見出し画像

末期の夢

 別に春でもないのに、周りが暖かく感じた。季節は冬。なのに妙に暖かい。私はこれが人生の終わりかと思い、そっと目を見開いた。すると目に映ったのは息苦しいほどの灰色の病室ではなく、小学校から中学まで通ったあの中華料理店であった。

 小学校の時両親からもらった小遣いで初めて外食をしようと、わざわざ川向こうの他県の栄えている町まで行った。それは初めての外食なら豪華なものを食べようという子供らしい見栄からでもあった。その時のことは未だに目に焼き付いている。中華料理店特有のいろんな薬味の匂い、大勢詰めかけた客。私は正直に言って中華料理店の匂いも混雑も苦手でそういう所は常に避けていたが、この店だけは何故か立ち去り難かった。私を見とめて席においでおいでをしてくれたおばあちゃんの優しさ。私は連れて行かれるがままに席に座らされそしてメニュー表を見せられたのだ。ああ!その時だ。私が相席していた客の前にやたらにどんぶりのでかい大盛りの味噌ラーメンが置かれたのだ。そのラーメンは見ているだけで涎が出てきそうだった。私も食べたくなって思わずおばあちゃんにラーメンを注文してしまったのだ。

 だが小学生の私には大盛りの味噌ラーメンは食べ切ることが出来なかった。半分以上残してしまった。だけど麺を一口入れた時のツルツルしたしこり。味噌のあったかい味。上に乗っかったニラともやしとひき肉の油の野菜炒めは絶品だった。だから私は尚更おばあちゃんに申し訳なく思って泣きながら謝った。自分に誓った。今度こそ完食してみせると。

それから私はあの中華料理店に行く時は朝から何も食べずに行くようになった。あの満腹味噌ラーメンなら朝昼は充分にカバーできた。夕食でさえ必要ないと思った。汚い労働者と中華料理店の薬味の匂いに耐えてむしゃぶりつく味噌ラーメンのなんと美味かったことか。だが、都内の高校に進学してからあの中華料理店に行かなくなってしまった。都内には有名ラーメン店がたくさんあり、中華料理店のラーメンなど見向きもしなくなってしまった。しかし、私はある時ふと中華料理店を思い出し久しぶりにあの大盛りの味噌ラーメンを食べたくなった。それで私は日曜日に自宅から自転車を漕いで隣の街へと向かった。あの中華料理店は駅東口のテラスの階段を降りた所にあった。私は西口からテラスへ上がりそのまま駅を東口へと抜けた。久しぶりに見るこの街はあまり変わっていなかった。ならばあの中華料理店もまだあるはず。そう思って私は中華料理店のある階段を降りたのだが、そこにあったのは悲しい時の流れであった。あの中華料理店の派手な看板はなく、代わりにあったのは某有名ラーメンチェーン店の貧相な看板であった。客はうんざりするほど入っていたから営業不振とかではないだろう。恐らくおばあちゃんも、厨房で料理を作っていたおじいちゃんも年のせいか、あるいはもう亡くなったかで店を閉めざるを得なかったのだ。

 私はこの有様を見て自らのバカさ加減に呆れ果てた。ああ!お前が脳天気に野菜マシマシとか言っている間に店が潰れてしまったぞ。もう二度とあのあったかい味噌ラーメンは食えないんだぞ。ああ!後悔してももう遅い。食べられる時に存分に食べておけばこんなに後悔することもなかったのに。

 今とっくの昔に潰れた中華料理店がこうして再び私の前に現れたのは人生がもう終わりの時がきているからだろう。この年だけは無駄に長く過ごした人生の中で末期に見るのが子供の頃に食べた中華料理店だなんて侘しいにも程がある。だが私はもうそんなことはどうでもいい。ほら、おばあちゃんがあの頃のように私を呼んでいる。「いつもの味噌ラーメンね」なんて言っている。早速出された大盛りの味噌ラーメン。パリッと割り箸を割って。いつもうまく割れない割り箸。だけど私はそんなこと気にせず、箸をラーメンに突っ込む。店の奥に白く写るのは天国への長い階段。私はこれが最後の晩餐と一口一口噛み締めて声を上げる。

「まいう〜!」


「おい、なんだよこの酔っぱらいうちの店に寝やがって。なんだよ。まいうって気持ち悪い呻き声は」

「いやそれどころじゃねえだろお前。ちょっと臭い嗅いでみろ。異常に臭くねえか?」

「確かに……ってああ!コイツウンコに頭突っ込んで寝てんじゃねえかよ。とんでもねぇ焼き味噌野郎だ!」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?