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全身女優モエコ 第四部 第十九回:恐ろしき覚悟

 私は真理子からモエコがマンションから飛び出したと聞いて思わず電話を落としそうになった。とうとう恐れていたことが起きてしまった。彼女はきっと今日の撮影のプレッシャーと昨日味わった恐怖に耐えられなくて逃げ出してしまったのだ。私は震える声でかみまくりながら真理子に尋ねた。

「おい、まん、こ。いや、ま、真理子!モ、モエコはい、いつ出て行ったんだ!そ、それにバスローブって何なんだ!」

「ついさっきよ!起きたら一緒に寝ていたはずのモエちゃんがいなかったの。私は悪い予感がして廊下に出たら玄関のドアが全開になってるじゃない。私怖くなって慌ててマンションの玄関まで行ったの。したらそこに何故かバスローブ一枚羽織ったモエちゃんがいてタクシーに乗ろうとしてるじゃない!私は慌ててモエちゃんを呼んだ。だけど彼女は振り向きもしないでそのままタクシー乗って行ってしまったの!」

「何でバスローブ一枚で外出るんだよ!下は裸だって事じゃないか!モエコはそこまで追い詰められていたのかよ!おい、真理子心当たりはないのか!モエコのよく行きそうなとこはどこなんだ!」

「心当たり?」そう呟いたっきり真理子は黙ってしまった。私は受話器に向かって何度も真理子を呼んだ。すると真理子は涙声でこう叫んだ。

「心当たりって、たったひとつしかないじゃない!モエちゃんはあのスタジオに行ったのよ!」

「何でモエコがスタジオなんか行くんだよ!真理子お前も昨日のモエコの憔悴ぶりを見ただろ?なんでお前はあんな状態のやつがスタジオに行くなんて考えるんだよ!追い詰められて逃げ出したって考える方が普通じゃねえか!」

 真理子は私の言葉に黙りこんでしまった。しかしすぐに口を開いた。

「あのね、猪狩さん。私モエちゃんを全然わかっていなかったのよ。私昨日モエちゃんと話してやっと彼女がどういう人間かわかったの。あの子にとっては役を演じる事がすべてなのよ。そうしなければ生きていけないって信じきっているの。いい?猪狩さん。モエちゃんはね、私たちと違う人間なの。彼女は演じるためなら犠牲を惜しまないのよ。昨夜あの子はそうハッキリ私に言ったのよ!彼女は完全に杉本愛美を演じ切るためにわざわざバスローブを着てスタジオに向かったのよ!杉本愛美が体験したことを全て身をもって体験するために!ねぇ、猪狩さんお願い!モエちゃんを止めて!彼女にそんなバカなことさせないで!あの子を救えるのはあなただけなのよ!」

 私は真理子の話を聞いて急に体が震えてきた。私は昨日のモエコを見て火山モエコもやはり一人の少女であったかと思っていた。モエコでさえあの演技の名を借りた度重なる性的嫌がらせに傷ついたのだとただ単純に思っていたのだ。だがそれは違かった。たしかに彼女はあの性的嫌がらせに恐怖し傷ついたであろう。しかし彼女の火山のように燃える女優魂はそんな傷になど構っていられなかったのだ。私はこの時昨夜モエコと真理子に何があったか全く知らなかった。だが、この真理子の言葉でモエコがとんでもないことを実行しようとしていることに完全に気づいた。それはいかんぞモエコ!お前は女優のために何もかもを捨てる気か!私は電話の向こうの真理子に向かって言った。

「わかった。モエコは俺が救う。真理子すまないな。お前にもついてなきゃいけないのにな」

「私のことはいいからモエちゃんのことよろしくね!」

「ああ」


 私は電話を切ってすぐさまマンションを出て駐車場に置いてある車に飛び乗った。ああ!モエコのバカめ!バカアイドルの南狭一に処女を捧げる価値がない事ぐらいわかっているではないか!そんなもの俺が全力で止めてやる!モエコよ、なんでも本気で演じればいいってもんじゃないんだぞ!車は大通りに入った途端渋滞に捕まった。都会の目覚めは早い。まだ薄暗いのにもう街が動き始めている。ああ!モエコは今スタジオの中なのか。いや、今日のドラマの撮影は8時からのはずだ。そしてモエコのベッドシーンの撮影は一番最後の夜過ぎだ。もしかしたらモエコは警備員から叩き出されてしまっているかもしれない。ああ!そうだとしたら彼女はきっと今頃はバスローブ一枚でどこかで震えているかもしれない。ダメだモエコ!そんな姿で外にいたら死んでしまうぞ!私は焦りのために何度もクラクションを鳴らした。そうしてやっとスタジオの前まで来ると私は車を道路に止めるとすぐさま門の警備員に尋ねた。

