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としくん家のトマト

夏野菜の代表、トマト。


私は、トマトが食べられない。

トマトが最高に美味しいと言われる、イタリアやギリシャなどの地中海地域にせっかく縁があったのに、残念ながら固形のトマトが今でも食べられないのだ。


トマトと言えば思い出す、あの事件。

田舎育ちにしては、嫌いな野菜が多かったわたし。

ところが幼稚園では農家の子どもが多く、おじいちゃんたちが家で作った野菜を差し入れてくれる。

おやつの時間になると、茹でたとうもろこし、とれたてのきゅうりにマヨネーズ、ふかし芋など、季節によって旬な野菜が毎日のように出される。

あまり好きではないがこれらの野菜は、息を止めて飲み込んでしまえばなんとかなった。


ある日農家のとしくん家から新鮮で大きなトマトがたくさん届いたそうで、その日のおやつは不運にもトマトになった。

としくん家が大盤振る舞いをしてくれたおかげで、なんと成人男性の拳1個分はあろうかという巨大なトマトが1人1個配られた。


「嗚呼、なんで今日わたしは幼稚園に来てしまったのだろう」

と、プラスチックのお皿に載せられたとしくんのトマトを見つめながら、果てしない後悔の念を抱いていた。

何の罪もないトマトよ、わたしの元にさえ来なければ美味しく誰かが食べてくれるのに、なんかごめんね。

友だちと呼べる子がいないわたしは、この無念さを誰にもシェアなど出来ず、おやつの時間をこのトマトと過ごすことになってしまった。

「無」とは、きっとこのことなんだろう。

ただひたすら無言でその巨大な天敵を見つめて過ごした。


周りからは、

「わぁ!めっちゃおいしい!」
「もう1個食べたい!」
「としくん、ありがとう!」

など、としくんのトマトへ賞賛の声が響いていた。


みんなは大好きなおいしいトマトをかじって、とても幸せそうだ。

笑顔がほころんでいる。


わたしはといえば、みんなが1口かじるたびに教室中に充満していく、あの青臭い匂いに耐えられず、人知れず吐きそうになっていた。


トマト VS Natsumi


こんなに見つめ続けているのに、穴でも空いて消えてなくなってくれればいいのに、わたしのトマトだけが綺麗な真ん丸のままだった。


そうこうしている内に、「ごちそうさまでした」と大きな声を出し、立ち上がる子が増えていった。

食べ終わった子からお皿を洗い、遊びに行っている。


気付けばもう半分以上の子が、この教室からいなくなっていた。

これはまずい。


もし仮にこのまま最後まで残ってしまおうもんなら、あの教諭に詰められてしまうんだろう。

「なんで1口も食べてないの!?」

などと言われ、食べることを強要されるなんてたまったもんじゃない。


それを恐れたわたしは、勇気を出して試しに1口かじってみた。

ヘタが下になっていたので、先の尖っている部分を少しだけ。



一瞬で口の中に広がる、あの青臭さ。

カブトムシごっこでもさせられているのかと思うような、土の存在を感じる味と香りに侵食され、さっきまでの吐き気がピークに達した。

なんとか最後の力を振り絞って、口の中にまだ存在しているその先っぽだけは喉を通過させた。


人間、生きていると「どうしても無理なもの」に遭遇するものだ。

それがわたしにとってはトマトだった、それだけの話である。


しかも、一度は食べてみた。

密かに吐き気に支配されながらも試してみた自分を、今となっては褒め称えたい。


あの時のわたしはあの狭くて青臭い教室の中で、静かに、必死に、トマトとタイマンで戦っていたのだ。


「もう無理だ」

巨大トマトを諦めることにした。


次のミッションは、気付かれない内に捨ててお皿を洗うこと。

それをするには、最後まで残って目立ってはいけない。


わたしは他の食べ終わった子たちに紛れ、小さな手でそっと巨大トマトを覆い隠しながら席を立った。

入口のすぐ横に、大きく深いゴミ箱があるのは確認済。


「としくん家のお父さんお母さん、トマトさん、ごめんなさい」

そう心で唱えながら、わたしはあくまで自然に、音を立てないようにそっとトマトをゴミ箱に入れることに成功した。


ああ、おやつの時間中ずっと苦しめられたこのトマトが自分の手からやっと離れてくれた!

