見出し画像

居酒屋銀次郎

「銀ちゃん、非常事態宣言も解除されるのに店閉めちまうなんて私辛いよ」
「仕方がねえさ。居酒屋なのに酒出せなくなったんだから」
 そう言うと銀次郎は小皿におつまみを乗せて常連客の女に差し出した。もう酒すら出せない。それは誇張ではなくて本当のことであった。今彼女の前に置かれているのは水を入れた徳利と先程出されたおつまみだけだ。最後の晩餐がこれだなんて泣けてくる。女は居酒屋銀次郎を閉店にまで追いやった新型コロナを憎んだ。しかし店主の銀次郎は女の愚痴に同意するわけでもなくただ笑って流していた。別にいいってことよと銀次郎はつぶやいた。女はそんな銀次郎がいたたまれなくなって万札を置いて店から出て行こうとした。しかしその女を銀次郎は呼び止めた。
「ちょい待ちな」
 人生を噛み締めた演歌歌手のような低音のよく響き渡る声が女を引き止めた。
「実はさけあるんだ。今まで常連で来てくれたアンタへのせめての感謝だ。年代もののさけをやるぜ」
 女は銀次郎に向かってタダじゃもらえないよと断った。しかし銀次郎はどうしてもアンタに奢りたいんだと言って聞かなかった。女は銀次郎の説得に負けて再び席に座った。銀次郎は女が彼の頼みを聞いてくれたことが嬉しかったのか、その厳しい口元を綻ばせて微笑んだ。銀次郎は女にちょっとさけとってくると言っておくに引っ込むと紙で包んだものを持ってきて女に渡した。
「コイツがアンタにあげたい年代もののさけさ。もう俺には必要ないものだからな。今までありがとうな。アンタのおかげだよ。今までこうして店をやってこれたのは」
「銀ちゃん、せめてこのお酒を二人で飲みたいわ」
「いけねえよ。このさけは俺にはもうキツすぎるんだ。包みをとっただけで変な気分になっちまう」
「銀ちゃん、今夜は私も変な気分になりたいわ」
「いや、いけねえよ。そいつぁうちに帰って開けて楽しんでくれよ」
「銀ちゃん、それが長い付き合いの私に対して言うことなの?銀ちゃん包み開けるわよ!」
「バカやめろ!ここでさけの入った袋開けんじゃねえ!」
 袋を開けた途端店内には激臭が漂い、蝿が一斉に飛び出した。女はぎゃーと叫び男に向かって袋の中身をぶん投げて叫んだ。
「バカヤロ!なんで人にこんなもの寄越すんだ!これ酒じゃなくて鮭だろうが!」

「いや、すまねえ。一年前鮭の塩漬けに挑戦して失敗したんだ。だけど捨てるに捨てられなくておまけに蝿の住処になっちまって。そんな時に思いついたのがアンタさ。アンタさけだったらなんでも好きだって言ってたし、どうだい?いつもの酒じゃなくてこっちの鮭も試してみねえか?」



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?