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魂は愛を目指している

「私たちはなぜ生きるのか?」のところで、私たちの人生の目的、すなわち魂の目的は、体験をすることにあると書きました。
そして「魂は課題を持って生まれてくる」では、それぞれの魂にそれぞれの課題があると書きました。
それは、「存在のすべて」である神をすべて体験しようとすれば、非常に多くの魂が必要で、それぞれがそれぞれに自分らしさを体験する必要があるからです。

では、私たちはそういう体験をして、いったいどこへ行こうとしているのでしょうか?

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魂が目指しているもの

私が推奨する「神との対話」に、魂が目指しているものの答えがあります。

「魂が追求しているのは--想像しうるかぎりの最高の愛の感情だ。これが魂の欲求、目的だ。魂は感じようとしている。愛を知ろうとしているのではなく、感じようとしている。最高の感情は「すべてである」存在と合体する経験だ。それは真実へとかえることであり、魂が切望しているその真実が、完璧な愛である。」(p.113)

つまり私たちは、「最高の愛の感情」を感じるための経験を求めているのです。
それは、「存在のすべて」である神との合体(一体化)だと言います。

そうであるなら、さっさとそれをやってしまえば良さそうなものですが、そうはいきません。
対極を体験しなければ、それそのものも存在しないからです。
つまり、愛でないものを体験しなければ、愛もまた体験できないというわけです。
そこで、こういうふうに言います。

「完璧な愛とは色のなかの完璧な白のようなものだ。多くのひとは白とは色がないことだと考えているが、そうではない。あらゆる色を含んでいるのが白だ。白は存在するあらゆる色が合体したものだ。だから、愛とは感情--憎しみ、怒り、情欲、嫉妬、羨望など--がないことではなく、あらゆる感情の総和だ。あらゆるものの集合、すべてである。だから、魂が完璧な愛を経験するには、「人間のあらゆる感情」を経験しなければならない。」(p.113)

絵の具などの色彩は、すべての色を混ぜ合わせると黒になります。
しかし光の場合は、すべての色を混ぜ合わせると白(透明)になるのです。
プリズムの実験を覚えておられるでしょう。太陽光を分解すると、7色に分かれます。逆に言えば、すべての色が合わさったのが太陽光なのです。

このたとえにあるように、私たちは、ありとあらゆる感情を感じること、つまりありとあらゆる経験をすることによって、完璧な愛へと近づきます。
このことが理解できれば、愛とは程遠い経験をしている人を、批判する気にはならないはずです。

「自分が理解できないことに、共感できるだろうか。自分が経験しなかったことについて、他人を許せるだろうか?そう考えれば、魂の旅がどんなに単純で、しかもすごいものかがわかるだろう。そこでようやく、魂が何をめざしているかが理解できるはずだ。」(p.114)

自分が経験したからこそ、「わかるよ、そういう気持ち。」と言えるのです。
「なんでそんなことするの!?信じられない!」と言っているうちは、まだまだ経験が足りないのです。
そして、すべての非道(と思うもの)に対して「わかるよ、それも」と言えるようになった時、私たちは真の愛に到達するのです。

「あなたの魂は最高の感情を求めている。完璧な愛を体験したい、完璧な愛でありたいと願っている。魂は完璧な愛であり、自分がそうであることを知っている。だが、「知っている以上のこと」を求めている。完璧な愛を体験している魂になりたがっている。もちろん、あなたがたは神になりたがっている!ほかに、何をめざしているというのか?」(p.116)

私たちが目指しているのは、神そのものです。
そもそも、神しか存在しないのであり、神が自分自身を体験して知りたいと思ったことで、こういう相対的な社会が生まれたのです。
ありとあらゆることを体験することの他に、目的があるはずがありません。

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神は悪を愛する

私たちはみな、神に帰る旅をしています。
旅の過程では、無限である神のあらゆる要素を体験しようとします。
「あらゆる要素」ですから、そこには、私たちが「非道」だと思われるものも含まれます。

「悪と言うが、それはあなたがたがそう呼ぶだけだ。だが、その悪だってわたしは愛する。悪と呼ぶものを通じて、あなたがたは善を知り、神の業を行うことができるからだ。わたしは寒さも暑さも愛している。右も左も愛している。すべては相対的である。すべては、あるものの一部である。私は「善」を愛しているのと同じように、「悪」を愛している。このことが理解できれば、あなたがたは神を理解できるだろう。」(p.87)

神は「善」だという決めつけは間違っています。
神は「存在のすべて」ですから、少なくともこの世に存在しているものすべての総和が神です。
なぜなら、体験をするために創られた相対的な世界では、「高い」が存在するためには「低い」が存在する必要があるからです。
同様に「善い」の存在は、「悪い」によって支えられているのです。

「神は何でも「受け入れる」。存在するものを神が受け入れないはずはない。拒否するというのは、その存在を否定することだ。何かがいけないと言うのは、それがわたしの一部ではないと言うことである。そんなことはありえない。だが、あなたがたは自分の信念をもち、自分の価値観に従いなさい。」(p.87)

神は「存在のすべて」ですから、何かを拒否するということはありません。
しかし個別化した私たちの目的は、膨大な神というメニューの中から、体験したい何かを選び、それを経験することです。
したがって、私たちは自分たちの価値観にしたがい、何かを「善い」と言い、何かを「悪い」としていいのです。

