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《長編小説》小幡さんの初恋 第二十六回:翌日の土曜日

 早朝に目覚めた鈴木は、体を起こしても特にふらつくこともなく、また頭痛もなく、昨日の酔いが残っていないのに驚いた。ずいぶん飲んだはずだがと鈴木は思ったが、冷静に考えて見ると自分が飲んだのは六杯程度で別に酔っ払うほどの量ではない事に気づいて苦笑した。しかし昨夜あれだけのことがあったのにこうして熟睡できたのはどういう事なのか。飲み会も、その後の小幡さんの家で起こった出来事もきれいさっぱり消えてしまったようだ。鈴木は小幡さんはあれからどうしたのだろうかと思った。あのまま置き去りにして悪くはなかっただろうか。せめて布団ぐらいはかぶせておくべきだったのか。酔の覚める時は急激に冷える。小幡さんになんにもなければいいのだが……。とはいってもこちらから電話をするのはまずいと鈴木は思った。大体自分からは一度も電話をかけた事はないのだ。鈴木は入社する時小幡さんからなにかあった時のために彼女の携帯の電話番号をもらっていたが一度もかけた事はない。逆に小幡さんから一度だけ電話をもらったことはある。彼が寝坊して遅刻した時だが……。

 鈴木は体調も悪くなかったので毎週土曜日恒例のサイクリングに行くことにした。そう決めると早速シャワーを浴びに行き、シャワーを浴びるとランチ作りに取り掛かり、そうしてランチをすべて作り終えると出発の準備をはじめた。彼はふとクリーニングに出す衣類の袋を見て昨夜の事を思い出した。それでまだ吐瀉物のカスが残っていないか確認するためにシャツとスーツをそれぞれ持ち上げて広げて確認した。ざっと見るとカスなどは残ってないようだ。彼はシャツのシミを見て昨夜の小幡さんの告白を思い出し痛ましい気分になった。昨夜は思わず彼女の話に付き合ってしまったが、それで良かったのだろうか。小幡さんと自分は会社の同僚とはいえ、赤の他人に過ぎない。そんな自分があんな話を聞いて良かったのだろうか。やはりこういう話は彼女と深い信頼で結ばれているものしか聞いてはいけなかったのだ。しかし、こう思った瞬間、彼は小幡さんが最後に発したあの言葉を思い浮かべた。鈴木はハッとしていかんいかんと頭を振りすぐさまシャツ類を戻すと袋を持って駆け足で外に出た。

 サイクリングの前にクリーニング屋に行って衣類を預けねばならなかった。鈴木はロードバイクに乗って近くの朝早くからやっているクリーニング屋へと向かった。この店は婆さんがひとりでやっているのだが、鈴木はいつもこの店を避けていた。なぜならこの婆さんはやたらと人に話しかけて来てうるさいからだ。しかし今日は明日息子が来ることもあり、本日中に出さねばならない。それで仕方なくこの店に行くことにしたのだ。クリーニング屋の戸に営業中とダンボールの切れ端で作った札がかけられていたので鈴木は戸を開けて中に入った。中に入ると同時にベルが鳴りしばらくして婆さんがカウンターに現れた。

「あ~ららお久しぶり。うちの店に来るなんて何十年ぶりでしょうかね」

「何十年?いや、私がここに住み始めたのは二年前からですが……」

「あ~ら、やだわ。人の冗談を真に受けちゃだめよ!」

 相変わらずの調子である。これが嫌で鈴木はこの店にいかなくなったのだ。彼は無言でカウンター衣類の入った袋を差し出した。

「まあ、ずいぶん沢山!それじゃ一枚ずつ見ていきましょうかね」

 それから婆さんは衣類を一枚ずつチェックしていった。そうしながら婆さんはいちいちこりゃだめだとかあ~あとか言って鈴木をイライラさせたが、その婆さんがびっくりした表情して突然鈴木に昨夜来ていたシャツを広げて見せたのだ。

「キス……キスマークじゃないの!ああ~!なんてもの持ってくるのよ!恥ずかしいわ!キスマーク付きのシャツなんて見たの久しぶりよ!ああどうしてくれるのよ!おばあちゃんの私にこんな物クリーニングしろっていうの?まあ、お酒の匂いがプンプンしてるし、どうせ殿方のお遊び何でしょうけど。で、どこのお店でこういう事をいたしたの?」

 鈴木は婆さんが見せた自分のシャツを見てびっくりした。たしかに胸のあたりに薄いピンクのキスマークがハッキリとついていた。しかしさっき見た時何故気づかなかったのか。こんな大事なことに!これは恐らく小幡さんが自分に抱きついたときにつけたものであろう。しかしまさか小幡さんが口紅なんかつけていたとは。彼女はいつもすっぴんだったはず。なぜ昨日はメイクなんてしていたのか。

