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カリスマ指揮者、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を振る!《前編》

 三度でも四度でも言うが、大振拓人は日本の若手最高の指揮者であり、将来は日本どころか世界のクラシック界を背負って立つ人物である。そのフォルテシモな指揮とパフォーマンスは確実にクラシック界に革命を起こし、クラシックを新たな次元にまで高めた。チャイコフスキーの『悲愴』はもう彼のバレエと絶望に満ちたフォルテシモの絶叫なしじゃ聴けないものになったし、またベートーヴェンの第九も彼の髪を振り乱したフォルテシモな熱い祈りと四回転ジャンプなしには聴けないものになった。このようにクラシックのあり方さえ変えてしまった男は二十代にして確実に世界の巨匠への道を歩んでいた。

 しかしどんな世界にも逆張りと言うか素直に大振の偉大さを認めない人間というのがいて、彼らはこんな事を言ったりしていた。曰く『ただフォルテシモって喚いてるだけで巨匠扱いされるんだから指揮者なんて安い仕事だぜ』『大振拓人ってロマン派しか振れないじゃん。あいつのベートーヴェンだって結局はロマン派以降の解釈でしょ?』『大振の振ったバッハの『トッカータとフーガ』はホントにひどかった。バロック音楽を後期ロマン派みたいに振るんだぜ』ああ!何という中傷と誤解であるか!大振はフォルテシモしか出来ないというのは便所の落書きレベルの中傷であるし、ロマン派しかできない、なんでもロマン派みたいに振ってしまうというのは大振拓人を完全に理解していない発言である。大振はむしろロマン派以外の音楽に価値などないと思っている人間で、彼はむしろその価値のない音楽を音楽をロマン派の崇高な高みにまで持ち上げてやっているのだ。彼の演奏した『トッカータとフーガ』は雷の如き激烈な神の啓示であったし、ヘンデルの『水上の音楽』は嵐吹きすさぶ荒れた海上で鳴る轟音であった。フォルテシモにロマンティック。これこそが大振拓人の音楽に対する姿勢であり、そのあまりに過激な振る舞いはアヴァンギャルドとしかいえないものであった。

 次に『大振は重苦しい交響曲や管弦楽曲しか振れない』『なんだか暗いから好きじゃない』というのもあるがこれも完全に大振の音楽活動を知らずイメージだけで語っている典型的な意見である。大振は時たまであるが軽快な曲もちゃんと振っているのである。ロッシーにのオペラの序曲、チャイコフスキーのバレエ音楽『くるみ割り人形』の組曲、運動会には必ず使われるオッフェンバッハの『天国と地獄』大振は親子限定のコンサートでこれらの曲を演奏したが、生来子供好きであった大振は会場の子供たちを喜ばせようと、演奏中にボサボサの髪の下から危険な程目を剥いてニッコリとこれまた舌なめずりするほど危険な笑顔で指揮棒を振りながら子供に向かって駆け寄ったが、子供たちは彼を本気で怖がって一斉に泣いて逃げてしまった。流石の大振もこの出来事に深く傷つきしばらくは立ち直れなかったと聞いている。しかし大振の軽快な曲における指揮は非常に溌剌としたものでありこの子供向けのコンサートで彼は交響曲の時と打って変わって陽気にフォルテシモと何度も叫んでいた。大振のフォルテシモは意外にも汎用性があり何にでも使えるのだ。重苦しい交響曲のクライマックスにフォルテシモ、官能的な曲のクライマックスにフォルテシモ、激しい曲のクライマックスにフォルテシモ、軽快な曲のクライマックスにフォルテシモ、まるで大振はフォルテシモを味の素のように使って曲の旨みを一段階上に引き立てていたのである。