「善悪についてのあなたがたの考え、それもあなたがたをかたちづくり、創造する思考のひとつだ。その思考を変える理由はひとつしかない。あなたがたが、「そう考えている自分」では幸福ではないときだけだ。あなたが幸福かどうか知っているのは、あなただけである。あなただけが、自分の人生について--「これはわたしの創造物である。わたしはとても満足している」と言うことができる。」(p.88)

前にもあったように、価値観は相対的です。絶対的な善悪など存在しません。
事実、かつては善だったものが、現代では悪とされることが、普通にあるではありませんか。
価値観は変わってよいのです。いえ、むしろ変わるべきです。なぜなら、変わるということは進化することですから。より神に近づくということなのです。

ですから、私たちは私たちの信念に基づいて、自分の価値観を変えていけばよいのです。
他人がどんな価値観でいるかは、他人に任せておけばよい。他人には他人の使命があるのですから。

「あなたがたが真実だと思っている価値判断のなかで、体験にもとづいたものはごくわずかしかない。あなたがたは体験するためにこの世に生まれ、その体験を通じて自分を創りあげるはずだった。ところが、他人の体験から自分を創りあげている。罪というものがるとすれば、これがそうだろう。他人の体験で自分を創りあげてしまうことだ。それが、あなたがたが犯してきた「罪」である。ひとりひとりが犯してきた罪だ。」(p.88 - 89)

誰かから「こうしなさい」「こうすべきではない」と言われたから、それにしたがう。
あるいは、そういう思いを勝手に作って、「常識的に」「一般的に」「普通は」と、他人に合わせることを良しとする。
こういうのが、自らの体験にしたがわない生き方です。

私たちは、自分の体験に基づいて自分の信念を持ち、それによって人生を創造し、その中でまた体験するということを、人生で行おうとしてこの世に生まれてきました。
その目的からすると、盲目的に他人にしたがうことを選択するのは、人生に対する冒涜であり、罪であるとさえ言えるのです。

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批判せずに変える

私たちは、自らの思考で現実を創造しています。
その創造した現実の中で経験をしているのです。
ですから、自分が創造した現実が気に入らないのであれば、それを批判せずに変えよと神は言います。

「だから、世界の悪と呼ぶものを非難してはいけない。それよりも、それのどこを悪と判断すのか、どこを変えたいのかと自問しなさい。外に向かってではなく、内に向かって、「この災厄を前に、いま自分は何を体験したいのだろう。自分のどの部分を引き出したいのか」と問いかけなさい。人生のすべては、あなた自身の創造の道具なのだから。そして、出来事のすべては、自分は何者なのかを決定し、その自分になる機会を与えるために存在しているのだから。これがすべての魂にとっての真実だ。宇宙には創造者がいるだけで被害者はいない。」(p.51)

自分が創造しているのであれば、自分を傷つけるものは自分でしかありません。
一見それが、どこかの誰かの仕業のように思えても、そうさせたのは自分だということです。

もちろんそうは言われても、つらい状況に遭遇することもあるでしょう。
しかし、そこで他の何かや誰かを悪者に仕立てたとしても、何も解決はしません。
それを受け入れることでしか、私たちは解決できないのです。

「だから、闇のなかの光になりなさい。そして、闇のなかにいることを呪ってはいけない。また、まわりが自分と違うものばかりでも、自分が何者であるかを忘れてはいけない。そして創造物をほめたたえなさい。たとえ、それを変えたいと思っても。最も大きな試練が、最も偉大な勝利になる可能性がある。あなたが生み出す体験は、自分が何者であるか、そして何者になりたいかという宣言なのだから。」(p.53 - 54)

私たちは、愛(神)に帰ろうとする者です。
神とは、完璧な愛なのですから。
そして、完璧な愛とは、すべてを包含するものです。

私たちの本質は神であると言いました。
つまり、私たちは本来、愛そのものです。
そのことを知っているから、私たちは愛を体験しようとしています。

魂は、その本当の愛を体験させるために、あらゆる状況へと私たちを導いています。
その中には、過酷とも思えるものもあるでしょう。
しかし、その過酷さを乗り越えた先に感動があります。
感動は、魂が「これが私だ!」と叫んでいる魂の声なのです。

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レイキ施術者としての生き方

これが、「五戒」を守って生きようとするレイキ施術者の生き方です。

「怒るな」と言われたではありませんか?
他者を批判するのではなく、そこに真実を見るのです。

「心配するな」と言われたではありませんか?
たとえどのような不安があっても、これが自分が進む道だと信じたななら、堂々と進めばよいのです。

「感謝して」と言われたではありませんか?
すべては完璧です。神である私たちが、神を体験しようとして、その最高の舞台を創ったのです。

「業を励め」と言われたではありませんか?
他人がどうしようと関係なく、自分は自分の人生を真摯に歩むことです。

「人に親切に」と言われたではありませんか?
他人には他人の正義があり、そうすべき理由があります。それを受け入れ、「わかるよ、それも」と言ってあげることです。

レイキ施術者としての生き方を実践すれば、自ずと神に至ります。
ですから、昨日それができなかったとしても、今日また歩みだせばいいのです。

その道を、臼井甕男(うすい・みかお)氏は示してくださったのです。



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