カリスマ指揮者大振拓人『ハルサイ(春の祭典)』を振る!
カリスマ指揮者大振拓人はわずか二十代にして日本のクラシック界、いや音楽界のトップに上り詰めた男である。それだけでなく世界の指揮者の中で唯一自分の楽団を運営している男でもある。その彼のオーケストラ『フォルテシモタクト・オーケストラ』は世界でもトップレベルの演奏力を誇るオーケストラであり、全く私設のオーケストラでありながら観客の動員数は名門オーケストラすら超えている。これらの事実は音楽について多少知識のある人間なら誰でも知っているが、もしかしたら読者の中には決定的に教養が足りない方もいるかもしれない。だからそんな無知すぎる憐れな読者のために改めてこの史上最大の天才大振拓人の人となりについて軽く触れておこう。
天才指揮者大振拓人は学生時代にベートーヴェンの交響曲第五番『運命』のフォルテシモなまでに斬新な指揮で注目された。彼のベートーヴェンの『運命』は苦悩を丸ごと体で体現するものであった。出だしの指揮棒で床を叩いての来るべき運命の予告。第一楽章中の運命に慄き頭を抱えてのたうち回る姿。第二楽章中に苦悩に耐えきれず膝をガックリと落として絶叫する姿。だが第三楽章で大振は運命に対し立ち向かわんと立ち上がる。クライマックスの第四楽章は運命への勝利の舞である。力強く拳を掲げ、四回転ジャンプを決め、アンドゥトロワと爪先立ててクルクルと回り、最後のクライマックスで止めの「フォルテシモ」を絶叫する。このフォルテシモなまでに斬新な解釈の運命はクラシック界に衝撃を与えデビューへの道を開きまくった。そして大振はデビュー後にチャイコフスキーの交響曲第六番『悲愴』でさらなる衝撃を与えた。その時にバレエを駆使し、時に拳を突き上げ、最期に「フォルテシモ」の絶叫とともにロシアの大地に息絶える様を全身で表現し切った指揮で大振はチャイコフスキーの絶望を完全に目に見える形で表現してしまった。これはクラシックの革命であった。彼は指揮で音楽を完全に観せてしまったのである。しかもその指揮は同時に古びたものとされていたロマン主義を見事今の時代にリンクさせるものであった。大振は指揮で音楽のすべてを具像化し、それをロマン主義的フォルテシモで大爆発させてしまったのである。それ以降の活躍についてはさすがこれ以上ページを割くわけにはいかないので後は自分で調べていただきたい。とにかく大振拓人という指揮者はそれほどに偉大な人物なのである。ある人は彼を現代の奇跡と評したが、だが今の彼はもう奇跡という言葉では表現できない未知の現象である。もしかしたら彼の登場は来るべき人類の進化の予告なのかもしれぬというほどに。
このようにそのフォルテシモな指揮で現代のクラシックに大革命を起こした大振拓人であるが、しかし彼自身は常々この革命はあくまでクラシックを未来へと生かすために行われたものだと主張していた。その大振の姿勢は保守革命家と自ら称した現代音楽の創始者アルノルド・シェーンベルクにどこか似ていた。
さて、シェーンベルクの名を挙げたのでここで大振拓人と現代音楽の関係について書いておこう。ハッキリ言ってこの現代のクラシックの最前線をいくカリスマ指揮者は現代音楽を嫌っているどころか、音楽としての価値すら認めていなかった。今挙げたシェーンベルクも初期の後期ロマン主義的な楽曲『浄夜』しか認めず、彼の弟子であり、同じ新ウィーン楽派に属するウェーベルンやベルクなどは評価にすら値しないと思っていた。大振はシェーンベルク一派にとどまらず現代音楽と名のつくものは全てゴミとみなしていた。彼が認めるのはドビュッシーやラヴェルまでであり、それ以降の作曲家の音楽は演奏するに値しないものであった。その中でも特に嫌っていたのがストラヴィンスキーである。
大振は意外なことにシェーンベルクに対して一定の評価を与え、特に初期の楽曲『浄夜』をマーラーのフォルテシモなまでの力強い迸りと絶賛していた。そのシェーンベルクが現代音楽への道を切り拓いた事については憐れみを持ってこう述べている。「シェーンベルクはドイツ音楽を守ろうとして却ってドイツ音楽を破壊してしまった。彼がなすべき事は現代音楽のような何曜日にも出せないゴミを作る事ではなく、『浄夜』のようなマーラーがフォルテシモに迸る楽曲を書き続ける事だったのだ」と。
