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[小説]『朔の日 歌う月の鳥』②

<第二話 チョコレート>

 カフェ「朔(ついたち)」は、以前も飲食店だった居抜き物件で、壁に水槽がはめこまれていた。水槽の向こう側はメンテナンス用のスペースになっていて、二階のロフト付きワンルームへ続くらせん階段がある。
「まさかこんなことになるなんてねー」
 この店舗兼住宅の大家である森さんは、ティーポットの横に置かれた砂時計をつまみ、さらさら落ちる青い砂を眺めながらつぶやく。砂時計をかざした向こうにあるのは水槽だ。
「これからも、大好きな熱帯魚が見られると思っていたのに」
 店をオープンして二年、このぼやきにはすっかり慣れてしまった。かつて水槽だった場所は、いまや猫の住処になっている。
「よりによって、なんで猫なのよ。魚を愛するあたしには天敵よ、天敵」
 とはいえ、カフェと居住エリアを完全に仕切る壁に埋め込まれている水槽なので、衛生面では問題はない。トイレも二階に置いてある。猫が出入りできるように部屋に面したガラスを外し、猫の足に負担のかからない専用床材を底に張ったシンプルな空間で、猫は気ままに一日を過ごしている。
「いたいた、モリエさん」
 勝手口のドアが開く音に、すぐ森さんは身構えて「モリエじゃなくて森理恵」と訂正する。これもいつものやりとりだ。
「また兄ちゃんが配達か。ダイキチは何してんの」
 ダイキチとは林ファームの社長の名前だ。ふたりは幼なじみで、森さんはずっと林ファームの野菜を仕入れていたので、その縁をそのままゆずってもらっていた。
「モリエさんにもし会ったら、よろしく伝えてくれと言われました」
「あっそう」
「おやっさんは、オンラインショップを始める話から、いっそみんなで農産物おまかせパックの定期便をやろうかという展開になって、バタバタしてます」
「ふーん、老体ムチうって楽しくやってるのね」
「モリエさんが淋しそうにしていたって、伝えておきますね」
「ちょっ、やめてよ」あわててポットからカップに注いだ森さんが、あちちちと指をさする。つい三年前までここで切り盛りしていた人の指は、しわが刻まれているけれど美しく手入れされている。仕事を辞めた時に、やりたい事リストを表にした、と見せてくれた中にあったのがネイルアートだった。てっきりネイルサロンに行くと思っていたから、ネイルスクールに通って検定三級に合格した時は驚いた。以来、森さんの爪には、いつもネイルアートが施されている。
 鳥海君が立ち去った後の静けさは独特の空気だ。
「ダイキチのやつ、リタイアしたらやりたい事リストを挙げていたのに」
「え、林さんも?」
「そう。五年位前から考えていたのよ。いつも配達に来ては一服していったんだけどね、年中無休で働いていたから、全国を回りたいって。温泉だの、競馬場だの、城だの。でもあの兄ちゃんの登場で続けることになったでしょ。結局、店を畳んだのはあたしだけ」
 森さんは、ふてくされた顔で、もう出番が終わった砂時計をひっくり返した。
「おふたりで温泉巡りする約束をしてらしたんですか」
「向こうはただの世間話なんでしょうよ。けどね、八十近くになって周りを見渡してごらん。足腰しっかりした旅のお供なんて、そういやしないのよ。だったらついていけるの、あたしぐらいじゃないの」
 森さんはいつだったか、草津温泉の温泉ソムリエ認定ツアーに行ったことがある。観光も兼ねた一石二鳥のツアーだと、認定者だけが持てる温泉グッズを見せてくれた。
「素敵です。今なら、鳥海君がかなり戦力になっているから、行けるんじゃないですか?声をかけてみたらいかがですか」
「なんであたしから。ここにさえ顔を出さない人なんかに」
 林ファームの配達時間は朝一番か夕方で、森さんが来るのもいつもそのどちらかだ。ツンと話す森さんがかわいくみえる。閉店理由はひとつではないにしろ、背中を押すきっかけになるほどの話だったのだ。森さんは、帰る合図のように、食器をカウンターの奥に少しずらして「じゃ、聞くけど」と、きりっと目を向ける。
「あなたがあたしの立場だったら、自分から誘う?」
「いいえ」即座に首を横に振る。
「でしょう」森さんは立ち上がり「どいつもこいつも、こまったもんだわ」と、あおむけに寝ている水槽の猫を見た。
 
☆ ☆ ☆
 
「うわー、俺のせいじゃん!!!」
 予想通りに、頭を抱えて鳥海君はカウンターに突っ伏した。
「まあまあ。これランチの余りだけど食べて」
 ほうれん草とひじきのキッシュを出すと、「うわ、うまそう!!!」とすぐフォークを手に取った。
「つまり、ふたりをくっつける作戦会議を今からしようってことですよね!」
 子どもか、と突っ込みたくなるが、実際鳥海君は週末に来るバイトの滝君と変わらない歳だったと思い直す。二十代でも六歳差は大きい。
「ただふたりが話せたらなって思っただけ」
「まあ確かに、おやっさんはバツイチだし、そのへんどう考えてるかわかんないですよね」
「ああ、そうなんだ」
「農業ってキツイでしょ。奥さん、一年も経たないうちに出て行ってしまったんだって。その頃は先代もいて、今のような多品目栽培だけじゃなくて、稲作もやっていたそうで」
 鳥海君の情報に対して、私は森さんのそういった情報を持っていない。ますます部外者もいいとこだ。
 
