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ミステリー小説から学ぶ日系アメリカ人の歴史(シカゴ編)

いよいよシカゴへ

次のデスティネーションはシカゴ。そう決めていた。

ナオミ・ヒラハラ氏のミステリー小説「CLARK AND DIVISION」とその続編「EVERGREEN」が私をLAに導いてくれたことは、LA編で執筆したとおりである。

この旅の締めくくりで、ヒラハラ氏やシカゴ関係者と実際に会い、次はシカゴに行こうと決めていた。しかしいつ行くべきか、タイミングを決めかねていたところに、全米日系人博物館のMさんから連絡があった。

「4月にシカゴに出張するので、CLARK AND DIVISON めぐりをしませんか?ナオミがエリック・マツナガ氏を紹介してくれるそうです」
(※ナオミとは作家のナオミ・ヒラハラ氏のこと。)

タイムリーなサプライズ。もちろん答えはイエス。やはり彼女は私の日系人歴史探訪のキーパーソンである。そして我々にエリック・マツナガ氏という新たなキーパーソンを紹介してくれるというヒラハラ氏にも感謝である。

というわけで、4月中旬のある週末、シカゴに飛んだ。

エリック・マツナガ氏との出会い

今回、我々のためにCLARK AND DIVISIONツアーを企画、案内してくれたのは、シカゴの日系人コミュニティの歴史調査をしているエリック・マツナガ(Erik Matsunaga)氏である。彼の祖父母は日系二世で、強制収容所を出た後、当時まだ幼かった息子、すなわちマツナガ氏の父親を連れ、1945年にシカゴに移り住んだという。ヒラハラ氏も彼のツアーを通じて、CLARK AND DIVISONを書くための構想を練ったという。

ツアーの冒頭、マツナガ氏から資料が手渡された。そこには、戦中戦後にシカゴに移り住んだ日系人の歴史や、CLARK AND DIVISION周辺の日系人ゆかりの地をまとめた地図、それぞれの場所の今と昔を比べた写真と解説がおさめられていた。

マツナガ氏が今回のツアーのために作成してくれた資料の一部

マツナガ氏は、Discover Nikkei というサイトでも、シカゴの日系人コミュニティの歴史について解説する記事を執筆しており、CLARK AND DIVISIONに関するものもある。

シカゴに「再配置(relocate)」された日系人

今回のツアーを振り返る前に、マツナガ氏が作成してくれた今回のツアーに関する資料や、Discover Nikkeiに掲載された彼の記事をもとに、戦中戦後にシカゴに「再配置(relocate)」されて移り住んだ日系人の歴史を簡単に解説しておきたい。

真珠湾攻撃後、1942年の大統領令9066号により、西海岸に住む日系人約12万人が強制収容所に送られた。しかし、1943年以降、就職や進学のために強制収容所から条件付きで出られるようになると、生まれも育ちもアメリカの二世たちの多くが、経済的な富や充実した教育を求めてシカゴを目指した。彼らは西海岸に戻ることは許されなかったが、シカゴをはじめとするいくつかの都市に「再配置」され、新たな人生を歩む道が与えられた。戦前には400人ほどしかいなかったシカゴの日系人は、このように「再配置」された日系人たちが移住してきたことで、1945年までに約2万人に増えたという。

当時、米当局は、日系人に対し、西海岸にあったような日系人街に集中して住むのではなく、分散してアメリカ社会に溶け込むよう勧告していた。日本語という特殊な言語を話し、独特な文化・習慣を持つ日本人たちは、米当局にとっては、何を考えているか分からない不気味な存在であり、集まると何をしでかすか予測もつかない恐怖の対象として認識されていたのだろう。しかし、短期間のうちに膨大に、かつ、連鎖的に移住者が押し寄せた結果として、シカゴには2つの大きな日系人街が形成された。マツナガ氏によると、新たに移住してきた日系人がアメリカ人社会に溶け込もうとしても、実際には日系人に部屋を貸してくれる家主がいなかったりと差別も酷く、結局は日系人同士のコネクションが生活立ち上げ時の重要な基盤にならざるを得なかったという。結果として多くの日系人が同じアパートや近所に住むことになり、コミュニティが形成されていった。当局の思惑とは矛盾する状況が生じたのである。

その2大日系人街の一つがまさに、CLARK AND DIVISION 、すなわち、クラーク通りとディビジョン通りが交差するエリアに存在していた。その後、このエリアには、約20年にわたり、200軒を超える日系人が運営する商店等が存在し、近隣には数千人の住民が住んでいたという。

