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【第6回】「渋い」の言葉が発光したのを見た|言葉とこころの解剖室

言葉から人の心やコミュニケーションのヒントを紐解きたい。その思いから『言葉とこころの解剖室』というシリーズものを書いています。

無意識に使う言葉や、言葉に対する感覚から「自分」を知り、言語コミュニケーションを通じて「相手」を知ることができます。決して正解のない世界ではあるものの、言葉という高度な道具をできる限り大切に、そして有用に使いたい。

執筆業に携わる者としても、いち人間としても、言葉と心をもっと追求したい!ここは言葉やコミュニケーションを分解、分析して明らかにする「解剖研究」のお部屋です。

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今までずっと「渋い」という言葉に強い嫌悪感を抱いていた。

自分の好きなもののことを話すと、相手から「渋い」と言われることが多かったからだ。「渋い」という言葉には、いい意味も悪い意味もある。しかし今の今まで、どうも悪い意味に感じられる場面ばかりだったので、嫌な感じがする言葉だった。

わたしの趣味嗜好は、古く年季の入ったもの、好き嫌いが分かれやすくクセのあるものなどが多い。映画や音楽はとくにそうで、流行のものに興味がもてず何十年も前のものに惹かれることも多い。食べ物やお酒などの味覚嗜好もジジ臭いし、好きな有名人はおじさんかお爺さんばかりである。

昔から、好きなものの話をすると、驚かれたり、疑問を抱かれたり、怪訝そうな顔をされたりする。それはときに、冷笑やからかいの対象になった。

「渋い」という言葉は、解釈が難しい言葉のひとつかもしれない。渋いには、4つほど意味がある。

①苦味が強くてまずい様(渋柿、渋いお茶 など)

②動きがスムーズでない様 (錆で引き戸が渋くなる)

③ケチである様(支払いを渋る、渋い客 など)

②はあまり一般的に使われなくなっているような気がするけれど、①や③は普通に使われる言葉のように思う。ただ②は、動きが自然でないという意味も含むような気がするので、そういう意味では使われているのかもしれない。

不満そう、不機嫌、好ましくない様を「渋い」と表現することもあるのだとか。改めて調べてみてわかったけれど、なんともマイナスな意味の多い言葉だ。

一方で、プラスの意味もある。

④落ち着いている、趣がある、地味だけど味わい深い、など

このように、そのものの良さを表現する場合にも使われる。相手に対して面と向かって「渋いね」と言うのは、純粋な誉め言葉で、プラス表現として使っていると思いたい。

でも、実際そうではないこともある。渋いという表現に「女性に似つかわしくない」「変わり者」「年齢にそぐわない」というニュアンスを感じることもある。むしろそっちの方が多かった。

ネガティブな意味を持つ言葉の使い方

「渋い」という言葉に限ったことではないが、マイナスとプラスの両方の意味をもつ言葉を使うときは、コミュニケーションの中で「どちらを指しているのか」「どちらの意味合いが強いのか」が明確にわからないと、互いの心がすれ違うのではないかと思う。

言葉一つの問題ではなく、複数の意味にとれる言葉は、前後に使う言葉の配置やニュアンスが、印象を大きく左右する。

たとえば、のエピソードを挙げてみよう。わたしは、父親の影響で幼いころから古い洋楽に触れていた。ジャクソン・ブラウンやカーリー・サイモン、ビートルズ、ボブ・マーリィ、ボブ・ディランなど。

自分で音楽を探すようになってからも、相変わらず古いものの方が好きだった。友達の影響で日本のポップスに触れた時期もあったがそれは一瞬のことで、1960年代~1980年代あたりに興味が走っていった。

そのため同年代の友達と音楽で繋がることはできなかったし、話しても通じない。「音楽が好き」という共通点が見つかっても、なかなかピンポイントで共有できる場面はなく、渋いの言葉の後には「おじさんみたいだね」「本当に〇歳なの?」みたいに、若干のからかいや冷笑を加える人が圧倒的に多いのだ。カッコつけていると思われていたかもしれないし、実際そう見えたのかもしれない。(書いていたら、本当にそうだったのかもしれないような気持ちにまでなってきた)