そのシェーンベルクのライバル的な存在だったのがストラヴィンスキーである。大振はこのストラヴィンスキーをダニの如く忌み嫌っていた。インダビュー等で事あるごとにストラヴィンスキーを全くの偽物、二十世紀音楽最大のゴミとこき下ろしていた。ストラヴィンスキーの楽曲でまともに聴けるのは『火の鳥』とあとは『ペトルーシュカ』だけ。それもこれらの楽曲で踊っていたという天才舞踏家のニジンスキーのイメージが奴のロマンもフォルテシモもないただ冷たいだけの貧弱な楽曲を補ってくれるからだと激しく痛罵していた。実際にフォルテシモなまでのロマン主義者大振とそのロマン主義を忌み嫌っていたストラヴィンスキーは水と油である。激しい感情をフォルテシモに指揮棒にぶつける大振と、音楽に感情を表現する力などないと断言するストラヴィンスキーには対立点はあっても共通点など何もありはしない。デビュー当初の大振はイヤイヤながら何度かストラヴィンスキーの楽曲を振っていたが、そのどれもが大不評に終わっていた。大振はストラヴィンスキーをせめてマシなものにしようと春の祭典でストラヴィンスキーのリズムや変拍子をかなぐり捨ててフォルテシモに感情を叩きつけて演奏したのだが、聴衆は大振のフォルテシモでロマンティックなストラヴィンスキーを完全に拒否した。大振はこの大不評にせっかく俺がまともに聴けるものにしたのにこのバカどもがと一層ストラヴィンスキー嫌いを拗らせ二度と演奏しなくなってしまったのであった。
しかし運命は再び大振とストラヴィンスキーを結びつけた。その縁結びをしたのは例のプロモーターである。プロモーターは大振の事務所にやって来てビクビクしながら大振にハルサイの演奏の依頼をした。それを聞いた大振は白菜と聞き違えて「何が白菜の演奏だ!いくら天才の俺でも野菜に演奏させることなど出来るかっ!俺には貴様の冗談に付き合っている暇はない!さっさと帰れ」と叱り飛ばした。プロモーターはこれに慌ててもう一度、今度は完全に誤解のないように話したのであった。
「マエストロ、いくらなんでも私が白菜の演奏だなんてくだらない冗談言いにここにお邪魔するわけないじゃないですか。私が依頼しようとしたのはハルサイ、つまりストラヴィンスキーの『春の祭典』の演奏ですよ」
大振はストラヴィンスキーと聞いて怒りで体が震えるのを感じた。ああ!このバカが俺がどんだけストラヴィンスキーを嫌っているかわかっているのか?あんなクラシック史上最大のゴミの演奏を俺に押し付けるなんて!大振は激怒して立ち上がった。
「貴様!よりにもよってこのフォルテシモなまでの天才の俺にそんなゴミ処理の依頼にくるとは!帰れ!そして二度と俺の元に現れるな!」
だがプロモーターは大振の大喝に臆せず逆にこう切り返した。
「天才指揮者のマエストロがストラヴィンスキーの名を聞いただけでそこまで取り乱すとは。もしかしてマエストロはストラヴィンスキーが怖いのですか?マエストロは以前に何度かストラヴィンスキーの曲を演奏しているようですが、あまり評判がよろしくなかったそうですね。もしかして今度も同じような事になって赤っ恥をかくんじゃないかと恐れているのですか?聞くところによりますと、春の祭典という曲はリズムがとても複雑なものでしかも変拍子だらけなので一流の指揮者でもかなり手こずるものだそうです。まぁ勿論マエストロのような真の天才ならそんなもの平気のヘイちゃらで、リズム感のなさがバレバレとか、変拍子もまともに振れず、フォルテシモなパフォーマンスでもカバーできないほど酷かったとか、そんな悲惨な事にはなっていなかったでしょう。そういえばレコード会社の知り合いから聞いた話ですが、知り合いはこの間高校生の息子が所属している吹奏楽部が出演していたイベントを観に行ったそうです。そのイベントで知り合いの息子の吹奏楽部はハルサイを見事に演奏したんです。知り合いが言うにはこんなこと言うと親バカかって思うかもしれないけど、息子たちのハルサイは意外にちゃんとしたもので、リズム感もあるし、変拍子にもちゃんと対応していて最後まで気持ちよく聴けたそうです。彼によれば息子たちの吹奏楽部は全国どころか地区でも勝てるかどうか怪しいレベルという話ですが……」
このプロモーターの意識してるんだか、無意識なんだかの煽りは大振の心にハリセンボンのようにグサグサ突き刺さった。なんだかプロモーターの顔さえハリセンボンに見えてきて世間から自分が小馬鹿にされているようにさえ思えてきた。
「なんだ貴様!この俺がそのバカ高校生どものお稽古ごとよりも劣るって言いたいのか!貴様無礼も大概にしろ!」
