おかあちゃん園長

🌱 保育園の園長/保育士歴18年目 4児の母(2歳児、年中、小4、小6) 【アート×自…

おかあちゃん園長

🌱 保育園の園長/保育士歴18年目 4児の母(2歳児、年中、小4、小6) 【アート×自然】と【センス・オブ・ワンダー】をテーマに子育てや保育のヒントを発信しています📣 Instagramより、育児相談・保育相談も受け付けています✉️

最近の記事

<ファンタジーの世界>

"ファンタジーの世界” それは こどもたちが 見えない“何か”を 感じる時間 目に見えない"何か" ちょっと不思議で ちょっと魅力的で ちょっと愉快で ちょっと恐ろしいものの存在 ドキドキしたり ハラハラしたり こどもたちは今 ファンタジーの世界と リアル(現実)の世界との【間】に 生きているのかもしれません わたしたち大人にとっては たいしたことのない もの(こと)であっても 笑ったり 怒ったり 泣いたり こどもたちは いつだって一生懸命です そうやって

    • <あめふりのたからもの>

      あめふりだからこそ、気づくこと あめふりだからこそ、見えるもの あめふりだからこそ、大切にしたいこと 大人にとっては、少し憂鬱な雨も こどもたちにとっては少し違うようです 大好きな長靴を履けることが 嬉しくてたまらない子 大きな水たまりを見つけては チョンと足の先をつけている子 雨が降るとお母さんに 抱っこしてもらって帰れることを知っている子 …そんなこどもたちの嬉しそうな顔を見ると 雨の日も悪くないと思えます つい、大人の価値観でマイナスに捉えてしまいそうな

      • <“自然”が先生 体験こそ学び>

        広大な自然がなくても 学びとなる体験はいくらでもある 「園庭がないから」 「駅前だから」 「知識がないから」 と言い訳するのはあとにして まずはできることから そこにあるものから 始めてみませんか? こどもたちが 自然の中で経験することを 見守りながら 「フシギだな」 「おもしろいな」 と感じるこどもたち 一人ひとりの気持ちに 丁寧に共感することを 大切に取り組んでいます 園庭のない保育園だからこそ 室内でも自然を感じられるような工夫や テラス・散歩先での 自然

        • <子どもの姿は十人十色>

          いろいろなものに興味を持ち、何でもすぐに挑戦してみる子 じっと周りの様子を見ながら、自分が興味のあるものを探す子 保育者やお友だちのしていることに興味を持ち、真似してやってみようとする子 毎日のように、気に入った玩具で繰り返し何度もあそぶ子 本当に、いろいろな子がいます 誰1人として 、【おんなじ子】はいなくて… 保育者として、そのこどもたちの一つひとつのあそびが “平等”に認められ 守られることの大切さを感じています こどもたちの 「やってみたい!」という気持

        <ファンタジーの世界>

          <自分のことを好きでいられる人に>

          「自分のこどもたちに、こんなふうに育って欲しい、ということはありますか?」 と質問をいただきました これは、我が子だけでなく、園のこどもたちもそうですが… 【自分のことが大好きな子になって欲しい】 と思っています 自分自身が 「あ〜ここってダメだな」 と思うところも含めて 【そんな自分も好き】 であってほしい だからこそ わたしから【大好き】を たくさん渡したいと思っています 失敗して泣いていても 嫌になって怒っていても 「それでも、あなたが大好きだよ」 と、たく

          <自分のことを好きでいられる人に>

          <こどもの前では誰もがみんな>

          子育てでも、保育でも どんなに偉くて肩書きがあっても こどもの前では 【ただ】の “お母さん”だったり “お父さん”だったり “先生”だったりする むしろ、その社会的な役割すらも飛び越えて 【ただのひと】 なのかもしれない こどもたちには 見栄や嘘、ごまかしは通用しない だからこそ、伝える側の大人が どれだけ未熟だろうと 不器用だろうと 本当に伝えたい気持ちや 大切なことはきちんと伝わるのでしょう こどもの前では誰もがみんな その人の持つ“本質”のようなものが 浮き

          <こどもの前では誰もがみんな>

          <“手を抜く”罪悪感>

          以前、インスタライブで 「子育てや育児、上手な手の抜き方があったら教えてほしい」 という質問がありました ライブの中でもお答えしましたが “基本的に全部手を抜いてます” …と言うと語弊がありますね(笑) 人は、きっと 【手を抜いている】 と思うと罪悪感が生まれてしまう生き物のような気がします だから 【わたしは“これ”を選んでいる】 と思うようにしています どうしても疲れて 時間がなくて 夕飯を惣菜で済ませたとしても… バタバタと夕飯を作って 我が子を待たせたり

          <“手を抜く”罪悪感>

          <挑戦できる環境>

          自園では、こどもたちの 「やってみたい!」 という気持ちにつながるような環境設定の中で こども自身が自分で選び 自分の力で挑戦し さまざまな経験をしながら いろいろなものを獲得していく “過程”を大切にしています こどもたちは自分で考えたり 行動したりしたことが うまくいかなかったり つまずいたりというような “失敗”を繰り返しながら 大人には見えない【小さなステップ】を踏んでいます 「あぶないから」 「まだ無理だから」 となんでも制止してしまうのではなく こど