同年代の若者だけではない。自分より年上の人に古いものが好きだという話をしても、仲間に入れてもらえることはあまりなかった。「もっとフレッシュに生きようよ」「年頃の女の子なんだから」なんて言われて、相手にされなかった。そういうことがあって、わたしは自分の好きなものの話をすることがどんどん減っていった。

趣味の話に限らず「自分の想像と違う」ことや「一般的なイメージにそぐわない」「良さがわからない」などの意味を「渋い」の言葉に、くっつけて並べられる。それがとても嫌だったのだ。

「古い」という言葉も、その意味は多岐にわたる。「古風である」「年期が入っている」「歴史が深い」「受け継がれている」と捉えればプラスに受け止められるが「時代遅れ」「廃れたもの」という意味に捉えられても不思議ではない。

古いものの良さを知らない、そのものの良さがわからない人からすると、古いというだけで「陳腐なもの」と感じられることも多いのだ。

「古くてつまらない」なのか「古くて趣がある」なのか。「渋く好ましくない」のか「渋くてかっこいい」なのか。そういう、細かいことにわたしは逐一引っ掛かり、こだわってしまうのだ。

言葉の配置と単語数、その総合的なチョイスが人とのコミュニケーションを左右するのは確かだと思う。

「渋い」という言葉が光ったのを、はじめて見た

最近、音楽系の電子書籍を書かれている作家さんと、久しぶりに音楽の話をした。最近聞いている音楽は何かと聞かれたので、正直にバンド名を答えると彼はこう言ったのだ。

「渋いなぁ……へぇ、こういうの聴くんですか」

ただそれだけ言った。そのあと彼は勝手に自分の好きな音楽のことを語り出した。

とくに「いいですね」とか「カッコイイですね」などの褒め言葉はなかったし、共感も得られなかった。でも「見かけによらず」とか「あなたの年齢で」とか「女性なのに」とか、そういう主観も、一切なかった。

自分が本当に好きなものの話をしたのは実に久しぶりだったが、そのときの「渋いなぁ」には、嫌な感じがしなかった。

むしろこの言葉が一瞬パッと発光したような気がした。この言葉、今までずっと嫌いだったよなぁ?あれ、何かが違う?という不思議な感覚になった。この文章は、その一瞬の発光したような感覚から、一瞬にして湧いたものだ。

個人的には、彼が主観を一切混ぜなかったこと、無理に否定も肯定もしなかったことが「渋い」という言葉そのものの力を光らせたのだと思った。わたしがようやく、ちょっとだけ大人になっただけかもしれないけれど。

好きなものを語ることと、そこで発する言葉

好きなものを語ることが、長年難しく感じていた。好きなものを好きだと言うのは、傷つくことだと思い込んでしまったのだ。

それは、分かち合える人が少ないというだけでなく、相手の言葉次第で「自分がそれを好きなのは、自然なことではない」と錯覚するからだった。

これまで聞いてきた「渋い」という言葉はきっと、わたしという人間に対してではなくて、その対象物への感想だったのだろう。でも、そのあとに「この人がこれを好むのは不自然である」という主観が投げられることによって、「渋い」という言葉から、好ましくない、喜ばしくない様、自然でない様などのマイナスの意味を強く感じてしまっていたのだと思う。

人が心から好きなもの、愛着のあるものは、その人のアイデンティティを支えている重要なものだ。自分自身でも気づいていない「記憶」との結びつきが強いことだってあるだろう。人の大事なものに、安易な言葉で泥を塗りたくない。

心の中で「ジジ臭い」「変なの」「理解できない」と思ってもらっても、一向にかまわない。でも、そこで付け加える「言葉」は別である。さまざまな意味をもつ言葉を使うときは、慎重に扱いたいものだ。

何も無理して褒めなくていいし、返す言葉に困ったら無理に何か言わなくてもいいのだと思う。わたしは若者がどんなに変わったものを好んでいたとしても、そこに自分の勝手な主観を混ぜた言葉を付け加えないようにしたいと、背筋を正される思いがした。








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