「滅相もない!天下のマエストロに対して私がそのような考えを抱くはずはありません!ですが世間は広いもの。世の中には今マエストロがおっしゃられたような事を思っている愚民は少なからずいるんです。ですからその愚民どもにマエストロの真のハルサイを聴かせて彼らの目を覚させてやりましょうよ。マエストロのハルサイはきっとストラヴィンスキーなんてパチモンのヴァイオリンみたいな名前をしたやつより全然上ですから」
「望むところだ!」と大振は立ち上がって力強く宣言した。
「この俺が高校生如きに負けると思っているのか!春の祭典の如き陳腐なゴミ以下の曲ですら俺の手にかかればダイヤモンドに化けてしまうって事を世界に知らしめてやる!ああ!やってやるとも!この大振が最大限のフォルテシモを使ってバカな愚民と、そして生涯ロマン主義をまるで理解出来なかった猿以下のストラヴィンスキーを黙らせてやるっ!」
プロモーターはこう言い切った大振の決然とした表情を見て一安心し、肩を撫で下ろした。彼は大振が単純な人間で本当によかったと心から思った。
こうしてハルサイの演奏を決めた大振は早速その準備に取り掛かる事になった。今回は失敗は許されぬ。完璧に曲を習得してから振らねばならぬ。彼はどうすればハルサイを完璧に習得できるかを考え、考えた挙句とある元バレリーナの門を叩いたのであった。その人の名はアンナ・ババロワ。亡命ロシア貴族の末裔として日本に生まれ、ヨーロッパやアメリカで一斉を風靡した伝説のバレリーナである。大振は以前同じようにチャイコフスキーを習得するためにババロワにバレエを習おうとして彼女の家の門を叩いたが、あいにくその時ババロワはババロアの食いすぎて入院していたため会えず仕舞いだったのだ。だが今日は幸いにもババロワはいた。大振は初めて対面するかつての伝説のバレリーナを見て全く名前の通りの女性であった事に驚いた。
「あら、あなたタクト・オオブリね。よくテレビで拝見しているザマス。いつかは面会出来なくて申し訳ありませんでしたザマス。あなた、よく見るとピオネールのように可愛らしいザマスわね。食べてしまおうかしら」
大振りはこのババロワのババロアっぷりにたじろぎ一歩後に引いて身構えたが、ババロワはその大振に向かって笑いながら声をかけるのであった。
「あらあら、私のアンチエイジングを習得し切った姿を見てそんなに驚かなくてもいいザマスよ。で、今日は何の用ザマスか?まさか口説きに来たとかではないでしょうね、イヤん、この破廉恥!ああ!私、祖母や母からからきつくヤポンスキーとだけは同衾してはならぬ。そのような事をすれば尻に青タンのできたタタールの化け物の子ができると戒めを言われていたザマスが、その禁を破ってしまいたくなりましたザマス。きっとあなたのような美形のヤポンスキーなら天国の祖母や母も許してくれるザマス。遠慮などいらないザマス!」
大振は名前の通りの女性が迫ってきたので一歩も二歩も退き片膝をついて丁重にこう述べたのだった。
「ババロワ先生。本日私が御宅にお伺がいしたのは先生にバレエを指導してもらうためです。先生お願いです!私にバレエを教えてください!」
「まぁ、また何で!あなたは指揮者として大活躍されているではないザマスか。まさかバレリーナに転向あそばすおつもり?ああ!驚きのあまり入れ歯が外れそうになってしまったザマス!お戯れならおよしなさい!バレエは一日にしてならず、私の指導は誰よりも厳しいものザマス!あなたのようなピオネールでも手加減はしませんザマスよ!」
「いえ、先生!僕は決して戯れでバレエを習いに来たわけではありません!」
ババロワはこう述べた大振の熱いまなざしに祖父母の国の偉大なるバレエダンサーのヌレエフやパシリコフを感じた。しかしなぜ日本でトップに立つ指揮者がこれほどバレエの指導を乞うのか。ババロワは大振に尋ねた。
「タクト、あなたは何故そんなにバレエを習いたいザマスか。理由を言うザマス」
大振は眉間にしわを寄せて自分がバレエを習おうと思ったいきさつを語った。ババロワは大振の話を聞いて思わず涙した。
「まさか、ロシアのバレエ曲を演奏するためだけにそこまで真剣に取り組んでくれるなんて!このババロワ感激しましたわ。やっぱりあなたはピオネール!今すぐにでも食べてしまいたいぐらいよ!」
「ですが僕は神の如く偉大なる舞踏家ニジンスキーこそ誰よりも深く尊敬しますが、先生には申し訳ないことに作曲家のストラヴィンスキーの方はまるで好きになれないのです。もしろハッキリ嫌いだと、というよりもこの地上から一刻も早く抹消してやりたいぐらい軽蔑しておりまして……」
