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ラストハードボイルド

 初冬の東京にあの男が帰ってきた。男は去っていった時のまま全く変わっていなかった。目深に被ったソフト帽、ボロボロのコート、シワだらけのスーツ、全部があのときのままだった。彼はバーに入ると早速カウンターに腰掛けていつもの奴と注文した。しかしマスターはこの男を全く知らなかったのでいつもの奴ってなに?と問い返した。男はこのバカマスターの返答に呆れてものも言わず店を立ち去った。

 それから男はもう一件のバーに向かった。彼はバーに向かいながら先程は誤って全然関係ないバーに入ったことに気づいて恥ずかしくなった。やはり人の記憶なんて当てにはならない。思い出なんてものはたやすく消えてしまうものなんだ。男はバーのドアにぶつかるまでそんな事を考えていた。

 ドアにぶつかったせいで腫れ上がった額を手で押さえたまま男はマスターを呼びながらドアを開けた。馴染みのバーだ。きっとマスターは自分を覚えているに違いない。マスターはすぐに現れて露骨に迷惑そうな顔で帰ってきたのかいと男に声をかけた。

「まあ、カウンターに座んな」とマスターは言ってから男に向かって何しに東京へ帰って来たんだと聞いた。しかし男はそれに答えずマスターの後ろにずらりと並んでいる酒瓶を見つめていた。

「よお、マスター。まだ奴はあの家に住んでいるのかい?」

 マスターは男の突然の問いに目を剥いて驚いた。

「まさかアンタ……」

「彼女も当然いるんだろ?」

「まぁ、噂では仲睦まじい夫婦だってことだ」

「噂ね」そう口にした男は手元にあったグラスをマスターに突き出して言った。「キツイのを一杯くれないか」

「……アンタまだ諦めてなかったのかい?」

「諦めたら東京なんかに戻って来はしないさ。一人寂しく凍てつく大地で一生過ごてるにきまってるだろ?」

 男はマスターからテキーラ入りのグラスを貰うと一気に飲み込んだ。

「これが俺の最後の姿かもしれない。目に焼き付けてくれよマスター。俺のラストハードボイルドを決めた姿を」

 男は颯爽と金も払わず店を出た。もうこの世への未練は捨てた。あとはただ彼女の元に向かうだけだ。市と隣り合わせせの緊張感が体を震わせる。しかしこの震えは恐怖よりも恍惚からくる震えだ。快楽の弾丸を体に装填して今彼女の家の前に立つ。

 唸るサイレン、マスターの密告か。裏切りの結末、はめられたのか。猛烈なサイレンを鳴らして男を取り囲むパトカーの後ろからハリウッドスターのように女が現れた。彼女は男に言う。

「まだ懲りないのかこのストーカーめ!お前は何回網走にいけば気が済むんだ!」

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