見出し画像

自殺のリハーサル

 死ぬのにタイミングなんて別に必要ない。ただもう時期来るであろう列車に飛び込めばいいだけだ。別に死ぬ準備なんて必要ないんだ。遺書を書こうが書くまいが死んだら何もかも終わりなんだから。いくらカッコ悪かろうが、なんだろうがただ飛び込めば列車は簡単に人を殺してくれるのだから。

 今僕は駅のホームでスーツを着て列車を待っている。確実に最後になるだろう太陽はこのあまりに陰惨な門出を祝うかのように燦々と輝いていた。この駅は都心では珍しくホームドアがない。きっと今まで自殺者がいなかったのだろう。今日僕がその自殺者となる。自殺に覚悟などいらない。ただ飛び込む行動力だけあればいいんだ。人だらけの駅でとりあえず最後尾に並び、そうして電車を見送って僕は点字ブロックの後ろに立った。ホームの下を見れば黒ずんだ線路が鈍い光を放っている。きっとあと数分後には僕の肉と鮮血が線路を汚すだろう。別に未練なんかはない。不毛という言葉がピッタリの人生のピリオドを自殺で締めるなんで惨めすぎるけど、生きていたらそれ以上に惨めなんだからどうでもいい。

 電車がもう時期来るというアナウンスが流れた。そのアナウンスを聞いて僕は片方の足を点字ブロックの前に出した。これで全て終わりだ。電車が音を立てて近づいてくる。僕はもう一つの足を前に出そうとした。だけどその時突然足がすくんでしまった。あれほど深く思いを固めたのにいざとなったら恐怖で足がすくむなんてなんてバカな話だろう。僕は情けなくて泣きたくなった。これじゃ自殺は無理だ。諦めて次の電車を待とうと脇に抜けようとした瞬間、いつの間にか目の前に着いていた電車のドアが開いて中から降客が大勢電車から出てきた。僕は慌ててその人並みから出ようとしたが、周りは降客と乗客で埋め尽くされてもう自分の居場所さえわからなくなってしまった。

 我に返ったのは電車の中だった。僕は滑稽な事にいつものように吊り革を握って乗客席の前に立っていた。僕の体調が悪そうに見えたのか目の前に座っていた老年の女性が席を勧めてくれた。僕は女性に向かって丁重に断って電車のガラスからうんざりするほど見たありきたりな日常の風景を見て、心の中でさっきまで死のうと思っていたのにいつの間にか勤め人に戻っている自分のバカバカしさを自嘲した。全く惨め極まりないほどの平凡な結末だった。もう電車に乗ったのならこのまま会社に行くしかないのだろう。そしてあり得ない希望と変化を夢見ながら今日一日を過ごすのだろう。平凡だ、実に平凡だ。だがしかし人生とはそういうものかも知れない。人は夢が叶う事を願い、そして僕はひたすら死ぬことを願っている。死ぬことは夢が叶うよりずっと楽に思える。だが死ぬことは意外に困難だ。人生のピリオドを自ら打つのは思うよりずっと難しい。どんなにリハーサルを重ねてもいざ本番になるとこうして尻込んでしまうのだ。だがこんな考えは酷くバカげたものだ。夢を叶えようと努力している人と、役立たずのまま自殺しようとしている僕を並べるなんて悍ましいにも程がある。こんなことを考えていると、自殺出来なかった自分の勇気のなさに嫌悪し、いっそこの場でポケットのボールペンで自分の首を突き刺したい衝動に駆られる。だがそんなことをする勇気なんてあるはずもない。結局僕はこれから毎日今日みたいに延々と自殺のリハーサルをしながら一生を過ごすのだろうか。この平凡な日常の中で。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?