また、当時のCLARK AND DIVIDION一帯は、東側の裕福なエリアと西側の貧しい地区の間のいわば空白地帯にあたり、ナイトクラブ、バー、賭博場、売春宿がひしめく、いわゆる悪徳の街であったという。収容所から移住してきた多くの西海岸出身の日系人たちにとって、武装監視下で砂漠地帯の収容所に閉じ込められるよりは、新天地での条件付きの自由のほうがましだったのかもしれないが、当時のそのような陰鬱かつ退廃した雰囲気の都心部での生活は、異質で不安なものであっただろう、とマツナガ氏は述べている。小説の中でも、カリフォルニアでは比較的裕福な暮らしを送っていた主人公アキ一家が、路上にネズミが走る街の一角にあるアパートで戸惑いながらも新生活をスタートさせる様子が描かれていた。

そのような中でも、移住者たちは、新天地で仕事を得て、経済的安定を目指して努力した。生活が落ち着いてくると、結婚し、家庭も築いていった。その後、CLARK AND DIVISIONの再開発が進むと、高度な教育を受け、専門職として成功した二世たちは、そこから3マイルほど北上したレイクビューエリアに移住していったという。それにともない、CLARK AND DIVISIONの日系人街も消滅していった。

現在のCLARK AND DIVISIONは、比較的裕福なコミュニティとなっており、かつての悪徳の街の面影はない。日本人街もなくなってしまったが、幸いなことに、いくつかの建物は当時のそのままの姿で残っている。

いざ、CLARK AND DIVISION ツアーへ

では、そのように今も残る建物を中心に巡りながら、小説で描かれた主人公一家や、そのモチーフとなった実在の日系人たちの当時の置かれた環境や暮らしぶりに思いを馳せてみることにしよう。

まず、CLARK 通りの西側に並行して走るLaSalle 通りに向かった。そこには、小ぶりながらも頑丈に作られたビルが、現代的なビルの間にたたずんでいた。

当時ローズのような若い日系人女性たちはこんなアパートに住んでいたのだろうか。

当時、もともと西海岸でホテルビジネス等で成功していた日系人たちは、そのビジネスの才覚や幾ばくかの資本を活用して、シカゴでも不動産投資を積極的に行い、シカゴに移住してくる日系人たちに部屋を貸していたという。このビルも当時は、もともとLA出身で、ハートマウンテン強制収容所を経てCLARK AND DIVIDIONに移住してきたタナベファミリーが所有する物件で、新たに移住してきた日系人たちに貸し出されていたものである。

上記ビルの当時の広告。「Relocatees」向けとなっている。(マツナガ氏提供資料より)

この建物そのものがローズの住むアパートの直接のモチーフとなったわけではないとのことであったが、マツナガ氏も指摘するように、周辺に残る当時の建物の多くがこのようなタイプのものであり、おそらく当時このようなビルに、ローズのような若い日系人女性たちが住んでいたのではないかと推測されるとのことであった。

小説では、主人公アキの姉ローズが、マンザナー強制収容所から家族よりも先に出てシカゴに「再配置」されて移住した際、二人の日系人ルームメートと共に、このような雰囲気の3階建てのビルに住んでいた。アキがこのアパートを訪ねた際には、入口にハンマーやマンジュ―のようなゴロツキたちがうろついていた。

次に向かったのはClark/Division駅。まさにCLARK AND DIVISIONという本の題名そのものであり、ミステリーの主題となる事件が起こった場所である。

現在の駅の入り口

Clark/Division地下鉄駅は、1943年10月に開設され、当時この駅周辺のエリアは、移住してきた日系人たちの活動の中心地として賑わっていた。

小説では、アキがローズの身に起こった悲しい事件の真相に挑むために何度も足を運んでいたが、日系人たちがまさに生活の足として使う様子も描かれていた。

実際に駅のホームに足を踏み入れてみると、改修はされているものの、構造自体は当時のままのものとみられ、歴史が感じられた。薄暗くひんやりとした雰囲気が、小説の中のストーリーともマッチしていると思った。

2012年に改修されているが、構造などは当時のままと思われる。

Clark/Division駅から出てすぐのところに、「マークトウェインホテル(The Mark Twain Hotel)」があった。小説でもアキがローズの足取りを追う中で訪ねるが、その後も美容院を利用したりと日常の中で何度も出入りする場所である。