 さて、そんな大振拓人の元に今回またもや大きな仕事が舞い込んだ。今回は今までの大振の仕事の中で一番大きなものである。なんとワーグナーの最高傑作にしてスキャンダラスな楽劇『トリスタンとイゾルデ』の指揮であったのだ。流石の大振もいきなりのこの依頼に興奮して前のめりになって思わずまことかと聞き返した。大振は常々ワーグナーのこの作品をロマンティックの究極とフォルテシモに賞賛しており、自分もいつかこの指揮棒でフォルテシモに指揮したいと思っていた。ここで大振とオペラとの関わりについて少し説明する。大振は今までオペラを一度も振った事がなかったが、それは指揮者の自分が主役になれないオペラを嫌って拒否していたわけではない。逆に自分の情熱的な指揮棒でディーヴァ達を輝かせてやりたいとさえ思っていた。しかし、彼のいるこの日本には自分の理想とするディーヴァはまるでおらず、いるのはもはや牛とも豚とも馬ともつかぬ顕微鏡で確認してやっと生物学的に雌だと確認できる連中ばかりだったので、オペラに対する熱い思いを抱えながらも泣く泣くオペラを指揮することを断念していたのであった。

 しかし今回の楽劇『トリスタンとイゾルデ』のイリーナ・ボロソワとホルスト・シュナイダーというヨーロッパで人気浮上している気鋭の歌手を日本に呼んで主役に据えたものであり、その他キャストも日本で活躍している外国人歌手がメインを占め、我らが日本の顕微鏡で見なければ人間だと識別出来ないような歌手たちはただの端役であったので、大振は俄然乗り気になった。

 イゾルデ役のイリーナ・ボロソワはチェコ出身でドイツを拠点に活動している最近急激に人気が出てきた若手のディーヴァであり、その清澄なソプラノからドスの効いたアルトまで自由自在に出せる歌唱はヨーロッパ=アメリカの各国のマエストロたちに寵愛されていた。彼女はドイツやフランス物のオペラを中心に幅広く出演しているが、ワーグナー作のオペラは今回初めて出演する。彼女はオペラ歌手としては非常にスタイルが良く、時たま広告モデルになる他、ポピュラー歌手としても大活躍していた。ポピュラー歌手として昨年に出したアルバムは、EDMやラップにも挑戦したクラシック歌手の余技としてはかなり意欲的なアルバムで、ヨーロッパではヒットしてゴールドディスクを取っている。

 もう一人のトリスタン役のホルスト・シュナイダーは恰幅の良すぎるビールっ腹の陽気なバイエルン男であり、その腹から出る朗々としたテノールはいかにもオペラ歌手らしい堂々としたものだった。彼はイリーナとは違いワーグナーのオペラによく出演しているが、『トリスタンとイゾルデ』をやるのは彼も今回初めてであった。

 プロモーターから両歌手の宣伝資料を見せられた大振はイゾルデ役のイリーナ・ボロソワの美しさに思わず見惚れてしまった。写真の透き通るような白い肌とプラチナブロンドの典型的な東欧美女は気の強そうな性格を丸出しにしたブルーの瞳で彼を見据えていた。大振は彼女の美貌の顔に東ヨーロッパの苦難の歴史を生き抜いた女の強さを見て、この女は自分のディーヴァに相応しいと思った。大振はそれからトリスタン役のホルスト・シュナイダーの宣伝資料を見たのだが、見た瞬間激怒して資料を丸めて壁に投げつけてしまった。

「なんだこのデブは!こんな奴がイゾルデ役の恋人をやるのか!」

 と、トリスタン役のデブさ加減にブチ切れた大振拓人であったが、しかしそれが自らの指揮でディーヴァであるイリーナ・ボロソワを輝かせてやりたいという願望を萎えさせるはずはなく、トリスタン役のデブは無視してもっぱら彼女のためだけに契約書にサインをしたのであった。


 そうしてすぐに公演への準備が始まり、あっという間に公演の詳細が決まった。今回の公演は本格的なグランドオペラ公演なので東京芸術劇場で行われる事になった。そうして詳細が決まると早速チケットの販売が始まったが、チケットはヨーロッパで人気の新進気鋭のオペラ歌手が客演するという話題性と、何より大振拓人が初めてオペラを振る、しかもワーグナーのトリスタンとイゾルデを振るという事が評判を呼んでチケットはあっという間に売れてしまった。Twitterやインスタでは女性たちのフォルテシモの言葉と共にチケットの当選の報告が相次ぎ、チケットを購入出来なかった女性たちは悔しいと喚いて当選者に突撃して荒らしまくった。

