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「絵本を読む」こと「活字を読む」こと

「絵本を読む」とはどういうことか、考えたことはあるだろうか。

わたしは絵本の読み聞かせが好きで、毎日ほとんど欠かさず子どもと絵本を読んでいる。本好きが高じて、今年からは読み聞かせボランティアの活動にも参加するようになり、以前にも増して絵本に触れる機会が増えた。

そんななか、友人に一冊の絵本を勧められた。

『ぽんたのじどうはんばいき』という絵本。幼児向けの絵本で、可愛らしい絵柄、自動販売機というワクワクするような題材が魅力的だと思った。幼稚園や保育園でのオペレッタやパネルシアターなどにアレンジされることも多い、人気の名作である。

ぽんたのじどうはんばいき

小学2年生になる次男へ読んで聞かせると、予想以上に気に入り、毎日のように繰り返し読んでとせがまれるようになった。

しかし、次男はぽんたのこの絵本について不思議な感想を言った。

「ぽんた、かわいそう」

わたしは最初、その言葉がまったくピンとこなかった。かわいそうな描写など、この絵本には出てこない。

そこでわたしははじめて、この絵本をもっとよく理解しようと試みた。 


ほっこりストーリーを「かわいそう」と感じた理由

この絵本のレビューを読んでみたが、「ほっこりする」「優しい気持ちになれる」などの感想が圧倒的に多く、どこにもかわいそうという言葉はなかった。

絵本のあらすじを簡単に。

ぽんたというたぬきの男の子が、箱で自動販売機を作った。葉っぱを入れて欲しいものを言えばなんでも出てくるという貼り紙をする。

森の動物たちが次々とやってきて、それぞれに欲しいものを言う。最初は簡単に相手の欲しいものを出せたが、だんだんと難しい要求が出てくるようになる。そのたびにぽんたは、色々考えて工夫し、お客の欲しいものに応えていく。

最後に女の子のたぬきがやってきて「お友達が欲しい」というお願いをする。ぽんたは、その要求に答えるため、自分自身が出て行って、その子と友達になって森の奥へ入っていくという話。

最後のページは「こわれました、もうなにもでません」と貼り紙された自動販売機の絵で締めくくられている。

わたしは、ぽんたとその女の子が友達になって遊びに出かけていく様子を見て、ハッピーエンドだと思い込んでいた。

次男の「かわいそう」という言葉をヒントに、もう一度「ちゃんと」絵本を読み返してみた。

すると、この話はワクワクする話でも、新しい友達ができるハッピーエンドでもないように思えてきた。

ぽんたは自動販売機をやりたかったのに、その女の子の要求に応えるために友達になった。それによって、自分がやりたかったことができなくなってしまったのだ。

だから、最後のページでは自動販売機をやめてしまった。

わたしは最初、新しい友達ができたから、ぽんたが自分の意志で自動販売機をやめたのだと思った。でも、本当は自動販売機を続けたかったのに、それが叶わなくなっただけなのではないか、とも思えてきた。

絵本を読み返すと、女の子とぽんたの会話のなかに重要なヒントがちゃんと見つかった。

「おともだちができてうれしいわ。」
「ぼくも......。」

ぽんたの言葉に、三点リーダーが入っているではないか。

わたしはこの絵本を「ほんわかハッピーエンドの話」だという先入観をもっていたために、この三点リーダーの存在をまったくスルーしていた。

ここまで理解して、はじめて深い疑問が湧いてきた。

ぽんたは、なぜ自動販売機をやろうと思ったのか。自動販売機で、どんなことをやりたかったのか。

最初は「人を喜ばせよう」と思ってはじめたことだったはず。でも、だんだん苦しくなって、最終的にはもともと自分がやりたかったことをやれなくなってしまった。

次男は、そこに対して「かわいそう」と言ったのだ。

与えることは喜びだが、自分の力量を超えてしまうとそれは苦しみになる。そうなると、最後の「こわれました、もうなにもでません」という言葉のニュアンスも変わってくる。

「もう嫌だ」「ざんねん」という、悲しい叫びにも受け取れる。

わたしがそこまで理解したあとに、もう一度次男とぽんたのことについて話してみた。すると次男はこんなことを言った。

「友達のやりたいことをやると自分のことが進まない。でも、自分のことをやっていると友達のことが進まないんだよ」 

おそらく、人に合わせていると自分のやりたいことができない。自分のやりたいことばかりやっていると友達とうまくいかなくなる。そんなことが言いたいのではないかと解釈した。

人と一緒に生きていくためには、自分を大事にすることと相手を大事にすることのバランスをとらなければならない。今、何を優先するかを考えるのはとても難しいのだ。バランスをとるのって難しいよね。そんな話をした。 

受け取り方ひとつで、ここまで物語の世界は変わるのかと驚いた。

わたしは「活字」を読んでいた

一連の流れを終えて、わたしはふと考えた。
これまで自分は、絵本を読んでいたのではなく、活字を読んでいたのではないか。

確かに本や言葉が好きだし、絵本を子どもたちに読んで聞かせることも好きである。でも、果たしてここまで深く考えて読んだことが、今まであっただろうか。

大して理解もせず、理解しようともせずに、ただ読み上げていたのかもしれないと思った。

正直なところ、わたしは幼児向けの絵本よりも、長くて文字や情報の詰まった高学年向きの絵本を読む方が好きだった。言葉の数が少ない絵本は苦手だった。

文字数や情報量の多い本は、わかりやすい。その本のおもしろさを手っ取り早く見つけることができる。しかし、言葉の数が少ない絵本や、小さな子どもを対象にした絵本は「感じ取る」ことを目的にしているから、情報量は当然少ない。

今までの自分は、活字の上を目で撫でているだけのことが圧倒的に多かったのだと思う。

その点次男は、物語の登場人物の気持ちを想像し、「かわいそう」と同情した。この「かわいそう」が出てくるのは、自分にもそういう経験があったからではないかと思う。

自分の経験と、物語の登場人物を重ねたのだ。だからこそ「自分を大事にすることと、友達を優先すること」の難しさを語ったのだろう。

もちろん、絵本は読み手がそれぞれ違った感情をもってよいものだし、捉え方も自由である。次男の感想が正解でもないし、わたしの考えが正解でもない。

でも「絵本の世界を広げる」とか「物語を読み取る」という、ありがちな言葉の意味を体感したできごとだった。

情報を得ることと、感性を豊かにすることの違い

昔から、たくさん本を読んできたし、国語の授業でも「物語を読み取る」ということをやってきたはずである。それでも、大人になると「活字」や「情報」を重視するようになって、物語の内容を深く読み取ろうとしたり、理解したりできないまま、見過ごしていることがあるのだと思った。

膨大な情報が溢れるこの時代、ネットの記事や本は、端から端までじっくり読まれることは少なくなっただろう。できるだけ短時間で、効率よく情報が伝わるように工夫されている。わたしは普段、そんな仕事をしているので、よけいに「有益な情報」に意識が向いてしまうのである。

そして、それを「感性」と混同することもある。情報をたくさん持っていること、目新しい情報を得ることが「豊かさ」だと思ってしまう。

情報を得ることと、感性を豊かにすることは明らかに真逆のことだ。でも、忙しく大人をやっていると、いつの間にか忘れてしまうのかもしれない。

活字が好きなのと、物語が好きなのは違う。情報にあふれていることと、感性が豊かであることも、違う。

「本を読むって、どういうことなのか」を改めてじっくり考えさせられたできごとであった。


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