「お客さん、私の言う事聞いてます?私はどこでこういう事をいたしましたのって聞いてるのよ。ああ!亡くなった主人も私に隠れてこっそりあなたのような事をしてましたの。それがわかったのは主人が亡くなって遺品整理していた時よ。押入れの中からそういうお店の名刺がごっそり出てきたの。ねえ誰にも言わないから私に教えなさいよ。割引しますから」

 鈴木は自分のシャツに貼り付いた小幡さんの口紅を見た動揺と、この下品でしつこすぎるババアに対する怒りで耐えられなくなってババアを思いっきり怒鳴りつけた。

「人聞きの悪いことを言うのはやめてください!私は今まで一度もそういう類の店には入ったことはありません!そのキスマークは昨日会社でやった飲み会で同僚の女性がつけたものです!」

「まあ!じゃあ、あなたはその同僚の女性と出来てるの?不倫でもしてるってことなの?ああいやだわ~。男っていつもこうなんだから!」

「違う!違う!そんな事はない!私も彼女も独身だからそんな事はない!」

「独身だからって若い女をたぶらかしていいと思ってるんですか!私許しませんょ!」

「違う!違う!あなたはどうしてそこへ持ってゆくのだ!私の話をちゃんと聞きなさい!」

 鈴木はババアにとりあえず事情を説明したが、ババアは納得のいかない表情で彼の話を聞いていた。そしてとりあえず追加でシミ抜きの代金を払い衣類を預けて店を出た。


 店を出ると鈴木はロードバイクを漕いで土手へとむかった。今日は先週に比べれば気温が低くいかにも春らしい気温であった。彼はまずはゆっくりとスタートしたが、少し走って体調に問題がないことを確認すると本格的に速度を上げて走りはじめた。足の筋肉に心地よい痛みが走る。鈴木はさらにスピードを上げた。風が体に纏わり付き、次々と景色が変わってゆく。そうしてひとしきり走ると彼は休憩して早めのランチを取る事にした。

 彼は敷物を広げると土手に座って下でやっている草野球を眺めながらランチを食べた。その時再び昨夜の小幡さんの事を思い出したのである。彼女はあそこまで深い闇を抱えているとは思わなかった。いつも元気な小幡さんと会社の連中に言われている彼女だが、その内面は底知れぬ闇に覆われていた。しかしそれを知ったところで他人でしかない自分には彼女を救う事は出来ない。あの夜彼女は自分に向かって自らの過去を話した後、自分の事をお父さんと呼んで抱きついて来て、さらに妙に甘い声で自分の名前を挙げて「鈴木さん……大好き」と言った。だがそれはあくまで酔った末の行動だ。大体最後にあまり声で自分の事を好きだと囁いたのは寝言だったではないか。ああ!やめてしまえ!きっと小幡さんは昨夜の事など忘れているはず。月曜日までこんな事を引きずっていたらろくでもない事になる。しかしそうやって無理に忘れようとしても忘れられるものではなかった。彼はランチを食べ終わると物思いを振り切るようにシャンと立ちすぐにサイクリングを再開した。彼は全速力で疾走したが、プールの施設の建物を見とめて足を止めた。

 先週の土曜日にあの中にあるプールで小幡さんとバッタリ出くわしたのだ。彼女はまるでいつもと違い飛び魚になったかのようにプールの中を駆けていた。亀の甲羅のような制服を脱いでその見事なプロポーションを晒して……。小幡さんは今何をしているのだろうか。多分今頃は二日酔いで苦しんでいるはずだからプールには来ていないだろう。彼女は昨夜の事を覚えているのだろうか。いや、あんな事は忘れて仕舞えばいいのだ。ああいう話は自分ではなくもっと近しい人にすべきなのだ。例えば恋人とか……。鈴木はこう思ったところで自分の胸が急に波打つのを感じた。まさか、いやまさかそんな事はあるまい。大体自分は還暦間近の人間だ。今更そんな感情を持つはずがない。だが彼は無性に彼女が心配になりそしてその声が聞きたくなった。彼は無意識にバッグからスマホを取り出した。しかしその瞬間突然スマホが震え出した。まさか小幡さんからかと鈴木は思い慌てて電話に出た。

 明日来る彼の息子からの電話だった。息子は鈴木に明日そちらに行くが大丈夫かと聞いてきた。鈴木はしばらく黙った後で大丈夫だと答えた。

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