 だが、その日は意外と早くおとずれた。農業フェスタに林ファームが出店することになり、野菜だけでなくお菓子も売りたいと林さんから相談があったのだ。それなら打ち合わせの段階でいくつか試作を用意して、第三者に感想をもらいたい。森さんに主旨を伝えると、二つ返事で引き受けてくれた。
「閉店後に悪いね」そう言って入ってきた作業服の林さんは、森さんをちらと見て「よっ」と手をあげた。
 森さんがふふ、と笑い返す。今日のファッションはオレンジのロングシャツに白のサブリナパンツ。首元のシフォンスカーフは大ぶりの花柄で、足を組んで座る様がカッコいい。
「どこの大女優かと思ったよ。元気だったか」
「ぼちぼちね。ダイキチは」
「まぁぼちぼちだわ」
 ごぼうのシフォンケーキやズッキーニのパウンドケーキなど、試作したケーキやクッキーを食べては感想を言い合う雰囲気に、調理製菓専門学校時代の学園祭を思い出す。一通り意見が出揃ったところで鳥海君が「さっきの「ぼちぼち」って挨拶、あちこちで良く聞くんですけど、どんな感じで言ってるんですか」と時間を巻き戻す。
 鳥海君の言葉に、一瞬林さんも森さんもきょとんとした。
「そうだなあ、俺のぼちぼち・・・」頭をかいてしばし考える。
「八十歳になったんだけどさあ、書類に八十って書いたり見たりすると、うわーって思うんだわ。実際、身体はあちこち言うこと聞かないんだけどさ。でもまあ、トリ、おまえさんが来てくれたおかげで、くたびれながらも楽しくやってる。この歳になっても、やりたいことがまだ出てくるのは面白いもんだな」
 林さんは「っていう、ぼちぼちかな?」と森さんをちらりと見る。
「あんたはずーっと、子どもの頃から変わらないよ。見た目は昔話のおじいさんになったけどさ。生涯現役が似合うよ」
 森さんは小松菜ムースを手のひらに包むようにして眺めた。
「あたしのぼちぼちも、似たようなものかねえ。やりたいことが出てくると、ほっとするの。性分なのかしら」
「モリエは昔からなんでも出来たからな。逆にすぐに飽きてもいたな」
「やってみなくちゃ好き嫌いも向き不向きもわかんないじゃない。ダイキチはバカがつくほど野菜ひと筋で、脇目もふらずまだやってる。おみそれするわ」
「こいつはすまして見えるけど、泣き虫でさ。学校でひとりひと鉢、朝顔を育てたことあるだろ、あれにアブラムシがついてるの見てギャーギャー大変でさ。夏休みの前に持ち帰る時に、さわれないって俺に運ばせたんだぜ」
「なによ、お礼に外国のチョコレートあげるって言ったらホイホイ引き受けたくせに」
「あれ、あんまりうまくなかったなあ。今だから言うけどよ」
「何言ってんのよ、うめーうめーってひと箱全部たいらげたくせに!」
「気取った菓子は口に合わないんだよな。10円チョコの方がうまかったなー」
「はあ?」
「はいそこまでー」鳥海君が割って入り、「うらやましいなー、一気に七十年遡ってチョコのことで喧嘩できるなんて。俺、今からでも幼なじみが欲しい」と言って笑いを誘った。
 
 鳥海君と林さんが帰ったあと、森さんは「キッチンをちょっと借りるよ」と持参した保冷バッグからあれこれ出して、焼きおにぎりの出汁茶漬けを作ってくれた。
「仕事の合間に試作するのは大変だったでしょ、ひと息つきましょ。甘いものばかり食べたあとは、こういうのがごちそう」
 森さんの店のメニューにもあったという出汁茶漬けは、焼きおにぎりの香ばしさがふわっと来てほっとする。小口ねぎまで切って、パックに詰めてきてくれたことに、森さんの細やかな気遣いが見える。本当にこの大家さんに出逢えて良かった。林さんとの旅行を夢見て、店を辞めることにしたからこそのご縁と思うと、森さんの夢がまだ叶っていないことについては複雑だけれど。
「今日は呼んでくれてありがと。楽しかったわ」
「こちらこそ、助かりました。農業フェスタの出品も方向性が決まったし」
「もう、温泉なんてどうでも良くなっちゃった」
「え」
「どんな”あの頃”にでも戻れる間柄って、面白いわよね」森さんはテーブルのごみを片付けて、帰り支度を始めた。
「二時間ほどでもうじゅうぶん幸せになっちゃった。あーおなかいっぱい」
 ごみを受け取ろうとする私を制して、森さんは「またね」と手をひらひらさせてドアの向こうに行ってしまった。凜とした後ろ姿は数歩行くと止まり、うつむいてスカーフを直した。嬉しいのか、強がっているのか、巻き直されたスカーフの端は、ふたたびふわりと揺れ始めた。
 
<第二話 完>


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