「モエコは来てませんか?」

「はぁっ?モエコぉ?アンタいきなり何言い出すんだ?」

「モエコは来てないかって言ってんだよ!」

「あなたお酒でも飲んでるんですか?ここはあなたの自宅じゃないですよ」

「何が酔っぱらいだ!俺は火山モエコのマネージャーの猪狩だぞ!いるんだったら今すぐ案内しろ!」

 火山モエコの名を聞いた途端警備員が目を向いて私を見た。

「火山モエコ?ああ!さっきバスローブ姿で中に入れろって暴れてた女か!あのガキモエコは女優の火山モエコさんなのよ!あなたそこをどきなさいよ!とか言っていきなり中に入っちまったんだ!いやぁ、困ってたんだ!スタジオ開いてないから帰ってくれって言ってもモエコは女優なのよとか言って全然聞かんし、だからっていってバスローブ一枚の女を無理矢理追い出すわけにもいかんし、事務所に連絡しようにも電話番号知らないしどうしたもんかって悩んでいたんだよ……」

「おしゃべりはいいからさっさと俺をモエコに会わせろ!」

「なんだその態度は!たかがマネージャーのくせに俺に指示するな!」

「うるさい!いいからさっさと門を開けろ!今は緊急事態なんだぞ!」

 私の勢いに怖気付いたのか、警備員は渋々門を開けて私を中に入れた。警備員は恐らくモエコが自分の楽屋にいると言ったが、言われなくても私にはわかっていた。私は門の中に入るとすぐさまモエコの楽屋に向かって走り出した。ああ!モエコよ!早まるなよ!先の方にモエコの楽屋が見えてきた。明かりは点いていた。ということはまだ楽屋にいるはずだ!私は楽屋のドアを思いっきり開けてモエコを呼んだ。

「モエコ!迎えにきたぞ!今すぐに俺と今すぐマンションに帰るんだ!」

 しかし楽屋には誰もいなかった。ただがらんとしていた。いったいこれはどういうことだ。明かりが点いているのに誰もいないとは。まさかシャワーを浴びているわけでもあるまい。バカモエコめ!いったいどこをほっつき歩いているというのだ。その時遠くの方から微かに扉を開けるような音がした。私が耳を澄ますと突然女の声で「開きなさいよ!女優の火山モエコさんのご入場よ!」と言っているのが聞こえた。まさかモエコのやつ今日の収録現場の第四スタジオにいるのか?しかしまだ第四にはまだ誰もいないはずだ。モエコよ!お前は何を考えているんだ!

 私は大急ぎで第四へと向かった。ああ!モエコよ!お前はどこまで暴走すれば気が済むのか!そうして私は第四スタジオの前まで来て止まった。ドアは先程モエコが強引にこじ開けたせいで半開きになっていた。そのドアの隙間からは微かな明かりが漏れていた。モエコはやはりここにいるのだ。しかしモエコは誰もいないスタジオで何をやっているのか。自分の収録時間までずっとそこで待っているというのか。私は先程真理子が話した事を思い出した。全く馬鹿げたことだ。ベッドシーンで本番なんかやる人間は滅多にいない。たまにそんな噂がまことしやかに語られるだけだ。一旦本番をやったら最後あまりに純粋でものを知らないモエコは一気に破滅する。南の毒牙に噛まれて芸能界の深い穴の中に引きずり込まれて全てを失ってしまう!私は上がる息と心臓を落ち着かせると開いているドアの隙間からそっと中に入ってモエコを呼んだ。

「モエコ、ここにいるのか?いたら返事しろ!」

 しかし返事は返って来なかった。スタジオ内は四方の非常口の蛍光灯だけが点いていた。蛍光灯の光で微かだが、中の様子が確認できる。正面にはすでにセッティングされている上代家の食卓。その手前に並んでいるカメラ。そこから離れたところに並ぶキャストやその関係者が座る椅子。さらに手前には黒き人影。私はハッとして人影を見る。こちらに背中を向けたバスローブ姿の長髪の女。彼女は顔を上げて天井を見ている。恐らく天井に並ぶ照明器具を見ているのか。しばらくすると女は肩に手をかけてバスローブをずらした。微かな光に照らされて露わな女の肩が仄めく。

「おいモエコ!こんなところで何やってるんだ!」

 私の声に驚いたモエコは慌てて肩をバスローブで隠すと後ろを振り向いた。

「何やってるじゃないわよ!アンタこそ何やってるのよ!この天然美少女のモエコをこっそりつけて覗きなんて一体どういう趣味してるのよ!」

「バカやろう!なんで俺がこっそりお前なんかの覗きなんかしなくちゃいけないんだ!俺は真理子からお前がマンションからバスローブ姿で出て行ったってきいて慌ててこっちにきたんだぞ!さっきもお前を呼んだじゃないか!聞いてなかったのか?」

「聞いてるわけないでしょ!モエコはずっと愛美ちゃんとお話ししてたのよ!全くアンタが覗きにきたせいで愛美ちゃん恥ずかしくてどっかに行っちゃったじゃない!どうしてくれんのよ!」

