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《長編小説》小幡さんの初恋 第四回 小幡さんと鈴木 その3

 鈴木は小幡さんと一緒に帰るのが初めてであることに気づいた。いつも彼は定時に帰り、小幡さんは残っていたからだ。ここは電灯がぽつんといくつかあるだけの暗い道である。あたりには空き地と木に囲まれた鳥居があるだけだ。そんな道を鈴木は例の亀の甲羅みたいな制服を着た小幡さんと歩いている。このまま黙ってこんな暗い夜道を黙って歩いていたら変に思われそうだ。鈴木はそう考えて小幡さんにずっと前から聞きたかったことを思い切って聞いてみた。

「あの、小幡さん。その制服毎日家から着てくるの?」

「そうですよ」

「そうか、それでもう一つ聞きたいんだけど……」鈴木はここで少し言い淀んだ。しかし勇気を出して思い切って聞いた。

「小幡さんって身長いくつあるの?」

「172cm……」

「そうなのか。僕は175だからあなたがヒールなんか履いたら余裕で僕を追い越しちゃうな!」

 こう言って鈴木は声を上げて笑ったが、小幡さんが十字路の前の電灯の下で立ち止まって厳しい顔で自分を見ていることに気づいて笑うのをやめた。

「あの、鈴木さん、いいですか?……私、身長のこと言われるのすごくイヤなんです。なんでイヤかって説明は出来ないけどとにかくイヤなんです。それと鈴木さんはそんな事言ってないですけど、亀だってバカにされるのもイヤです。確かに私ブサイクだから亀だって言われてもしょうがないけどそれでも嫌なものはイヤです」

 鈴木は小幡さんのこの態度にひどく驚いた。いつの何を言われても涼しい顔の小幡さんが、今彼の目の前で悲しい顔をして立っていた。いつも自分に投げかけられる軽口を、平然とやり過ごしているかのように見えた小幡さんが、実はこうした事をかなり気に病んでいた事を、本人の口からこうして聞かされてショックを受けた。鈴木は社員の小幡さんへの親しみから来る遠慮ない軽口に多少の憤りは感じていたが、自分もまた心の中で彼女を亀に似ていると笑っていた事を反省した。小幡さんは鈴木をチラリとみてから再び話しはじめた。

「こういう事をあえて鈴木さんだけに言うのは私が鈴木さんを仲間だと思ってるからです。勿論他の社員だって社長だって専務だって仲間です。だけど鈴木さんはそれとは違う。もっと近い、頼れる相棒みたいな人だと思ってるんです。おかしいですか?」

「い、いやおかしくはない」

「だからそういう人にはちゃんと自分がされたら嫌だなって思っていることはちゃんと伝えたいって思うんです。ごめんなさい、突然変なこと言って……」

「あなたの言いたいことはよくわかったよ。あなたが僕を信用してくれているのは素直に嬉しいと思うよ。そして僕の態度に君にそんな事を思わせるようなところがあったとしたら謝るよ」

「い、いえ。私そういう事をいいたかったわけじゃないんです。なんかうまく言えないんだけど……」

 二人の間に気まずい雰囲気が流れた。鈴木は電灯の下で俯いている小幡さんにどう話しかけたらいいかわからなかった。ここで別れて帰ろうかと一瞬思ったが、それは当然ながら出来かねた。その時、小幡さんが鈴木が手にぶら下げている、鉢花の入ったビニール袋を指差して、それなんですかと尋ねてきた。鈴木は突然の小幡さんの質問に驚いて思わずビニール袋を落としそうになった。

「あっ、これか。これ楢崎さんにお昼休みにもらったんだよ。今日僕の誕生日なんだ」

 鈴木がこう言って小幡さんを見たが、彼女が眼鏡の下から食い入るように自分を見つめているのに気づいて思わず目を背けた。小幡さんその鈴木に向かってこう尋ねた。

「あの……鈴木さんっておいくつなんですか?」

「今日で57才だよ。あなたからすればもう爺さんだ」

 鈴木はそう言って小幡さんを見たが、彼女が目を剥いて自分を見詰めたまま動かないのでまさか失神でもしたのかと思った。しばらくすると小幡さんは手を口を当てながら「えっ?」と今自分が聞いた事を確認するように呟き、心を落ち着かせるためか胸に手を当てて深呼吸をしだした。そしてしばらくすると小幡さんは驚きと嬉しさを隠しきれないと言った表情で鈴木に言ったのだ。

「鈴木さん。私のお父さんと生年月日同じじゃないですか!」

 鈴木は小幡さんが突然甲高い声を上げたのでびっくりしてしまった。

「今更そんなに驚く事はないんじゃないか。僕は面接のとき生年月日を言ったと思うんだが」

「そ、そうですか……あ、あの、わ、忘れてました!」

 鈴木は面接の時に小幡さんに自分の生年月日を述べた時の事を今もハッキリと覚えている。あの時も小幡さんは少し驚いた顔をして「もう一度生年月日お願いします」と聞き返してきた。鈴木はその小幡さんの態度が不思議に感じたのを覚えていたが、それはこういう事だったのかと納得した。しかし鈴木はこんな小幡さんの笑顔を見るのは初めてだった。事務所で見せるあの愛想のいい笑顔とは全く違う、自分の感情をそのまま現したようなそんな笑顔だった。鈴木はこれが素の小幡さんなのかもしれぬと思った。そこにはいつもの経理を始め、その他内勤の諸々や、さらに人事までこなすの仕事人間の姿はなく、普通の若い女性の姿があった。しかし鈴木は不思議だった。しかし会社の同僚がたまたま自分の父親と生年月日が一緒だったからと言ってそんなに嬉しがる事なのだろうか。自分だったら、知り合いになった人間が両親のどちらかと生年月日が一緒であっても、特に感興などもよおさず、ただはいそうですかと思うだけだ。やはりこれは男性と女性の違いなのだろうか。鈴木は小幡さんに向かって言った。