「ああ!私もそう思うザマス!ストラヴィンスキーなどクズ以下の男ザマス!だってあのニジンスキーの才能をこれっぽっちも見抜けなかった凡人ですもの。あいつこそバレエの敵ザマス!あなたのおっしゃること正しいザマス!私決めたザマス!あなたにバレエを教えてあげるザマス!もしよろしければあなたの『春の祭典』の振り付けもしてあげるザマス!あの猿みたいな小男の書いた曲は元々ニジンスキーのものザマス!あの有名なパリのスキャンダルも曲じゃなくてニジンスキー振り付けの神のようなバレーに驚愕した観客が起こしたものザマス!タクト、二人でニジンスキーにあの曲を返してあげるザマスよ!」
「先生!僕は今先生の話を聞いて何故自分がストラヴィンスキーと彼の全楽曲。特に『春の祭典』を殺害したいほど嫌いなのかよくわかりました。あの曲は元々ニジンスキーのために書かれた曲なのですね。という事はもはやニジンスキーの曲だと言っていい。それなのに、あのただ楽譜を書いただけの、フォルテシモもロマン主義も何一つ理解できないが故に音楽には感情を表す力などないとのたまう猿のストラヴィンスキーは恥知らずにもニジンスキーの神曲を全部自分のものだと言って全部横取りしたのです。全く許しがたい暴挙だ!先生!僕は先生の申し出を全て受け入れます!二人で取り戻しましょう!ストラヴィンスキーからニジンスキーの『春の祭典』を!」
「ああ!私のピオネールその意気よ!じゃあ稽古の前にあなたの体をチェックしなくてはいけないザマス!」
この後大振とババロワに何があったのか我々は残念ながら知ることが出来なかった。だが翌日ババロワは何故か腰痛になり、その日の翌朝ツヤっツヤっの肌で何故か異様に不機嫌な顔をした大振がババロワの家から退出する姿が目撃されているのできっと何かしらの出来事があったのだろう。
と、いうわけで時は進んで記者会見の場である。何度も言うが天才指揮者大振拓人には記者会見は欠かせない。その衝撃的なデビューからずっと大振のコンサートは記者会見で始まっている。本日の記者会見は大振が忌み嫌っていたはずのストラヴィンスキーの『春の祭典』を演奏をするというので音楽関係者やマスコミは非常に注目していた。しばらくすると司会者が現れて大振拓人を呼んだ。間もなくして大振が颯爽と登場したが、その後に続いて出てきた謎の外国人の老婆にマスコミの目は釘付けとなった。司会者が会見の開始を告げると記者たちは一斉に手を挙げた。マスコミやそしてファンが第一に知りたいことは大振が何故忌み嫌っているストラヴィンスキーの演奏するのかであった。もしかして大振がストラヴィンスキーの評価を改めたのか。あれもこれも若気の至り、逆張りでこき下ろしてみたけど大人になってやっぱり彼の偉大さがわかったよ。なんて大振は軽く微笑みながら言うかもしれない。それも大人あれも大人とこんなことを能天気に頭に思い浮かべながら質問したマスコミであったが、大振は憤然として質問を全否定した。
「この天才の僕がストラヴィンスキーの評価を改めるだって?冗談も大概にしてください。僕が今回ストラヴィンスキーの『春の祭典』を演るのはこの曲の真の原作者ニジンスキーのためです。僕はこのフォルテシモな指揮で、ただ楽譜を書いただけのストラヴィンスキーから曲を取り戻し、それをそっくりニジンスキーに返すためにこの指揮を引き受けたんです!思えばストラヴィンスキー自身は『火の鳥』くらいしかまともな曲が書けなかった。『ペトルーシュカ』も今回の『春の祭典』もすべてニジンスキーがインスピレーション元です。もうこれはすべてニジンスキーの曲というしかない!ニジンスキーはずっとストラヴィンスキーからバカにされてきましたが、それは自分の力ではたったの一曲しかまともな曲が書けなかった凡庸一直線のストラヴィンスキーが僕と同レベルの天才ニジンスキーに嫉妬していたからなのです!ですから今回は僕自身のためではなくてニジンスキーのため演奏するつもりです!彼にすべてを返すために!」
この大振の確実に頭がいかれているのではないかという妄言は会見場を超えて世界中に騒ぎを及ぼした。ストラヴィンスキーの信奉者は大振をいまだロマン主義から目覚めない女子供向け指揮者と罵倒し、それに対して大振ファンはタクトこそフォルテシモに正しいとインフレゾンビ化して大振拓人を讃える言葉を各方面にまき散らした。だが世間でそんな騒ぎになっているなか大振の語りはまだまだ続いていた。