 そんな阿鼻叫喚状態の中、トリスタンとイゾルデ役のご両人が揃って羽田空港に降り立った。大振は諸般リストの時と同じように燕尾服を着て大勢のマスコミを引き連れて二人を待っていた。やがて二人は揃って空港に現れたのだが、二人は大勢の東洋人の中に一人だけ燕尾服を着ている背は高いが彼らからしたら少年にも見える大振拓人を見て思わず吹き出してしまった。「あれが僕らのマエストロかい?まだ子供じゃないか」「なんか可愛いボーイね、どんな指揮をするのかしら」「君、彼に棒の扱い方を教えてあげたらどうだい?」「ホルストやめて。私が下品なジョーク嫌いなの知ってるでしょ?」とまぁ散々大振をバカにしながら大振に近づき挨拶したのだが、大振は実際に見るイリーナの美しさに見惚れてしまいろくに喋る事も出来なかった。

 その翌日空港のホテルで出演者一同による楽劇『トリスタンとイゾルデ』の記者会見が行われたが、今回はヨーロッパで人気のスターを呼んだという事情により会見の席の中央は大振ではなくて主演の二人だった。今回の会見では大振は珍しく大人しくでいつもの大言壮語的な発言を全くしなかった。それどころか自分はこんな素敵なキャストで指揮を振る事が出来て光栄だと妙に殊勝な事まで言った。ホルストはそんな彼をせせら笑い嫌味ったらしく僕らがこの若きマエストロを一からサポートして舞台を成功させてやりますよとフォルテシモに侮蔑的な事を言ったが、それでも大振は怒らず黙っていた。しかし、記者がポピュラー歌手としても活動するイリーナに対してクラシックとポップスの違いはなんですかという当たり障りのないどうでもいい質問をした時、今まで借りてきた猫のように大人しかった大振がいきなり激昂してドイツ語でイリーナを怒鳴りつけたのである。

「ポップス?ポップスだって?お前はポップスなんて低脳児向けのゴミカス音楽をやっているのか!」

 ああ!大振の見た宣伝資料には当然のことながらイリーナのポップス歌手としての経歴が全く書かれていおらず、大振はこの理想のディーヴァがポップス歌手なんて河原乞食みたいな事をしているのを全く知らなかったのだ。この思わぬ大振の一喝にイリーナは固まり、先程まで大振をバカにしていたホルストも驚きのあまり目を剥いて大振を見た。関係者たちはまた大振が荒れるかとヒヤヒヤものだったが、幸い荒れる事はなく、物凄く気まずい雰囲気のままとにかく会見は無事に終える事はできた。だがまたしかしである。その会見の後の晩餐会の席でカメラの前で思いっきり侮辱されたイリーナはその屈辱に耐えきれずとうとうチェコ訛りのドイツ語で大振を怒鳴りつけたのだ。

「あなたあれはなんなのよ!なんの権利があって私をあんなにも侮辱できるのよ!」

「侮辱だって?俺はオペラ歌手のお前がポップスなんてゴミカス音楽をやってクラシックを侮辱しているから怒ったまでのことだ!俺を侮辱しているのはむしろお前の方だ!」

 と大振は自分を怒鳴ってきたイリーナに対してキッパリと中学から高校時代にかけてホームスティ先のベルリンのネオナチっぽいドイツ人から学んだ本場仕込みの完璧なドイツ語で怒鳴り返してやった。

「何が侮辱よ!私はクラシックもポップスも両方好きなのよ!それをやるのがどうしてクラシックへの侮辱にあたるのよ!大体あなたはポップスをゴミカス音楽とかいうけどそれってただのあなたの考えでしかないでしょ?世の中はもっと広いのよ。ポップスだって千差万別で、中にはクラシック以上に芸術的な高みを持っている物だってあるのよ!それを知りもしないで一方的にポップスを中傷するなんて!」

「うるさい黙れ!俺がポップスがゴミカス音楽と言ったらそれは間違いなくゴミカス音楽なんだ!全ての物事の価値を判断し決定するのはこの俺だ!」

「だからそれを他人に押し付けないでって言ってるの!」

「バカめ!俺はお前に価値観を押し付けてるわけじゃなくてそのお前の誤った価値観を正してやってるだけだ!」

 イリーナのあまりに常識的な抗議に大振は無茶苦茶な主観丸出しの事を言ってこれに応じた。二人は互いの主張を一歩も譲らず晩餐会の最後まで罵り合っていたが、関係者はこの二人の罵倒合戦をもしかしたら公演自体が危うくなるかもと思ってヒヤヒヤもので見ていた。