「どうするもこうするもあるか!大体なんだお前は!バスローブ姿でマンション飛び出した挙句開いてもいないスタジオに無理矢理入ったりして!」

 ここで私はいったん話を切ってモエコを見た。モエコは本当に全てをやり遂げるつもりなのだろうか。だとしたらそんなことは今すぐにでもやめさせなければならない。だがいざ本人を目の前にするとどうしてもためらいが生じてしまう。答えが怖いのだ。何故ならモエコは確実に……。

「なんなのよアンタ。そんな問いたげな顔してないで言いたい事があるならハッキリ言いなさいよ!」

 モエコからこう聞かれてはもう聞くしかなかった。

「さっき真理子からお前がバスローブ姿で家を飛び出したって連絡が入った時、彼女はお前の事を心配して昨日お前と交わした会話の事を全部話してくれたんだ」

「何故真理子がアンタに……あれは真理子だから全部話したのに」

「そんなことはやめろモエコ!お前は台本通りに演じればいいんだ!それ以上のことは絶対にするな!」

「台本通りに演じろ?そんなの当たり前じゃない。アンタ何言ってるの?」

 私はもうハッキリと言ってやった。

「俺は南狭一とベッドシーンでセックスなんてするなって言ってんだよ!お前はただ監督の指示に従って事をこなせばいいんだ!本気でセックスをしろだなんて誰も言っちゃいない。大体濡れ場で本気でセックスをする人間なんかポルノ女優でもいないんだぞ!」

 モエコは私の言葉を聞くと異様に目を剥いて私を見た。そしてキッと私を睨みつけて彼女は言った。

「監督の指示に従え?セックスしろだなんて誰も言っていない?ポルノ女優でも本気でセックスなんかしない?……それがどうしたって言うのよ。そんな事モエコには関係ないのよ!確かに経験済みの他の女優さんだったらセックスしなくても演技はできるわよ!だけどね、処女のモエコには出来ないのよ!モエコはいまだに男というものがわからなくて、ベッドシーンだって何を演技していいんだか全くわからないのよ!そんな人間が監督の指示のままに動いてちゃんと演じられると思うの?モエコはロボットじゃないのよ!モエコの演じる杉本愛美ちゃんだって血の通った人間なの!その愛美ちゃんが初めて愛を知る大事な場面をそんなロボットのように演じられるわけないじゃない!モエコは愛美ちゃんなのよ!愛美ちゃんの苦しみや痛み、そして愛や喜びを全て演じなきよダメなのよ!」

「だからってお前は役のために自分を犠牲にするのか!冷静になって自分の事を考えろ!いずれお前も将来普通の女の子として恋をするんだぞ?恋をして成長して結婚して子供を産んで、そんな人間として当たり前の未来が待っているんだぞ!それなのにたかがドラマのワンシーンを演じるために自分の大事なものを投げ捨てていいのか!捨てた後で後悔するのはお前なんだぞ!」

 私はもう藁でも絹でもいいからとにかく思いつく限りの事を言ってモエコを説得した。モエコは私の言葉を目をつぶって聞いていた。私はその彼女の態度に彼女の決意が僅かながら揺らいでいると感じこのまま押し通せばモエコを止められるかも知れぬと感じた。だが、モエコは一旦こう決めたら誰の言葉も聞くような人間ではなかった。

「フフッ、アンタも真理子と同じこと言うのね。人間として当たり前の未来か。だけどね、モエコは火山モエコなのよ!女優のモエコがどうしてベッドシーンの後悔なんてするの?これはモエコが本物の女優になるためにシンデレラが、カルメンが、そして杉本愛美ちゃんが与えてくれた試練なんだわ!」

 私はゾッとしてモエコに言った。

「モエコよ!冷静になれ!お前は興奮のあまり我を見失っているんだ!」

 モエコは暗闇の中で私を憐れみの目で見た。私はそのモエコの表情が恐ろしくて立ちすくんでしまった。

「モエコはこれ以上ないくらい冷静よ。あのね猪狩さん、モエコはね、人間である前に女優として生きる事を選んだの。そう、あの噴火で村から東京に飛び出した日からずっと。だから今のモエコは人間である前に女優火山モエコなのよ!だからごめんなさい。あなたたちの説得は聞き入れられないわ」

 モエコがこういう人間になるまでに至った理由は悲惨極まりない家庭環境や、あの不幸な事件を生んだお友達遊びから容易く説明できると人はいうだろう。その悲惨な環境から逃げ出すためにもう一つの自分を作り出した。そんな物語を拵えるのはさほど苦労はしない。実際にモエコは現実から虚構の女優火山モエコというペルソナに逃げたのだと考えられる。だが、モエコの場合はそのあまりに途方もない才能によって自ら作り出した女優火山モエコなるペルソナを生きた現実として最期まで演じ切ったのである。

 私はモエコの神々しささえ感じるこの堂々たる女優宣言を聞いて足が震えるのを抑えきれなかった。モエコは私の肩に手を当てて言った。

「もうすぐみんなが来るから早く楽屋に戻りましょ」


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