく、平和だな、楽だなと感じる自分がいた。

それでもやっぱり、他人軸ではおもしろくない。

幸せは自分で掴むもの。
他人軸では幸せはやってこない。

自分がどう思うか。
自分の受け止め方、思い方次第でどんなことでもプラスになる。

自分の人生なのに、旦那さんが幸せにしてくれるものだと思い込んでいた。

恩師に「結婚しても、旦那には旦那の人生がある。自分の所有物にしてはいけない。旦那はあくまでも他人であることを忘れてはいけない。」この言葉がやっと腑に落ちた。

自分の気持ちを大切にしつつも、旦那さんの想いまでも無理に自分と同じにしなくてもいいんだと肩の荷がおりた。

相手のご機嫌ばかりとるのはやめた。

お互いが良い夫婦であろうとするのをやめた。

自分の気持ちをしまうのをやめて、口にだすようにした。

相手がどう思うかはさておき、自分の思うままに生きることにした。

すると、歯車が少しずつ戻り出した。

お互いを責めまくる夫婦だったけど、いつのまにやら…まだ一緒にいる。

私たち夫婦の形でいい。
家族が大切という気持ちは一緒だ。
ただそれだけで笑顔でいられる。

子どもたちに親にしていただけたことを噛み締めながら、私たち夫婦は家族の心地良さを求めて前に進んでいる。

子育てはあっという間におわる。

大切なものを手放さなくて良かった。
今はそう思う。
病気のおかげで知ることができたこの想い。今はありがたい経験だ。

人生何があるか分からない。
急にまさかの坂が、現れるかもしれない。でも、何か起きた時には自分を振り返る良い機会かもしれない。

慌てず、目の前の気持ち、自分の本当の気持ちに耳を傾けてみよう。

きっと抜け出せる光はある。

来年、5年後のGWはどんな自分になっているのか楽しみだ。

私らしく前に進みたい。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


五年前にスタエフをやるなんて思いもしませんでしたが、今は自分の気持ちを吐き出す場として、毎日更新しています。
良かったら遊びにきてください🎶

ステキなGWを〜‼︎

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