「僕は今回の春の祭典をニジンスキーに捧げるためにある人物の力を借りました。その人は今僕の隣に座っているアンナ・ババロワ先生です!先生はかつてバレリーナとして特にヨーロッパで大活躍され、野蛮なアメリカ人にも真のバレエを教えてあげた偉人です!」
大振によって明かされた謎の老婆の正体に記者たちはざわついた。会見場に現れた時からこの老婆はただものではないと思っていたが、やはりそうであったか。記者たちは一斉にパブロワさんパブロワさんと名前を思いっきり間違えてババロワに質問を浴びせた。大振は記者の連中が無礼にも偉大なる師の名前を間違えて連呼しているのに激怒して記者たちを怒鳴りつけた。
「バカもの!貴様たち無礼だぞ!僕の師である偉大なバレリーナの名前を呼び間違えるとは!この方はパブロワではなくてババロワ先生だ!いいか!この方はアンナ・バ・バ・ロ・ワ先生だ!ほら、二度と間違えないように復唱してみろ!」
記者たちは大振に命令された通りババロワの名前を何度も復唱したが、それは日本に生まれ日本語をとてもよく理解しているババロワを酷く傷つけた。彼女は指を指揮棒がわりに振って「あと百回繰り返すぞ!」とさらに自分の名を連呼させようとしていた大振をキッと睨みつけえこれを止めさせた。
というわけで記者会見は平常に戻りババロワは記者たちの質問にザマス口調の山手言葉でこう答えたのであった。
「先ほどのタクトの言葉通りザマス!私たちは春の祭典をニジンスキーの手に取り戻すためにはタクトにニジンスキーその人なってもらわなくてはいけないと考えたザマス!ですがニジンスキーになるにはバレエを完璧に身につけるだけではダメで、コンサートをニジンスキーの偉大なる春の祭典を超えたものにしなければいけないザマス!あの猿の小男のストラヴィンスキーに付け入る隙を与えないほどに。ですから私バレエの演出も担当したザマス!タクトにニジンスキーを超えてもらうために。皆さま今度の舞台はきっと世界中が震撼するものになるザマスよ!ニジンスキーを超えたタクト・オオブリによる春の祭典を刮目して待つザマス!」
ババロワがこう締めると一斉に拍手が起こった。記者たちはババロワの話を聞いてなにかとんでもないことが起こる予感がした。そこに大振が立ち上がって記者たちにこう言い放った。
「コンサートの会場は武道館だ。開催日とチケットについては近日中に発表する。僕はみんなに誓うよ。今度のコンサートで僕はニジンスキーに成り代わって必ずやストラヴィンスキーから春の祭典を取り戻してみせる!これは正義の戦いなんだ!」
大振とババロワの稽古はコンサートを前にして一層激しさを増していた。タクトプロダクションの地下のリハーサルルームからはババロワの叱咤と大振の叫び声が響いた。
「タクト!何やっているザマスか!それではニジンスキーをとても超えられないザマスよ?さぁいつまで寝ているザマスか!立ちなさい!立ってペトルーシュカのように踊り狂いなさい!」
想像を絶する苦闘であった。ババロワのダメ出しあまりの多さに大振は天才としてのプライドを粉々に砕かされた。俺はこんなにも何もできない男だったのか。俺は天才ではないか、天才大振拓人ではないか。俺は井戸の中の河頭でしかなかったのか。ああもう涙しか出てこない!大振はとうとう泣き出してしまった。大振の私設オーケストラであるフォルテシモタクト・オーケストラの面々はこのマエストロの涙を見て驚愕した。あの自信満々、傲慢を超えた傲慢の大振拓人が床に這いつくばってあられもなく泣いているとは。鬼教師ババロワは大振を立たせようと鞭を叩こうとしたが、大振の涙を見て腕を下ろした。
「どんなに頑張っても僕はニジンスキーにはなれません!無理だ!僕には無理なんです!」
天才大振拓人がここまで自信を打ち砕かれたのは初めてであった。彼は自分の無力を恨んだが、しかし恨んでもどうにもならない現実にただ泣くしかなかった。ババロワは鞭を床に置き床に這いつくばる大振を上から覆いかぶさるように抱きしめた。
「タクト、あなたに何が足りないのか教えて差し上げるザマスわ。あなたがニジンスキーを超えられないのは羞恥心を捨てきっていないからザマス!ニジンスキーは羞恥心を捨てきって初めて一流バレエダンサーになれたのザマス!いいですかタクト?ニジンスキーを超えたかったらあなたの中にある羞恥心を全て捨ててしまうザマス!野蛮人のように天真爛漫に踊り狂うザマス!タクトあなたにならそれが出来るはず。さぁ立ち上がるザマス!もう一度立って裸になって無心に踊るザマス!」
