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殉死

徳川家綱が将軍だった時代の頃の話である。某藩を治めていた殿が死んだ三日後に家老を代表とする重臣は殉死するために城に集まった。彼らは殉死の日取りを決めるために集まったのだが、その時家老の田原昌綱がその場にいた重臣たちに覚悟を問うたのだった。

「各々方、殉死は明後日になる。拙者はもうこの世に未練はないが、その方らはどうだ。この後に及んでもこの世に未練があるのならその腰元に差している刀を置いてここから出てゆくがよい。そのようなものはもはや武士ではない。出家して坊主にでもなるがよい。さぁ、我と一緒に殉死したいものはここに血判をして殿に誓うがよい。我ら一同殿の下に参りますと」

家老に促されて重臣一同は目の前の白紙に次々と名前を血判を押していった。そして家老を除く重臣が血判を押し終わると家老は血判を確認して皆に言った。

「各々方の覚悟しかと受けとった。明後日に白装束姿で会おう!」

昌綱は城を出て自分の屋敷に帰るとまっすぐ金庫に向かった。彼は皆に誓った通りこの世に未練はなかったが、死ぬ前に最後に最後にやっておきたい事があったのである。今まで武と学問一筋に生きていた彼は女遊びなど碌に知らなかった。下僕に遊び人の伝助というものがいるが、その男が藩や江戸の風俗街で女郎にあんなことやこんなことされたという話を自慢げに話でいたのを小耳に聞いているうちに自分も一生に一度はしたくなったのだった。そうして金庫のある部屋の前に着いたのだが、間の悪いことに妻の佐代がいた。この佐代は亡き殿の腹違いの妹であり。昌綱は立場上いつも頭が上がらない。しかし今日は違う。昌綱は妻に向かって明後日の殉死に備えて未練を捨てるために風俗街に行く事を正直に話し、続けてこう言った。

「これも、明後日の殉死に備えてすべての未練を断ち切るため。武士の情けと思って止めてくれるな」

佐代は夫の言ったことを聞いて腹が立った。あんたが死んだら後に残された私はどうなるのよ。彼女は頭にきて夫の首を摘んで座敷牢に閉じ込めてしまった。

そして明後日である。重臣一同が白装束を着て登城して例の一室で家老の到着を待っていたのだが、いつまで立っても家老が来ないではないか。彼らは家老が逃げたのか、言い出しっぺが逃げるなんてとんでもないと思ったが、しかし彼らは亡き殿への忠誠を誓うために気が萎えないうちに切腹しようと、各々裾から紙を取り出して辞世の句を綴ると一斉に切腹してしまった。

しかし彼らはなんと間が悪い時に死んでしまったのだろう。彼らが殉死を決めてから二日間の間に武家諸法度が交付され殉死は禁止になってしまったのだ。だから亡き藩主の養子であった新藩主は殉死の責任を追求するために使いを出して家老に問いただした。

田原昌綱は使いから重臣たちが殉死したことと、武家諸法度が交付されて殉死が禁止になったことを同時に聞かされ呆然としてしまった。自分はなんと恐ろしいことを考えたのか。亡き主君を思うあまり殉死などとんでもないことを考えるとは。彼が血判状を使いのものに見せて泣きながら叫んだ。

「ああ! あの者たちはなんと愚かしいことをしてしまったのか。あの者たちは一昨日こんなものを拙者によこして殉死すると言っていたのだ。拙者が説得しても殉死すると言って聞かなかった。バカな奴らだ! 血気に逸って愚かなことを! 見よ! この血判状を! 奴らは自分たちだけじゃなくて拙者まで殉死に誘ったのだ。わざわざ拙者のところを白く開けておいてからに! 全く愚かなことだ! というわけで奴らの切腹には拙者は一切関知してない。拙者はすぐに登城するが、まずはそなたが殿に拙者が奴らに殉死をそそのかした事実がないことを申し伝えよ!」

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