「マークトウェインホテル」の現在の姿

この「マークトウェインホテル」は実在していた。1930年代にレジデンシャルホテルとしてオープンし、その後、2017年には国家歴史登録財(National Register of Historic Places)に指定されたという。2020年にリノベーションが完了し、現在もアパートメントとして使用されている。

小説では、家族に先駆けてシカゴでの生活をスタートさせたローズが、強制収容所の家族のもとに送った絵葉書に、まさにこのマークトウェインホテルが描かれていた。ローズはこのホテルから徒歩ですぐのところに住み、キャンディ工場で働いており、アキたちがシカゴに来れば一緒に暮らせる部屋を探しているとその絵葉書で綴っていた。玄関を入ってすぐのところにある美容院Beauty Box は、ローズもアキも通っていたが、そのBeauty Boxも実在していた。マツナガ氏の資料によると、シカゴに移住してきた二世のジョー・ソトムラ氏がオープンしたものだという。アキたちもそうであったが、当時の日系人女性たちにとっても、髪を切ったりおしゃれを楽しむ場所であったのだろう。

マークトウェインホテルの正面玄関の様子。住所は「The Mark Twain 111」となっている。 

次に、アキ一家が住むことになったアパートのモチーフとされるラサールマンション(LaSalle Mansion)を訪ねた。後から来る家族のためにローズがあらかじめ見つけておさえていた物件という設定であった。このビルは現在もコンドミニアムとして使用されている。

現在の「LaSalle Mansion」

小説の中では「LaSalle Mansion」という名前こそ出てこないが、この建物は当時、カネコファミリーが所有、運営しており、多くの日系人が住んでいたという。カネコファミリーは、元々はオレゴン出身だったが、トゥーリーレイク強制収容所を経て、シカゴに「再配置」されて移住し、不動産業を営んでいた。

Discover Nikkei に掲載されたマツナガ氏の記事には、当時このLaSalle Mansionに実際に住んでいたモトツグ・モリタ氏の証言が収められており、当時この界隈がいかに日系人街として賑わっていたかをうかがい知ることができる。

「CLARK AND DIVISIONが私にとって居心地のよい場所だったのは、調理済みの総菜や新鮮な日本食を提供する日本人経営のレストランや食料品店、理髪店、靴修理店、ドライクリーニング店、二世の医師、歯科医、眼科医、宝石店、旅行代理店、会計士、職業紹介所等、自分にとって馴染みの場所に簡単にアクセスできたからだ。また、収容所に入れられていた同級生やその家族といった、よく知っている顔も沢山あった。」

LaSalle Mansionの入り口前で撮られた写真。右の二人がモリタ兄弟(左がモトツグ氏)。(Discover Nikkeiのマツナガ氏の記事より)

そこにはモリタ氏がLaSalle Mansion前で友人たちと写った写真も掲載されいていた。若者たちの笑顔が印象的である。彼らが立つまさにその位置で私も足を止め、この写真を見ていると、約80年の時を超えて、彼らの笑い声が聞こえてくるような気がした。彼らは、歴史に翻弄される中で辿り着いたシカゴという新天地で、きっと苦労も多かったはずだが、時には仲間同士で笑い合いもしながら、懸命に生きていたのである。

次に、アキが働いていたニューベリー図書館(Newberry Library)を訪れた。図書館の前には、小説の中で、ある日系二世の若者が「Bughouse Square」とアキに伝えていた庭園があった。それを聞いたアキは、ペストでも流行っているのかと不安になっていたが、実際に訪れてみると、Bug(ノミなどの小さな虫)がいるような雰囲気はなく、噴水やベンチもあり、昼休みにはランチをとったり、同僚たちと語り合う場となっていた。我々が訪れた日は天気も良く、春の陽射しの中で、穏やかな時間が流れていた。

小説で「Bughouse Square」といわれた庭園。奥に見えるのがニューベリー図書館。

図書館の入り口まで行くと、その重厚感に圧倒された。小説の中でアキが初めてこの建物に足を踏み入れたシーンを思い出した。宮殿のような作りの建物に入り、擦り切れたヒールで階段をのぼりながら、元の姿に戻る前のシンデレラになったような気分になったというくだりである。砂漠地帯の収容所のバラックにいた自分がまさかこんな場所で働くことになるなんて!とアキはその現実をなかなか呑み込めずにいた。

ニューベリー図書館の玄関

このニューベーリー図書館は、1887年に、シカゴの実業家で慈善家のウォルター・ルーミス・ニューベリー(Walter Loomis Newberry)氏の遺贈により設立されたという。