「羞恥心を捨てるだって……」大振はババロワの言葉をつぶやきそして考えた。俺はまだ羞恥心を捨てきれていなかったのか。だから俺は完全に踊り切れていなかったのか。そうだ!ニジンスキーを超えるためには己の文明を全て投げうって野蛮人のように裸にならなければならぬのだ!うぉぉぉぉ~!この雄たけびを聞け!俺は裸の野蛮人だぞ!大振は絶叫して立ち上がりババロワに言った。
「先生ありがとうござます!僕は今完全に目覚めました!もう弱音なんてはきません!僕は今から野蛮人となり恥も外聞もみんな捨ててただただ踊り狂います!」
「それでこそタクト!私のピオネールよ!」と言ってババロワは大振に抱きつこうとしたが、大振は二度と失敗はしないと気を張ってすぐに文明人に戻ってババロワの誘いをガン拒否しまくって深く一礼した。
それからあっという間にコンサートの当日が来た。記者会見からいくらもたたないうちにチケットの販売から開始されたが、今回も一瞬にしてソール度アウトとなった。今回のコンサートはクラシックファンだけでなくバレエファンも注目していた。バレエファンは大振がコンサート中に時折見せる華麗なるバレエに前々から注目していたのである。その一流バレエダンサーを遥かに超えるダンスとオリンピック選手さえ勝てないほどの脚力はクラシックの指揮者にしておくにはもったいなさすぎるものであった。あるバレエ評論家は大振のドビュッシーの『牧神の午後』の演奏を評して二十一世紀のニジンスキーは指揮棒までふるうのかと書いたが、大振は舞踏家としても世界レベルであったのだ。
武道館の前はいつもの如く大振ファンで埋め尽くされていた。ファンたちは先日の記者会見で大振によって発せられた言葉をそれぞれ胸に刻み、あるファンはパンフレットの見開きで指揮者大振と両隣で印刷されていたストラヴィンスキーの写真の部分を黒塗りで塗りつぶし、あるファンは写真の上に牧神の午後のニジンスキーの写真を重ねて貼り付けた。武道館に中央あたりでファンたちがメッセージを大書したボードを掲げて記念撮影をしていた。そのボードに書かれていたのはこんな言葉である。
『大振拓人『春の祭典』コンサート ~ハルサイを、ストラヴィンスキーから、取り戻す!』
武道館の前はいつにも増して華やかだった。元からの大振ファン。それと大振のバレエ目当てのバレエファン。各自思い思いの衣装を着て開場を待っていた。今日は大振のバレエが見られるかもしれぬという期待からかいつもの燕尾服だけでなく、大振のバレエ姿のコスプレをしているファンもいた。ニジンスキーの牧神の午後の衣装を着た大振のコスプレをしたもの。ペトルーシュカ姿の大振のコスプレをしたもの。何故か白鳥の頭首をつけたチュチュを着た男まで徘徊していた。
しかしどこでもそうだが、この武道館にもにも大振アンチがいた。彼らは大振の度重なるストラヴィンスキーディスに腹を立て以前大振りさが行ったストラヴィンスキーコンサートの散々たる結果まで挙げて大振とそのファンを嘲笑するのであった。
「あんな女子供向けのタレント指揮者にストラヴィンスキーなんか振れるわけないじゃないか。僕はずっと前にやつのハルサイを見たが、まともに世に出していけないものだと思ったね。リズムをまるで把握できてないし、変拍子もまともに振れないし、それを誤魔化そうとしてかやたらフォルテシモを連呼するし、聴いているこっちまで恥ずかしくなるような代物だったよ。今日のコンサートはやつの恥晒しっぷりを笑ってやろうじゃないか。でもマスコミはやっぱり大成功とか書くんだろうな。なんたって大振拓人はドル箱だから」
「全くそうだよ。僕は日本のクラシック界の退廃ぶりが悲しいよ。まともな演奏家を無視してあんなキワモノばかり取り上げてさ」
「でもそんなこと言ったって君らも新聞や雑誌には当たり障りのない感想書くんだろう?非常に冒険的なハルサイだったとかさ」
「まぁ、そうだよ。そう書かないと仕事もらえないし……」
そんなこんなで待っているうちに開場時間がきた。チケットを持っている人間は武道館のホールの入り口まで移動を始めた。その場に残ったのはチケットを手に入れられなかったファンたちを中心にした人たちである。彼女たちは入り口へと移動する人々を恨めしそうに見た。胸に抱えた大量の大振グッズとわずかなな希望。彼女たちはせめてもの希望に縋るために『チケット売ってください』のダンボールを胸の辺りに掲げて通る人々に必死の嘆願をする。