 またまたしかしである。晩餐会の翌日キャストと関係者一同の顔見せに出てきたイリーナ・ボロソワは妙に顔を赤らめて大振拓人の元にしずしずと現れると目を潤ませて昨夜の事を詫び出したのである。

「マエストロごめんなさい。昨夜は興奮しすぎてしまって……」

 対する大振も昨夜とは打って変わって傲慢ないつもの彼からは全く想像も出来ないほど殊勝な態度でイリーナに応じ、言葉短く「こちらこそすまない」と顔を真っ赤にして昨夜の無礼を詫びた。これを見てその場にいたものは誰もが大振とイリーナが一目惚れをした事を勘づいたのだった。

 ああ!それはあまりにもフォルテシモにあからさまであった。大振はイリーナをパーティの終わりまでフォルテシモに人格を全否定するほど罵ってホテルの自室に戻った後、急に胸がキュンとなるのを感じたのであった。自分を罵倒するイリーナのチェコ訛りのドイツ語の息遣いが浮かんできて胸が苦しくなった。ああ!彼女はまさしく東欧の女。その美貌の下にドヴォルザークのあの無骨な農民の顔を隠していた。ああ!大振は今生まれて初めて恋愛感情を覚えた。この自分しか愛せない男が、この愛されるだけでベッドはいつもマグロな男が、遠きヨーロッパの地から日本にやってきた年上の東欧女によってついに愛に目覚めたのだ。

 イリーナもまたこの自分より若い東洋人と激しく言い争う中で自身の確実に間違っている主張をテコでも撤回しないその強靭な精神をまともに受けて昔から愛読していた三島由紀夫の小説に出てくるサムライの姿を思い出した。サムライみたいな顔で子供のくせに生意気ことばかり言って!こんちくしょうと悔しがりながらもいつの間にか大振に惚れてしまっていたのだ。イリーナは大振に謝った後その場にいた者たちに向かってこう宣言した。

「私はマエストロ大振拓人に全てを捧げます。必ずやマエストロがこの舞台を成功に導いてくれるでしょう。ですから皆さんも私と一緒にマエストロ大振に全てを託してください!」

 そのイリーナのフォルテシモな宣言に対して大振もさらにフォルテシモを重ねてこう宣言する。

「僕も指揮者として、ヨーロッパという音楽の天国から降りてきた天使イリーナ・ボロソワのために命を賭けて指揮をするつもりだ。だからみんなイリーナの言う通りこの舞台を成功させるために僕に全てを預けてくれ!」

 ああ!二人はこの時点で自ら上演するオペラトリスタンとイゾルデのように愛の媚薬を飲んでしまったのだ。二人は今、愛の媚薬の快楽が体に広がりゆくのを感じながら未知なる愛の世界へと旅立たんとしていた。


 こうしてオペラの上演に向けて稽古が始まった。大振の稽古はいつも通りフォルテシモな罵倒が飛ぶ凄まじいものだったが、どういうわけかイリーナに対してはありえないぐらい甘かった。ホルストを始めとした出演者がちょっとしたミスをするとすぐ髪を振り乱してやってきて首元に指揮棒突きつけながら今度失敗したら命はないと思えとかとんでもない事をいうのに、イリーナがミスをしても「いいんだよ。天使が失敗することだってある」と真逆のベタ甘な対応をし、イリーナが稽古中に演技が出来ないと泣いた時などドイツ語どころかフランス語で「マシェリ、我が天使よ。君の翼はまだ折れたわけじゃない」とかいつも理不尽に怒鳴られている他の連中が殺してやりたいと思わせるような事を言って励ました。他の連中がイリーナのように励まされようと泣きながら同じことを言っても「ふざけんなこのブス!お前はそんな事言う前にダイエットでもしとけ!」と一喝して黙らせるだけだった。