あとはこのお皿を洗うだけだ。


わたしの心に青空が広がったのも束の間。


「あら!なっちゃんトマト食べれたん?」


さっきまで教室の隅っこにいたあの教諭が現れ、空っぽになったわたしのお皿を見ながらそう尋ねてきた。


ぎくりとし、一瞬心臓が張り裂けそうになったものの、わたしはうつむいたまま

「うん」

と頷いた。


嘘をつくのは嫌だけど、そもそもこの教諭と何かを話すことすら恐ろしくてたまらなかったのだ。


もう今にも心臓が割れてしまうんじゃないかと思うほどの鼓動を感じながら、トマトに別れを告げたお皿を持って手洗い場に行こうとした瞬間、

「ちょっと待って、これは何?」


わたしを呼び止めた教諭の手には、先っぽにわたしの歯型のくっきりついたトマトが握りしめられていた。

ということは、彼女はゴミ箱の中を漁ってこれを発見したことになる。


捨てるところを見られていたのか、怪しんでゴミ箱を漁ったのかはわからないが、そんなことはどうでもいい。

問題は、今から確実にわたしはこの人と何かを話さなければいけない、ということだ。


みんなが通る教室の入口で彼女はわたしの目線に合わせてしゃがみ込み、わたしの腕をがっしりと掴んだ。

腕が痛い。


こんなに近くで顔を見るのは初めてな上に、彼女は明らかに怒っている。

小さく大人しいわたしは、恐怖におののいた。

彼女の顔は、わたしにとって般若のお面のように見えていたのだ。


「なんで食べたって嘘ついたん?捨てたんやろ?」


至近距離の般若が、大きな声で詰めてくる。


わたしは何も答えられず、腕を掴んできている般若の顔さえ見れず、うつむいたまま自分の上履きをじっと見つめていた。


ここを通るみんながわたしを見ているのがわかる。

誰かが「先生どうしたん?」と聞いてきたりしている。

それでも般若はわたしから離れず、わたしが何か言うのを待っているようだ。


しばらくしても無言のわたしにしびれを切らし、

「としくん家のお父さんお母さんが一生懸命育てたトマトを捨てるって、どういうつもりなん!?」


般若がわたしを大声で怒鳴る。


絶対に知らないだろうけど、捨てる前に「ごめんね」って心の中で言ったんだよ。

トマトと、としくんのお父さんお母さんには謝ったよ。

申し訳ないと思ってるよ。

かじってみたよ。

でも、どうしても無理だったんだ。


そう心の中で言っている内に、見つめている上履きが涙で滲んで名前が読めなくなった。


何も言わないわたしに般若は遂に愛想を尽かし、解放された。



大人になるにつれて、「思ったことを口にすること」は全く苦なく堂々とできるようになった。

だけどあの頃のわたしは、とにかく無口で何を考えているのかわからない、おとなしく地味で目立たない子だった。


大人のみならず、周りのみんなと話すのも苦手で恐かった。

自分が思っていることや喜怒哀楽を表現できない子だった。


だから、大人になった今でも当時のわたしのような子を見つけると、そっとそばにいてあげたくなる。

詰め寄って無理矢理心をガバッと開こうとするのはご法度。


こういうタイプの子はその人が本当に信頼できる人なのか、心を開いても大丈夫なのかをしっかり警戒して観察している。

そして、大人が想像しているより遥かに大人の感覚に近い。


実際わたしはずっと長い間、周りの子たちが幼すぎて全然おもしろくないと思っていた。

なんというか、中身がないことでそんなに笑ったり楽しかったりすることが不思議で仕方がなかったのだ。

社会人になって”友だちの枠”が大きく広がり選べるようになってから、はじめて心から楽しい!と思えたような気がする。



ご自身のお子さんや、自分がそんな風に感じている10代20代の子たち。

絶対に大丈夫、あなたが楽しい!って感じる世界は必ず存在するんだって、信じてほしい。


あんなに無口で人が恐かったわたしが、たくさんの接客業を経て、海外に出て世界中の人に出会って、YouTubeチャンネルで喋りまくってたりするんだから。


「自分の人生を思い込まない」こと。

思い込みで自分を雁字搦めにしたり、どうせこんなもんだろうって限界を決めたり、そんなことは必要ない。

あなたがあなたを諦めない限り、”一番キレイに咲ける場所”は、きっと見つかるから。



最後の締めくくりが、としくんのトマトの話から思いっきりそれてしまいましたが。笑

夏になったら思い出す、幼きわたしの大事件簿でした!

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