「お願いです!なんでもしますから私を拓人の元に連れて行って下さい!出ないともう今日を生きられません!」
ああ!彼女たちとって大振を垣間見ることが出来るためなら自分の全てを犠牲にしてもかまわないのだ。
その駅前から会場の中までの道中を占めているチケットを手に入れられなかった不幸なファンと、チケットを手に客席に座っている幸福なファンの様々な思いを乗せたコンサートはもう時期始まろうとしていた。ステージではオーケストラの座る椅子がセッティングされていたが、会場にいた人々はステージ中央の大振の指揮台を囲んで扇形のひな壇が組まれているのを見て驚きの声を上げた。誰もがこれは普通のコンサートとは違うと感じた。大振が記者会見で言い放ったストラヴィンスキーから春の祭典を取り戻すという宣言。記者会見中に口にした舞踏家ニジンスキーの名。会場にいたファンはそれらの事を思い出し期待が爆上がりになった。きっと今日はとんでもないことが起こるに違いない。
「はっ、相変わらずのこけおどしかよ。そんな小細工したってお前にハルサイは振れねえよ」
会場のどこかで大振アンチがこう呟いた。しかしこの呟きは静まり返りすぎた会場で丸聞こえであった。ファンは犯人を突き止めすぐさま突撃した。「拓人を馬鹿にする奴は親でも許さない!」「お前らのためにここには入れなかったファンの怨念を晴らしてやる!」とファンが口々に叫び会場にちらほらいた大振アンチを検挙して拷問を始めたせいで、会場は酷い混乱状態に陥った。だが大振ファンの扱いに慣れているアナウンサーはすぐさまこう言って大振ファンを止めた。
「ファンの皆さん。大振拓人を思うならすぐに乱闘をやめて静かに彼の登場をお待ちください。あなたたちが乱闘を起こして一番悲しむのは大振拓人本人なのです」
このアナウンスを聞いてファンたちは自分のしでかした事をステージの裏にいるであろう大振に心から謝罪した。そして改めてステージを見たのである。ステージでは雛壇の上に次々と椅子が並べられていた。準備は着々と進んでいた。来るべき『春の祭典』はどのようなものになるのか。ああ!私も拓人と春の祭典を祝いたいわ!とファンたちは自分と大振の破廉恥なシュチュエーションを思い浮かべて恍惚となっていたが、その時突然ステージが真っ暗になり、そしてアナウンスが流れた。
「これより大振拓人演奏会『春の祭典』の上演にあたっていくつか注意事項をお伝えします……」
このアナウンスを聞いて大振ファンは一斉に気を引き締めた。髪型を整え、胸元をはだけさせるなど大振の登場に備えてステージに向かって自己アピールの準備を始めたのである。
やがてステージがまた明るくなった。そのステージをまずは『フォルテシモタクト・オーケストラ』の面々が続々と入ってきた。会場から一斉に拍手が起こる。しかしそれはオーケストラに向けられたものではない。今ステージの袖にいるであろう天才指揮者大振拓人に捧げられたものだ。一部の大振ファンがタクトタクトとその名を連呼し始めた。するとそれは瞬く間に会場全体に広がり、とうとう会場中の大振ファンが大振の名をユニゾンで叫び出した。
「タクト!タクト!フォルテシモタクト!」
そして遂に現代のカリスマ指揮者天才大振拓人がステージに現れた。それはもうもはやイエス・キリストの降臨そのものであった。ファンたちは大振拓人を目の当たりにして絶叫し、不幸にも何人かのファンが担架で会場の外まで担ぎ出された。大振は聴衆に向かって深く一礼し静かに指揮台に上がる。大振の公演は通常は二部構成でメインの二部の前に、いわゆる名曲集を中心に演奏する一部を置くのだが、今回は一部構成で、しかも三十分程しかない春の祭典一本なのである。この短すぎる本日のプログラムにファンは大振の本気を見たのである。大振はこの三十分で何をするのか。彼は春の祭典をどうやって作曲家のストラヴィンスキーの手から取り戻すのか。大振ファンは勿論彼の批判者も様々な思いと憶測を持って大振の挙動を見守っていた。
その会場の注目を一身に浴びていた大振拓人は指揮台に立ちひな壇から自分を凝視する楽団の面々を見た。大振はその楽団の視線に自分が晒し物にされたような感覚を味わった。指揮台に一人立つ自分は音楽の生贄だ。この春の祭典を演奏し終えたら自分はもはやこの世にいないかもしれない。だがそれもニジンスキーのために春の祭典を取り戻すため。やらねばならぬ。儀式のために何もかもを振り捨てて野蛮人とならねばならぬ。大振は絶叫し思いっきり指揮棒を振り下ろした。