「小幡さんはお父さんが本当に好きなんだね」

「うん、とっくに、私が小学生の頃に死んじゃった人なんだけど」

「そうか……」

 鈴木は小幡さんが社長や専務と交わす会話で彼女の父親がずっと昔に亡くなった事を知っていた。

「小幡さんはそういえばずっとここに住んでいるんだっけ?」

「いえ、出戻りなんです」

「出戻り?」

「そう出戻り。中学から高校までずっと東京にいたから」

「そうなのか。知らなかったな。今一人暮らしなんだっけ?」

「ええ」

「お母さん元気かい?」

 こう聞いた瞬間小幡さんの表情がさっと笑顔が消えたのを見て、鈴木は迂闊な事を聞いたと慌てた。しかし小幡さんはすぐに笑顔に戻り話しかけてきた。

「鈴木さん、お話はまた来週でいいですか?今日はホントにありがとうございます。残業までしてくれて。誕生日の事覚えていればプレゼント買ってきたのに。じゃあまた来週もよろしくお願いしますね」

 鈴木はいや自分もこのまま真っ直ぐ行くと言いかけたが、しかし小幡さんは「だけど鈴木さんのご自宅ってここから左に曲がった方が近いですよね」と暗にここで別れたい素振りを見せた。それに気づいた鈴木は慌てて小幡さんにまた来週と十字路で別れて左の道を歩きだしたのだが、その歩いている途中で後ろを振り返ってみると小幡さんが十字路のすぐそばの貸家が並んでいる中に入って行くのが見えた。そこで小幡さんは鈴木の視界から消えたが、程なくして道路側の貸家の明かりが点いた。どうやらあの手前の家が小幡さんの自宅らしい。それを見て彼は、だからあれほど別れたがったのかと納得した。鈴木はたいして時間のロスにならんし明日からは通勤を小幡の家の前を通る事にするかと一瞬バカな事を考えたが、すぐにいかんいかんと呟いて打ち消した。

 彼は歩きながら時々小幡さんの住んでいる貸家のあたりを見て考えた。しかし小幡さんは暗い場所に住んでいるものだ。この一角は今鈴木が歩いている手前は畑とアスファルトが敷かれた空き地で殆ど占められており、その奥の小幡さん住む貸家が並んでいる所の横に、地元の人が電話局と呼んでいる公共のインフラの建物が聳え立っている。今その電話局は影になっていてそれが一層この場所の暗さを引き立たせた。貸家は明かりはほとんどついてない。殆ど空き家だろうと察せられる。近くにコンビニがあるにも関わらず何故この一角だけがこんなに暗いのかと鈴木は不思議に思った。彼はまた先程母親の事を聞いた時に小幡さんが一瞬だけ凄く暗い表情をしたことも思い出した。あれはなんだったのだろうか。彼女と母親の間に何があるのだろう。といろいろ考えを巡らしたが、途中であれこれ他人の事情を詮索するものではないと思い直し、再びいかんいかんと呟いて打ち消した。


 小幡さんは家に戻るとお勝手に向かい、冷蔵庫から昼間に父親の誕生日のために買って置いたブランデーを取り出し、蓋を開けてグラスに注いだ。それから彼女はグラスを手に寝室に向かい、奥の仏壇に飾られている父親の遺影に捧げた。ブランデーは生前父が好きでよく飲んでいたものだ。そうしてしばらく彼女は黙ったまま父の遺影を見つめていたが、一息つくと蝋燭を灯して線香に火を点けるとゆっくり香炉にさした。それが済むと小幡さんは父に手を合わせていつものように毎日の報告をした。

「お父さん、お誕生日おめでとう。今日はね。凄いニュースがあるの。多分お父さんビックリするよ。いつも話してる同僚の鈴木さんっているでしょ?あの人実はお父さんと同じ年でしかも同じ誕生日なの。それ聞いて私凄いビックリしちゃった。でも鈴木さんは最初の面接の時そう言ったらしいのね。私すっかり忘れちゃってた。だけどなんでだろう。その時聞いて忘れていた事をなんで今聞いてこんなにビックリして嬉しくなるんだろう。今日の報告はこれで終わりです。ブランデー今夜はずっと置いておくから好きに飲んでね。でも飲み過ぎには注意してよ。お父さん昔からお酒弱いんだから」

 小幡さんは父親に今日の出来事の報告を終えるとそのまましばらく父の遺影を見つめていた。父はあの時から全く変わっていない。彼女は自分が父の亡くなった年に近づきつつあるのを感じていた。「もうお父さんっていうよりお年の離れた兄ちゃんだよね」と彼女はつぶやいた。彼女は父がもし今も生きていたどういう人になっていたかを想像してみた。すると何故か鈴木の顔が浮かんできた。彼女はこの想像に思わず笑って父の遺影に向かって呟いた。

「おかしいよね。あの人全然お父さんに似てないのに」



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