かっこつけたかっただけ
小学校のクラスを後にしたあと、静かな廊下をひとり速足で歩く。
この時間は、いつも、夢を見ているような気がする。「なんでわたしはここにいるのか?」「なんでこんなことをしているのか?」そんな気持ちになる。
しかし、どこか温かさに包まれているような感じもしていて、余計に自分のことがわからなくなる。
◇
昨年の夏から、わたしは小学校で絵本の読み聞かせボランティアをしている。週にいちど10分間だけ、持ち回りで各クラスを訪問して絵本を読むのだ。
昨年の7月、学校から息子が持ち帰ってきたお便りのなかに「読み聞かせボランティア募集」の文字を見た。
わたしは、その文字に吸い寄せられ、釘付けになった。
元々、子どもと絵本を読むのが好きだった。幼いころ、母がよく絵本を読んでくれて、好きな絵本もたくさんある。自分で本を読むのも好きだし、本好きであることに言い逃れはできない。
「読み聞かせボランティア募集だって。やってみたい気もするんだけどなぁ」
家族の前で、ひとりごとともつかないようなつぶやきを漏らすと、息子たちが大きく反応した。
「いいじゃん!やりなよ!」
「やってやって!」
わたしの予想とはまったくちがう、明るく跳ねるような声が飛んできたのだ。
「え……そう……?え……」
わたしは戸惑った。こんなに全力で賛成や応援をされたのは、生まれて初めてのような気がした。
でも、人前で絵本を読むなんて。しかも、学校の教団の前に立つなんて。いやいや、あり得ない。自分のそんな姿を想像しては頭を振った。
声は小さいし、表情もリアクションも薄いし、そもそも子どもの相手は得意じゃない。わたしなんかダメダメ。
頭と心の中に浮かんだ「やってみたい」の文字に、訂正線を引く。
しかし、ここで思いとどまった。
普段子どもには
「やってみたいことはどんどんチャレンジしな!」「何事も経験だ!」
とか、それっぽく説教している。
ここでわたしが「いや、やっぱ無理だわ」なんて言ったら、子どもたちに示しがつかないではないか。とんでもなく、かっこ悪いじゃねぇか。そう思った。
その翌日、わたしは学校に読み聞かせボランティアの見学をしたいと連絡した。
わたしは、子どもたちの前でかっこつけたかったんだ。
思わぬ誤算
読み聞かせを初めてみて、わたしは思わぬ誤算に気づく。
わたしは毎日子どもと絵本を読んでいるし、絵本が好きだし、なんとかなるだろう。そう思っていたのだが……
小学校のクラスでそのような役割を担う場合、ただ「読めばいい」というわけではないことに気づく。
「みなさんおはようございます!いやぁ、今日は暑いねぇ~!みんな、元気?」みたいな「つかみ」のトーク、そして読んだ後のまとめというか「締め」のようなトークもしなければいけないことに、やっと気づくのである。
わたしは、本を読む練習ばかりしていて、この「つかみ」とか「読んだ後のまとめトーク」のような、アドリブ的な振舞い方の練習を何もしていなかった。
さて困った。アドリブは苦手中の苦手。人との軽い雑談やら、世間話すらままならないくせに、こんな大勢の子どもの前でのコールアンドレスポンスなんて……しどろもどろもいいところである。
しまった。
読む前に何を言おうか、どんな挨拶をしようか、とある程度のシナリオを考えていっても、それが通用することはあまりない。
子どもたちの雰囲気、反応、発言の内容は未知のもので、コントロールできないものである。そのときどきの反応にあわせて、自分の出方を変えなければならないのである。
わたしに足りないのは、本を読むスキルでもなければ、声量や絵本への愛でもなかったのだ。
「アドリブ力」だった。
それから1年くらいの間、わたしは悪夢を見ながらこの活動に従事していくことになる。
悪夢・妄想との闘い
ここからは、悪夢と妄想との闘いであった。
まず、毎週悪夢を見るようになった。読み聞かせに関する、嫌な夢を見るようになった。
当日朝、読む絵本が決まっていなくて図書室で本を漁っている夢。
読み聞かせをしたあとに、先輩方から「ちょっとさすがにあなたはスキルが低すぎるわ。もうやめてもらったほうがいいね」などと通達を受ける夢。
どれも、自分の力不足を知らしめるような内容の夢ばかり見た。
目が覚めると
「あぁぁぁ~!夢だった……よかった……いや、もう嫌だぁ……」と発狂しそうになる。
おそらく、かなり、苦手なことをやっているんだろうなと思う。
そんな毎日を繰り返していると、だんだん「みんな、わたしのことを悪く思っているのはないか」という妄想が起こってくる。
「やめればいいのに」「来ないほうがいい」「うわぁ、今日この人か」
「この人の読み聞かせはつまらない」「誰?」「そんなことやってないで、子育てに精を出せばいいのに」
みんなが、そうしてわたしを批判しているような妄想に憑りつかれてしまい、人に会うのが怖くなったこともあった。
それでも、わたしには辞めるという選択肢がなかったし、辞めたいとは思わなかった。
休みたいと思ったこともなかった。むしろ、1回1回を味わうようにして行った。予定が詰まっていて厳しいときも、休みたくなかった。こんなにキツいのにどうして、やるのだろう。
それは「できるようになりたい」が強いから。
「できるようになりたい」
苦手なことでも、キツいことでも、わたしは、自分からやりたいと思ったこと、できるまでやりたい性分なのだろう。簡単にいえば、ただの負けず嫌いである。
その「できるようになりたい」というのは、結局自分の中の「かっこつけ」でしかないのだと思う。
読み聞かせをしていて思ったことや、起こった出来事は、子どもたちにほとんど話すことはない。こんな変化があったとか、こんな風な反応をもらえてうれしかったとか、もちろんよい報告はいくつもあるけれど、それは誰にも話していない。
やりたいと思ったことをやってみた結果は、楽しいばかりではない。つらいししんどいし、楽しいと感じるのは全体の5%くらいである。きっと、何事もそうなのだと思う。
でもそれを子どもたちに教訓としては話す気持ちにはなれなないので、何も言わない。淡々と、毎週出かけていくだけである。
でも、やっぱり「できるようになりたい」という気持ちは強い。何よりも強いと思っている。
1年と3ヵ月経った今でも、毎週緊張しているし、どんな風にその10分間を過ごすかというのは未知数である。
でも、わたしは、子どもたちに
いや、自分自身にたいして
「かっこつけたかっただけ」で、数年前の自分では考えられないようなことを毎週やっているんだなぁと思う。
だから、いつも本を読んだ後に学校の廊下を歩いていると「なんでわたしはここにいるのか?」「なんでこんなことをしているのか?」という変な気持ちになるのだ。
そしてきっと、それを上回るような達成感と、温かさと、高揚感があるからこそ、この活動を続けているし、今後も続けていくのだろうなと、まるで他人事のように思うのである。
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