          <挑戦できる環境>

          <自然あそびを考える>

          自然あそびの持つ魅力のひとつ 【こどもたちが身近な自然の中で  様々な出会いを通して  自ら育っていくこと】 そう考えたとき 自園では、地域の材(財)をまだまだ活かしきれていない テラスも、もっと有効的に使えるはず 園庭はないけど 駅前だけど 0〜2歳だけど ここにだって【自然あそび】はある むしろ、このちいさなひとたちこそ 【自然あそび】が必要なんじゃないかという想いは 園長になると決めたときから変わりません リスクマネジメント 事故予防 安全管理… 誤飲 誤

          <自然あそびを考える>

          <こどもの目線>

          公園で、おもむろに横たわる我が子たち 👩👨「あ〜そんなことしないで…」 って言わずに、同じ目線になってみたら 空が思ったよりもずっと高いこと 今日の空の青さ 冬の地面のあたたかさ 土は思ったよりもやわらかいこと 芝生がチクチクくすぐったいこと わたしたちは【知らなかった】んじゃない ただ単純に【忘れていた】ことに気づく ちいさなころには“当たり前”だったことが 今はこんなにも遠かったことを知る こどもの目線になってみたら “なんでもない今日”は “最高に楽しかっ

          <こどもの目線>

          <いつでもそこにあること>

          “自然”や“アート”は 【特別な何か】 ではなくて 当たり前の日常の中 いつでも身近にあることに意味があると思っています いつでも どこにでもあって 感じることも 触れることも 自由にできる 当たり前にあるからこそ、安心して関われる いつでもそこにあるから、ちょっとした変化にも気づく “保育者”としての立ち位置も こどもたちにとって、そんなふうでありたい きっと 今までも当たり前に“そこ”にあったけれど 気づかなかったものがたくさんあって 意識して見るだけで 昨日

          <いつでもそこにあること>

          <見て触れて関わって>

          【ネイチャーボトル】のご紹介 散歩先やテラスでこどもたちが拾ってきた 木の実 鳥の羽根 種 などなど… どれもこどもたちにとっては魅力的な“たからもの” でも、以前は職員から ・誤飲の心配 ・衛生面 から、“危険”と認識されることが多かったんです でも! こどもたちの発見を一緒に喜んだり、継続して楽しんだりするためにどうしたらいいのか… と考えました 0〜2歳児のこどもたちが、“自分で拾ってきたもの”を より身近に感じ、安心して関われるように そんな願いを込めて…

          <見て触れて関わって>

          <自然の中では全てがアート>

          こどもたちと暮らしていく中で “最大のヒント”だなぁと思うことがあります 【アート】ってなんだろう? ※ここで言う【アート】は、一般的なアート (いわゆる芸術や美術)とは 持つ意味合いが違いますが… ここでは <アート=それを見る人・触れる人に対して なんらかの“影響”を与えるもの> と考えてみてほしいと思います そう考えると、自然の中で触れ合う全てのものが 【アート】だと思いませんか? 何も難しい知識や高度な技術は必要ありません もうすでに目の前にあるのですから..

          <自然の中では全てがアート>

          <こどもの【気持ち】を決めつけない>

          こどもは自分の感じている【気持ち】の 「名前」をまだ知りません そばにいる大人が、その気持ちを先取りして、決めつけて “この気持ちは◯◯だ” と「名前」をつけることは、こどもが自分の【気持ち】と向き合うチャンスを 奪うことになるのかもしれません (これはなんだろう?) (なんだか、気になるな…) (もういっかい、さわってみようかな) こどもは、まだ「名前」のないその【気持ち】を確かめるように 持っているもの(五感や身体、思考や行動)を使いながら その【気持ち】に触

          <こどもの【気持ち】を決めつけない>

          <結果や成果は大人からは求めない>

          大人のわたしたち、こどもの行為(あそび) に <結果・成果>を求めていませんか 大切なものは、どちらかと言えば“過程” であり もっと言えば“こどもの中”にしかありません この子は、やり切ったんだろうか この子は、満足しているんだろうか この子は、悔しがっているのだろうか この子は、楽しんでいるのだろうか こども一人ひとりの中に“気持ち”があって それは、周りの大人はその表情や態度から 想像することしかできません 少なくとも、こどもの外から求めるものでは

          <結果や成果は大人からは求めない>

          <手段や方法は1つだけではない>

          何かをしようと思う時、その<手段・方法>は1つではありません どんなやり方でも、やりやすさも、その子が選ぶ 効率が良いとか悪いとか 無駄がないとか多いとか… ※もちろん、“生命に危険が及ぶ可能性”があるものについては  ストップをかけたり、一緒に考えたほうがいいこともあるとは思います でも、“こうあるべき・ねばならない” そんな固定概念を取り払って その子なりのやり方を認めてみませんか わたしたちに見えている【ゴールへの道】は、その子の道とは限りません もしかしたら

          <手段や方法は1つだけではない>