 大振は愛するイリーナのために最高の舞台を用意しようと猛烈にフォルテシモにフォルテシモを重ねた。イリーナ以外のホルストたち出演者へのありえないぐらいのフォルテシモな罵倒。オーケストラへのこれまたありえないぐらいのフォルテシモな罵倒。彼はオーケストラとの練習にイリーナを呼ぶと彼女の目の前で演奏して感想を聴くのだった。今の彼にとって天使イリーナの反応が全てであった。このディーヴァがちょっとでも怪訝な顔をするとオーケストラの団員をフォルテシモに滅多打ちにしてさらなるフォルテシモな地獄の試練を与えるのだった。

 しかし彼が最高の舞台を作り上げるためには最大の障害をクリアしなければならなかった。それはイゾルデ役を演じるイリーナの相手役のトリスタンを演じるホルストであった。この陽気なドイツの百貫デブはただ歌ってればいいと考えるような脳天気なデブで、稽古が終わると毎夜ビールとウィンナーを齧っているような男だった。大振はこのデブが自堕落な生活を送っているのを苦々しく思い、毎日お前はそれでもトリスタンか!イゾルデを恋人にする騎士か!と罵ったが、ホルストは完全にこの東洋人を舐め腐っており、ヨーロッパで活躍している俺がこんなガキの戯言に付き合ってられるかと言ってふんぞり返っていたが、彼はなんといっても実力のある歌手だし、彼と長年の付き合いのあるイリーナも大振に対してあまり彼に強く当たらないでと懇願していたので、さすがの大振も決定的な事は言わなかった。しかしイリーナは大振の美学に影響されはじめだんだんホルストの存在が厭わしくなって来た。彼女は大振に対してやっぱりホルストのデブさと体臭が我慢できなくなった。昔から嫌だったけど今はもう耐えられないと泣いて懇願しはじめた。それを聞いて大振は我がディーヴァのためになんとかしなければと思いとうとうホルストにダイエット通告を出した。今後ダイエットに成功しなければお前を首にして代わりのトリスタンを呼ぶと言ったのだ。

 この理不尽な通告に怒ったホルストは早速当オペラの総合演出家であり友人でもあるヨハネス・ビューローに抗議した。彼はビューローに向かって自分を選ぶか大振を選ぶか二者択一を迫ったのである。ホルストはヨーロッパで人気の自分とあのお調子に乗り過ぎのジャップの若造のどちらがいいか友人であるあなただったらすぐに分かるでしょうと訴えた。ビューローはいきなり突きつけられた事態にどう対応していいかわからず迷っていたが、そこに大振とイリーナが現れてビューローに対してこちらも今すぐきかん坊のホルストをクビにしろと迫ったのである。大振はビューローに向かって本場仕込の完璧なドイツ語でこう切り出した。

「Herrビューロー。あなたはこの百貫デブのホルスト氏の意見を受け入れる前に冷静にホルスト氏の体格を見て氏が本当に今回我々が上演する『トリスタンとイゾルデ』にふさわしいか考えるべきだ。氏は自分がデブだと自覚がないのか、既に痩せることを諦めているのか、稽古が終わると毎夜六本木のドイツレストランでビール片手にウィンナーにしゃぶりついているのだ。こんな自堕落な氏がトリスタン役を演じたら墓場のワーグナーはなんと思うだろう。我々が提供しようとする舞台がこの百貫デブ一人によってぶち壊されてなるものか!Herrビューロー。今すぐ氏をクビにするか、あるいは氏にダイエットを命令するかどちらかに決めてください!我々だって鬼ではない。ホルスト氏が大人しく自堕落な生活を改めダイエットすると確約するなら決して氏を追い出したりはしない!」

 大振のこのフォルテシモの極みの大演説にその場にいた一同圧倒されてしまった。大振の隣で聞いていたイリーナなどもう完全に同意して深く頷いている。その皆の視線を感じたこの現代ドイツを代表する劇演出家は、皆からの冷たい視線を一身に浴びていて泣いている友人ホルストの肩を叩いて通告した。

「ホルスト、いますぐダイエットを始めろ」


 こうしてホルストにダイエットすると確約させ誓約書まで提出させた大振は完全にこの劇の独裁者となった。彼は我がイゾルデであるイリーナを輝かせんがために舞台美術や劇の演出にまで首を突っ込みヨハネス・ビューローに向かってこんな演出じゃ我が天使イリーナは輝かない!全体の演出はあなたに譲るがイリーナの演出だけは僕が全部やりたいとまで言い出した。当然ながらこんな無茶苦茶な要求は通るはずはなかったが、ビューローは大振の剣幕に恐れてアイデアを出してくれたら採用する事も考えると言ってなんとか彼を宥めた。