そして驚くことに、マツナガ氏によると、アキのように当時この図書館で実際に働いていた女性がいたというのである。スー・クニトミ氏という日系人女性である。彼女もまさにこの「再配置」の時代にこの図書館で働き、小説の中でのアキと同じく、ナンシーとフィリスのような白人と黒人の二人の女性の同僚と友人関係を築いたという。

スー・クニトミ氏が立っていた場所で

図書館の入り口で、スー・クニトミ氏がまさにその場所で撮った写真を見せてもらいながら、アキのような女性が確かにそこにいたのだという実感を嚙み締めることができた。

最後にマツナガ氏は、CLARK AND DIVISIONエリアから車で約30分のところに位置するモントローズ墓地(Montrose Cemetery) にも我々を案内してくれた。

Montrose Cemeteryの日本人霊廟と墓地

小説ではここにローズの遺骨が納められており、アキが墓参りに来ていた。そしてまさにこの場所で、将来の夫になるアートと出会うのである。

このMontrose Cemeteryにある日本人霊廟(Japanese Mausoleum) は、日本人互助会(Japanese Mutual Aid Society)によって1937年に建てられたものである。この互助会のHPによると、戦前のシカゴでは、日本から身一つで移住してきた身寄りのない独身者が、レストランのシェフや従業員等として働くケースが多かったという。そのような状況で生まれたのがこの互助会であり、身寄りのない日系人の墓を用意したり、戦中戦後には、アキたちのように「再配置」された移住者たちにも住居を提供する等、日系人コミュニティの助け合いのための組織として活動したという。小説の中で、アキは、互助会のヨシザキ氏に、ローズの遺骨を安置できる場所を提供してもらうよう協力を求め、ヨシザキ氏はそれを快諾していた。当時、日系人は白人とは同じ墓地に葬ることは許されず、火葬して納骨していたという。

LAのEvergreen墓地を訪れた時にも感じたことだが、亡くなった人をどのように葬るかという、どのコミュニティでも必ず直面する課題に共に取り組むことが、互助会のようなシステムを生み、それが日々の生活の中でもお互いに助け合うために機能してく関係というものについて改めて考えさせられた。

現在もこの日本人霊廟では、5月のメモリアルデーにセレモニーが行われている。

小説をきっかけに始まった歴史探索、その面白さとは?

今回のCLARK AND DIVISION聖地巡礼の旅は、エリック・マツナガ氏との出会いもあり、LAで「次はシカゴ」と決めた時には想像もつかなったほど充実したものとなった。最後に皆でシカゴドッグを頬張りながら、日系人の足跡を辿る喜びを共有できたのも嬉しいひとときであった。

当時のCLARK AND DIVISIONは、陰鬱で混沌とした雰囲気であったのかもしれない。しかし確実にそこには、未来への希望を胸に、逞しく奮闘した日系人たちがいた。酷い差別を受け、イチから人生を出直すことを強いられるという理不尽な状況の中でも、進学、就職、友情、恋愛、結婚、子育てといったライフイベントを経る中で、お互いに助け合う関係性が生まれ、それがコミュニティとして発展し、彼らの街となっていったのである。それは、マツナガ氏の記事に掲載されている当時の人々の証言や写真からもうかがえる。

「CLARK AND DIVISIONでは、皆が同じ状況だった。楽ではなかった。でも、収容所に閉じ込められるよりずっとましだった」マツナガ氏の祖母の言葉である。

ヒラハラ氏の小説はフィクションだが、実在の人物や組織の歴史を丹念にリサーチした上で書かれているため、日系人が実際に歩んだ歴史を学ぶことができる。何よりミステリーなので面白く、ストーリーにも引き込まれ、登場する人物や場所についての興味も沸きやすい。そして今回のように、その場所を実際に訪れ、当時の彼らがまさにいたその空間に身を置いてみると、小説で思い描いた情景をリアルなものとして胸に刻むことができた。

次のデスティネーションは?

さあ、次のデスティネーションはどこに?

ちなみに3月に訪れたミネアポリスでは、MISという新たな学びがあった。

ヒラハラ氏の続編も待ちきれないが、アメリカにはまだ私が知らない、知るべき日系人の歴史の世界が広がっている。ここにいる間、もっと「知る」ためのアンテナを張ってみようと思った。アメリカ生活3年目。日系人たちの歴史を知ることで、見えてくる世界は確実に奥行きを持った形で変化している。今住むニューヨークの日系人の歴史も調べてみよう。そこで得られた情報がまた新たな旅の行先にも繋がるだろう。どんな世界が待っているのか。ますます楽しみになってきた。


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