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ピカソよりも早熟だったある画家の生涯

 オリヴィエラ・ルイスはとんでもなく早熟な画家であった。彼は十歳で絵画の技法をほぼ習得しわずか十二歳でコンクールを総なめしスペイン国内で天才登場と騒がれた。しかし今現在彼について語るものはほとんどいない。そして彼の描いた絵画についても誰も語らない。なぜなら彼の絵はありきたりのつまらない写実絵画だからだ。彼は結局地方画家として生涯を終えたが、私が今ここでなぜ彼を取り上げるかというと、それは彼がピカソと同郷の生まれで少年のころはピカソよりもはるかに天才と持てはやされていたからである。

 ピカソがコンクールで金賞を取った作品に『科学と慈愛』という作品がある。この作品はピカソがわずか十五歳で書いた作品で彼の早熟ぶりを語るときによく取り上げられる作品だが、オリヴィエラ・ルイスはその前年にわずか十二歳で同じコンクールで金賞を取っているのだ。ピカソはこの早熟の天才を深く尊敬して父に隠れて彼に絵を学びに行っていた。オリヴィエラは自分よりも二歳年上のこの弟子に徹底的に写実技法を教え込んだ。そのおかげでピカソは翌年のコンクールで見事金賞を取った。

 しかしここからが彼らは別々の道へと行った。父を含めた一切の権威に反発し、アカデミーの道から外れ自らの芸術を探し求めてパリに向かったピカソとは逆にオリヴィエラはそのままスペインに残り忠実にアカデミーの道へと進んだ。彼は美術アカデミーで見事首席を取ったが、それが彼の栄光の終わりであった。

 彼の才能は少年時代にすべて燃焼しつくし残ったのはつまらない写実的な絵の描けるだけの技術力しかなかった。彼の芸術家としての感性も唖然とするほど古く、二十世紀に入ってもベラスケスやゴヤのような絵こそ絵画の本道だと言ってのける始末であった。時折彼はパリでかつての弟子のピカソの噂を聞き彼がキュビズムなる酷い絵を描いていることを本気で悲しんだ。あのような絵の描ける彼がなぜそのようなふざけた絵を描くのか。彼はピカソに向かって何度も芸術の本道に帰れと手紙を出した。しかしその彼のメッセージはピカソには届かず、ピカソはますますゲルニカやその他のオリヴィエラにとってくずのようなものでしかない絵を描き続けた。

 オリヴィエラは彼の言うクズそのもののような絵を描いているピカソが何故世間に持てはやされているのか生涯分からなかったであろう。彼はいつも自分のような本物の絵が世間に受け入れられないことを悲しんだ。世にあふれるのはキュビズムやシュールレアリスムや抽象画のような偽物ばかり。ベラスケスやゴヤやレオナルドのような本物の画家はもはや必要とされないのか。オリヴィエラはある日ふざけてキュビズムの真似事のような絵を描いで売ろうとしたが、それを見た画商に時代遅れのキュビズムの下手な物まねと思いっきりバカにされた。これに憤慨したオリヴィエラは二度と現代絵画を描くことはなく生涯地元の名士が部屋の飾り物として気まぐれに購入する程度の価値しかない写実絵画を描き続けた。

 そんな彼だったがかつての愛弟子のピカソの死には心から悲しんだ。やはり離れていても弟子は弟子。たとえ年上でも弟子は弟子。やはり唯一の弟子の死は悲しかった。地元の新聞はどこからかオリヴィエラの存在をかぎつけ彼にインタビューを試みた。彼はインタビュアーを快く引き受けて涙ながらに亡き弟子との思い出を語った。しかしインタビュアーがピカソの絵についてどう思うかと聞いた時それまで柔らかだった彼が急に険しい表情になり、唾を飛ばしながら泣き弟子ピカソの絵を痛烈に批判した。

「あいつは俺の弟子だったころは上手い絵を描いていたんだ!だけど俺のもとから離れた途端あんなごみみたいな絵ばかり描くようになってしまった。あんな酷いごみのような絵を描くならパリなんかにあいつを行かせるべきじゃなかった。それが俺の最大の後悔だ!」

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