管弦によって轟く不協和音の響き。それらが変拍子に乗って野蛮なリズムを作り出す。大振はそのリズムに乗って激しい歓喜の踊りを始める。この大振を見て会場は驚愕した。それはもはや二十一世紀のニジンスキーの誕生の瞬間だった。もしニジンスキーが踊り手として春の祭典に出演していればきっと世に想像もできない大ショックを与えただろうが、それはもう願望に過ぎない。だが今この場でその奇跡は指揮者大振拓人によって叶えられてしまったのだ。この衝撃的な出だしを聴いてすべての大振アンチは一斉に降伏宣言を出した。会場のアンチはさっきまで大振をバカにしていた事をすっかり忘れて歓喜し、ネット中継のアンチは一斉に謝罪文を載せた。こんな事は誰も想像できなかっただろう。ストラヴィンスキーを忌み嫌っていた大振がここまでの演奏をするとは!いや、これは大振の宣言した通り曲がストラヴィンスキーからニジンスキーのものになっていたとしたら……。今大振が激しく踊りながら演奏している春の祭典にはストラヴィンスキーの知的操作のかけらもなく、ニジンスキーによって表現された文明以前の真の野蛮さしかなかった。野蛮人の集団と化したオーケストラの咆哮。そのオーケストラの咆哮の中天真爛漫に踊る指揮者大振拓人。武道館は一気に野蛮人の儀式の場へと変わってしまった。
だが歓喜の瞬間はいつまでも続かない。野蛮なオーケストラに乗って踊っていたアドニスのような指揮者大振拓人。その彼をオーケストラは残酷にも生贄に指名する。ああ!と苦痛の声を上げる大振。生贄に選ばれしアドニス大振、絶望に燕尾服を掻きむしる。野蛮な儀式の開始を告げる前奏曲。生贄に選ばれし大振。髪を燕尾服の上着を脱ぎすてて振り乱した髪をそのままにステージを徘徊する。搔きむしりすぎてところどころ敗れたシャツから覗く大振の地肌にファンは興奮を隠せず、恍惚のため息を漏らす。ああ!これからどうなってしまうの?拓人生きて!との願いも空しく野蛮人どもはそのオーケストレーションでどこまでも生贄の大振を追い詰める。時折漏らす絶望の甘いため息。踊りすぎていつの間にか半裸になってしまったその体。今の大振にためらいはなかった。彼はもう心を裸にしたただの野蛮人と化しただオーケストラの咆哮に身を任せていた。そしてとうとう春の祭典を締めるラストの「生贄の踊り」が始まった。打ち鳴らされるオーケストラの咆哮が裸になれと叫んでいる。そう裸になってやるさ。もう俺は野蛮人なんだ!大振は今すべてを解放するために自分の全てを晒そうとした。生贄の踊りのクライマックス。オーケストラの生贄にされる大振。その大振のたくましい肉体にはもうビキニしか残っていない!その大振に向かって放たれたオーケストラによる無常の最後の一撃。その死の瞬間大振は「フォルテシモぉ!」と会場が轟くほど絶叫し、そしてビキニを取る!その瞬間オーケストラは危険を察して楽器を放り出して一斉に大振の元に駆け付けた。フルチンとなった大振の股間の前に手をかざして聴衆の視界を塞いだ。会場はもうはや阿鼻叫喚だ。もうかつての初演を遥かに超える大スキャンダルだ。ステージにはオーケストラによって股間を隠されたフルヌードの大振。その大振の股間を観客の視線から守ろうとするオーケストラ。そこに突如客席からステージに上がってきたのはあのアンナ・ババロワ。彼女はハリセンで大振の頭をひっぱたいて怒鳴りつけた。
「バカ!あなたバレエを何だと思ってるザマスか!バレエはストリップじゃないザマスよ!」
さてこれで何度目かの大恥をかいた大振であったが、彼は自身が自身のしでかした事を全く覚えておらず、翌日の新聞でその事実を知ったのであった。大振は新聞を読んで死にたいほどの屈辱を味わったが、意外にも新聞を始めとしたメディアは昨日の大恥をさらした『春の祭典』を大絶賛しており、これぞ新しいクラシックとバレエの在り方だと評するところさえあった。大振はあらゆる権力を使って昨夜の公演を世間からなかった事にしようとしたが、しかし大振のハルサイが起こした衝撃は彼が思ったよりも世間に深い衝撃を与え、彼が演じたコンセプトを真似してハルサイを上演するバレエ団が続出した。とある海外の有名バレエ団は大振がフルチンになろうとした生贄の踊りの無修正版を披露し大振にリスペクトを捧げた。