 上演が近づくにつれて彼の稽古はフォルテシモなまでに苛烈なものになってゆき、オーケストラとホルスト以下キャストを搾りかすが出なくなるまでフォルテシモに、徹底的に絞りつくされた。しかし大振のイリーナに対する態度は全くといっていいほど変わらなかった。相変わらずイリーナを天使だディーヴァだ、果てはミロのヴィーナスだと褒め称え彼女のやる事はなんでも持ち上げた。イリーナも彼を喜ばせんと理想のディーヴァとなり彼を狂喜させたが、その二人を見て他のキャストは自分たちとのあまりの待遇の違いに猛抗議した。大振はそれらの抗議に対してイリーナは本物のディーヴァだ。刺身のツマでしかないお前ら程度が抗議するなんて一京年早いとバッサリ切り捨て、今後こんな抗議したらお前らをクビにしてやると脅しつけた。

 これに反発した一部の日本語バリバリの出演者はTwitterで匿名で大振拓人とイリーナ・ボロソワが出来ていることと、そしてこの二人が自分たちキャストを無視して舞台を我が物顔で仕切っている事を告発したのだった。この告発は思いっきり炎上してTwitterのトレンドに上がったが、クラシックファンが騒ぎ立てたのは大振とイリーナが出来ているという部分だけであり、告発のメインである大振とイリーナの仕切りについてははっきりいってどうでもいい事にされた。大振が独裁的なのは彼の性格からして当たり前であり、その妥協を知らない独裁っぷりこそ彼の美点の一つだったからである。

 さて大騒ぎになっている大振とイリーナが男女の関係にあるという一文だが、これも大振はあまり責められていなかった。確かに大振に対してバカな外人に騙されやがってという批判はあった。だが、それよりもはるかに自分たちから大振を寝とったイリーナへの批判が爆発していたのである。曰く『チェコだかチョコだかわからない国の売女に騙された拓人がかわいそう!』『そのイリーナ・ボロソワっていうボロの服きた女は人生の一発逆転を狙って私たちの拓人に近づいたのよ!恥を知らない外人ほど怖いものはないわ!』

 イリーナ・ボロソワは英語でも書かれているこれらの自分への中傷ツイートを見て激しく落ち込んだ。ああ!私と大振は純粋に舞台のために頑張っているのにどうしてこんなにまで言われなくてはいけないの?私が東欧育ちのビッチですって?私のこともよく知らないくせに!彼女は自分がビッチでない事を証明するために自分の主演したカルメンのオペラの動画とポップスで一番売れた曲のPVを上げたが、カルメンはまさしくビッチそのものが主人公のオペラであり、ポップスのPVは下着姿でセクシーに腰をくねらせながら歌っているものだったので完全に逆効果になってしまった。コメントではビッチビッチとの言葉が全言語で並び彼女をさらに苦しめた。稽古場でもイリーナは孤立してしまった。イリーナの演技に皆はわざとらしいほどの棒読みで応じ彼女を激しく悲しませた。大振はこれに激怒してキャストとオーケストラ全員を集めて叱り飛ばした。

「誰がTwitterにこんな馬鹿げた事を書いたのかそれはここでは問わない。だが僕はここにいるであろうその匿名の卑怯者に言ってやる!まず、最初に弁明させてもらうが、僕とイリーナは男女関係などなく全く純粋に芸術で深すぎるほど深く結ばれた同士としての関係なのだ!僕らは二人で理想であるトリスタンとイゾルデを極めんとしていたのだ!確かにその僕らのあまりにレベル高く芸術を求める姿は君たちのような凡庸な人間には僕らが男女の関係にあると邪推させるものがあったに違いない。だから僕はここで宣言しよう!僕とイリーナの関係は純粋に芸術で結ばれた関係だ!君たちもそれを理解したかったら嫉妬のあまりくだらない暴露なんかするより僕らのレベルまで己が芸術を高めるよう努力してみろ!」

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